ハンナ・スチュワート
イーサンが叔母であるミリアーナ・クリンフォッド侯爵夫人に会いにいったのは、どんよりとした空から降ってくる小雨が、次第に勢いを増していった日の午後。
馬車から邸に入るまでのあいだ、使用人が傘を差してくれたが肩が濡れた。
邸に入り、使用人が差しだしてきたタオルで濡れたスーツを軽く拭く。
「いらっしゃい、イーサン」
階段を下りてきたミリアーナを見上げたイーサンの目は鋭い。
「お久しぶりです」
「元気そうね」
「ええ、お陰様で」
帰還して一カ月間、足に負った大きな怪我のせいで身動きが取れずにいるあいだに、とんでもない記事を出されたが、それがこの叔母のやったことであることくらいわかっている。
「座って話をしましょう」
そう言って応接室に案内されたイーサン。なんでもないような顔をしているミリアーナの顔を見ると、ますます腹が立ってきた。
記事についてはイーサンの父アンドルーも与り知らないことだった。そのため、アンドルーも一度はミリアーナに抗議をしたものの、いつまでも結婚をしないでいるわけにはいかないでしょ、と言われて黙ってしまった。
これまでも、アンドルーはこの気の強い妹のわがままを、溜息をつきながらも聞いてやっていた。そんな兄妹関係だ。
それに、イーサンがマリアにこだわるあまり、独身でいる、なんてことを言いだしかねない。多少強引でも妹の思惑に乗ったほうがいいのかもしれないと思い、成りゆきを見守ることにした。ずるい方法だが、イーサンも子供ではない。どう判断し、どう行動をするのか、静観することも必要だ。そして、必要なときに手を貸そう。そう決めたのだ。
ソファーに向かいあうように座り、使用人が出した紅茶を口に含むミリアーナ。イーサンは、前に置かれた紅茶に見向きもしないでミリアーナを見つめている。
「そんなに熱心に見つめないでちょうだい。穴が空いてしまうわ」
クスリと笑ったミリアーナはカップを置いた。
「いったいどういうおつもりですか?」
「どういうつもりも何もないわ。あなたにピッタリの婚約者を紹介したのよ」
「紹介しただけではないでしょう。あんな記事をでっちあげて、外堀から埋めていこうということですか?」
「何のことよ。私は知らないわ」
「とぼけないでください」
「別にとぼけてなんていないわ。そんなふうに二人が結ばれたら素敵よねって言ったら、誰かが勘違いをしたのよ」
誰が勘違いをして、記事にまですると言うのだ。
「俺は結婚をするつもりはありません」
「するつもりはなくても、しなくてはいけないのよ」
イーサンは公爵家の嫡男で、騎士としての実力もあり、その見目で数多の令嬢たちの心を奪ってきた。そんなイーサンに婚約者がいないとあれば、令嬢やその親たちが放っておくはずがない。それに、家の繋がりのためにも結婚は不可欠だ。
「俺は公爵家の後継者ではありません」
「何をバカなことを言っているの。自分勝手なことを言うのはやめなさい」
「弟がその責務を果たします。それは変わりません」
「ずいぶんと無責任な兄ね」
なんとでも言えばいい。そう思って、口を開こうとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「奥様、お客様がお見えになりました」
「こちらにお通しして」
「……」
ドアが開くとそこには、件の伯爵令嬢ハンナ・スチュワート。
「遅くなりました」
ハンナは軽くドレスの裾を持ちあげ、美しく膝を折った。ミリアーナは満足そうにうなずく。
「こちらにいらして、ハンナ嬢」
ミリアーナが立ちあがってその手を取ると、イーサンの横に座らせた。
「叔母上?」
ギョッとして立ちあがろうとしたイーサンに、「座りなさい!」と鋭い言葉で制するミリアーナ。
イーサンはその声に動きを止めて、それからハンナを見た。ハンナは困ったような顔をしてイーサンを見上げていた。
イーサンは小さく溜息をついて、仕方なくその場に腰を下ろした。
「二人がそうやって並んでいると、本当にお似合いだわ」
ミリアーナの満足そうな顔を見ると、イーサンは腸が煮えくり返る思いだが、だからといって横にいるハンナに失礼な真似をするわけにはいかない。もし、ここでミリアーナの言葉を否定すれば、ハンナは傷つくだろうと思うと、黙るしかなかった。
