忘れていた痛み
「おはようございます」
今日もマリアが、元気に出勤をしてきた。その姿を見てエリオットは読んでいた新聞を小さく畳み、「おはよう」と返す。
最近遅くまで仕事をしていて少し疲れた顔をしているマリアだが、やる気は漲っていて、今なら一気に挿絵を五枚は描けそうだ。
マリアはいつものようにお茶を淹れて、元気に作業場に向かった。
そのマリアの後ろ姿を見送ったエリオットは溜息をついて、小さく畳んだ新聞を本の下に置いた。
予定より早くマーダーズ全集の一冊目の書写と、挿絵の六枚を仕上げたことで、当初より早く全集が仕上がりそうだと毎日張り切っているマリアだが、集中すると朝から夜まで食事もせずに書き続けるため、エリオットがときどき様子を見に行かなくてはならない。
「無理をして倒れたりしたら困るから、ちゃんと休んでくれよ」と言うエリオットに、「はい、すみません」と返事をしながらも、書き始めると時間を忘れてしまうのだから困ったものだ。
ただ、それほど集中しているときのマリアの作品は質もいい。字がキレイなのは当然として、誤字脱字もなく字の大きさやバランスが崩れることもない。
それに、挿絵がとにかく素晴らしい。
その世界観がそのまま表現されていて、その中でも特に印象的なのは黒いチューリップだった。背景は水色に近い灰色で塗られ、チューリップの花弁が黒く、茎と葉が赤。
確かに文字でそう描かれているのだが、実際に絵を見ると、その場面の混沌と非現実的な世界が視覚で伝わってくる分、物語の世界の想像が膨らむ。
ほかの絵は、異世界の柔らかな風景や人物が描かれているからこそ、そのチューリップが際立つのだ。
「挿絵を集めて冊子を作っても良いかもしれないね」とエリオットがふと思いついて口にしてみたが、本当に作ってみるのもいいかもしれない。面白いものができそうだと、密かに確信をしている。
実際、マリアの描いた写本の売り上げは順調だ。ここ一年の間に書写した本はすべて売れている。本来なら写本は原本より安価で手に入るものだが、マリアが書いた写本は、表紙にカバーがついていて斬新だし、原本にはない挿絵が入っている。挿絵が入っている本はいまだに少なく、話の内容に忠実に描かれているため、評判もいい。
そのためマリアの写本は少々値段が張るが、書架に並べば売れるのだ。
ただ、残念なことに作者は『マリオ』となっている。
作者が女性であると知られれば、本を手にとってもらえないからだ。
いまだ、女性の画家は画家として認められておらず、どんなに素晴らしい作品を描いても価値も付かない。女性の描いた絵なんてとんでもないと言う者がほとんどだ。それは写本も同じ。
貴族女性なら学ぶことよりも、刺繍やダンス、美しさに磨きをかけることが淑女のあるべき姿であり、平民女性ならまず結婚をして家族に尽くすことが女性のあるべき姿。
事実、写本の仕事をするのは、修道士や大学に通う成績優秀な男子だけ。
そのため、マリアではなく、マリオとして写本も挿絵も描いているのだ。
「本当に、残念な世だ」
美しいだけが女性の価値ではない。家族に尽くし、男性に尽くすだけが女性の在り方ではない。それでも、ほとんどの女性がそれを当たり前のように受けいれている。
「まぁ、もう関係ないか」
マリアはもう飛びたった。
「さて、そろそろかな」
エリオットは、「よっこらしょ」と椅子から立ち上ると階段を上り、マリアの作業部屋の前まで来てドアをノックした。
「マリアちゃん」
「……」
返事はない。
エリオットは大きな溜息をついた。そして、そっとドアを開ける。
音のない静かな部屋に、インクの匂いがこもっている。マリアは机に本と紙を並べ、黙々と書き写していた。エリオットはのぞき込むようにしてマリアを呼ぶ。
「マリア、……マリアちゃん、……お腹空いたよぉ」
「え?」
ハッと顔を上げたマリア。エリオットの顔を見て、アッと驚いた顔をした。
「ふふふ、すみません。もう、お昼の時間ですね」
「集中しているところをごめんね」
「いいえ。私こそ、昼食の時間なのにいつまでもすみません」
「いいんだよ。それより、昼食を食べに行くかい?」
お腹が空いたと言ったのはエリオットなのだが。
「私は、あとから行きます。おじさん、お先にどうぞ」
「そうかい。じゃ、店番を頼むよ」
「はい」
筆を置き立ち上がったマリアは、「最近肩こり気味だわ」と言いながら、グッと肩甲骨を寄せたり伸ばしたりして、凝り固まった肩と背中を解してから、階段を下りた。
「それじゃ、お先に行ってくるよ」
「はーい」
エリオットがリベナを出ていくと、マリアは店番用の椅子に座った。
目の前の机に積まれた本は、傷んだ部分を補修して、値段を付けてから商品として書架に並べる。
最近マーロンが買い付けてきた本は特に痛みが激しく、補修に思いの外時間がかかっているらしい。
「あら?」
本の下に挟まった新聞の端がわずかに見えていた。
「おじさんったら、こんな所に新聞なんて置いて」
クスッと笑ったマリアが、本の下から小さく畳まれた新聞を引っ張り出した。普段なら机の端の決まった場所に置くのに、珍しいこともあるものだ。
マリアは、新聞をきれいに畳みなおそうと一枚一枚丁寧に広げて、ふと大きな記事に気がついた。
『恋多き男と浮名を流した公爵子息と、伯爵令嬢が密かに愛を育み、ついに結婚か?』
「……」
『マリア・パルトロー侯爵令嬢と婚約を破棄した、イーサン・ドシアン公爵子息のハートを掴んだのは、ハンナ・スチュワート伯爵令嬢。戦地に向かったイーサン・ドシアンの無事を祈る彼女の姿に誰もが心を打たれた。二人は手紙で愛を育みながら、将来のことを語り合ったという。』
「……イーサンが戦地に?」
戦地に行かないことが騎士になる条件だったはずだけど。……それに、いい人を見つけたのね。
「よかったわ。……もっと早く自由にしてあげればよかった」
『イーサン・ドシアンは無事に帰還をし、現在二人の婚約を調えるために話し合いが進められている』
同じ記事を二回も読んでしまった。それから新聞を重ねてきれいに折りたたみ、机の端に置いた。
「……わざわざ、私の名前を出す必要なんてあるのかしら」
婚約破棄をしてから、新聞は見ないようにしていた。世間に二人の婚約破棄が知れわたると、連日のように心無い言葉が並び、面白可笑しく書き立てられた。
だから、屋敷にいる間は部屋に閉じこもってすべての悪意から自分を守り、家を出てからは余計な情報を目に入れないように周囲も気を遣ってくれた。
「少し、油断しちゃったな」
もう、この名前を見ることはないと思っていたのに、そんなことはなかった。
でも、もう終わったことだし、彼が幸せになるのならそれでいい。
それに、マリアもあのころのマリアではない。
マリアはもう知っている。悪意を持ってマリアを傷つけようとするものを、受けとめる必要はないということを。だから大きく息を吸って吐いた。大きく鳴る心臓を落ち着かせて手を握りしめる。
「大丈夫。こんな記事で私は傷つかない。私を傷つけることはできないわ」
そう何度も呟いて、心に少し薬を塗った。
読んでくださりありがとうございます。