ハンナは、スチュワート伯爵家の次女で、幼いころは体が弱かったため、両親から小さな傷の一つもつかないように大切に育てられた。
亜麻色の柔らかい髪と、赤みを帯びた茶色い瞳、花のように可愛らしい容姿。性格は優しく常に笑顔。話をしているときに恥ずかしそうに笑うその顔がたまらなく可愛らしい。
そんな、庇護欲を掻きたてられるハンナを妻に迎えたい男は多い。事実、ハンナの元には求婚届が多く届いていて、その中には高位貴族もいる。
それでもハンナは、イーサンがマリアを忘れられないことを理解した上で、いつまでも待ちますと言っているのだ。
もちろん、そのときに結婚する気はないとはっきり伝えているが、こうして記事にまでなってしまった今、ハンナとの関係を否定すれば、ただでさえ注目されているハンナが、好奇の目に晒されたり、中傷されたりする可能性はおおいにある。
実際、彼女が戦地に向かったイーサンのために、毎日無事を祈っていた姿を多くの人が見ているのだから。
ここまで外堀を埋めてくるなんて、いったい何を考えているんだ。甥に焼くお節介にしては、ずいぶんと強引で大がかりだ。
「私は少し席を外すわ」
「は?」
「二人でゆっくり話をしてみるのもいいと思うの」
「何をおっしゃっているのです?」
「私が強引に話を進めているのが気に入らないのでしょ?」
「……」
それだけ言うとミリアーナはさっさと応接室を出ていった。
「……」
時間が止まったように静まり返った部屋は、ハンナによって再び動き出した。
「ご迷惑を、おかけしました」
「え?」
ハンナのほうを向いたイーサンがギョッとした。ハンナがポロッと涙をこぼしてうつむいていたのだ。
「ど、どうされたのですか?スチュワート嬢」
イーサンは慌ててポケットからハンカチを取り出しハンナに渡す。
「申し訳ありません」
それを受け取ったハンナは、シトシトと花を散らしながら降る長雨のように、静かに流していた涙を拭った。そんな姿を見たら、大抵の男は陥落するだろう。それくらい、ハンナの涙には男心をくすぐるものがある。
「夫人は、私の想いを叶えようとしてくださっただけなのです。ですから、夫人を責めないでください」
ハンナの弱々しい声を聞くと、イーサンとて無下にはできないと溜息をつくしかない。
「あなたの気持ちはありがたい。しかし、私の気持ちは変わりません。もう、待たないでください」
イーサンがそう言うと、ますますハンナの目から大粒の涙がこぼれた。
「そんなことをおっしゃらないでください。私の心はイーサン様のものです。イーサン様以外に心を寄せることなんてできません」
そうは言われても、俺だってマリア以外には無理だ。
そう言いたいのをグッと堪えて、もう一度小さな溜息。
「私のことをすぐに好きになってほしいとは言いません。ですから、私にイーサン様と過ごす時間をください。イーサン様の好みの女性になれるように努力致します」
「スチュワート嬢。そんなことをする必要はありません。私は本当に……」
「お願いします。イーサン様に私のことを知ってもらう時間をください。それでも、どうしても無理なら、……諦めます」
「……」
なぜ、ここまで自分に執着するのか?なんて聞く気はない。自分だって、気持ち悪いくらいマリアに執着しているのだから。でも、いい加減諦めるべきだ。自分などマリアにとっては存在価値もない。そんな奴に想われてもマリアにはいい迷惑だ。
「……わかりました。私も、努力してみます」
イーサンがそう言うと、ハンナは目を見開いて、それから蕩けるような笑顔を見せた。
「うれしい」
それから、二人が一緒にいる姿がたびたび目撃されるようになると、噂は一気に加速した。新聞にも旬なカップルとして何度か記事になったし、友人からもまるで結婚でもしたかのように、「おめでとう」なんて祝福される。
そのたびにイーサンはやんわりと否定をし、ハンナは頬を染めて笑った。
それを複雑な思いで見ていたのは、アンドルーとマーガレット、そして友人のバルトだった。
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