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ジョアンナ

 ジョアンナは六年前までパルトロー侯爵家で使用人として働いていた。

 まじめで一生懸命というのが彼女の印象で、正義感が強く子供が大好きで人当たりが良く、誰からも好かれる女性だ。

 そんなジョアンナがパルトロー侯爵家を去ることになったのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。


 マリアが廊下を歩いていたとき、マリアのドレスが突然引っ張られ、びっくりして振り返るとジュリエンがスカート部分を握っていた。

「放して」とマリアがお願いをしても、ジュリエンは放してくれない。それどころかもっと力を入れて引っ張った。

「やめて!」とマリアがスカート部分を自分のほうに勢いよく引っ張ると、当時六歳のジュリエンはマリアの力に勝てずに転んでしまった。

 ジュリエンは大声で泣きだし、アナベルが駆けつけマリアを叱りつけた。そのときマリアを庇ったのがジョアンナだった。

 少しだけしか二人の様子を見てはいなかったが、マリアに非があるようには見えない。何度もマリアが「ジュリエン、お願い、スカートを放して」と繰りかえしていたのだ。気になったジョアンナが二人の元に向かったとき、ジュリエンがスカートに引っ張られるように転んでしまった。

 ジョアンナより先に駆けつけたアナベルは、ジュリエンを抱きあげると、恐ろしい形相でマリアを睨みつけた。そのときに、「これは事故です。お嬢様は悪くありません」と言ってマリアを庇ったジョアンナに対して、アナベルは「小さな弟を泣かせるような娘が、悪くないわけがないでしょ!」と怒鳴りつけた。

 ジョアンナはその日のうちに解雇された。

 評判の良かったジョアンナを解雇することにデヴィッドは難色を示したが、ジョアンナが屋敷に残ることをアナベルは許さないだろう。屋敷に残ってもアナベルにきつく当たられるかもしれない。

 仕方なくデヴィッドはジョアンナに紹介状を渡し、新しい職場として友人の屋敷を紹介した。


 ジョアンナはマリアのことを気にかけてくれる、数少ない使用人の一人だった。



 マリアが屋敷を出ていくと言ったとき、デヴィッドは頭を抱えた。どう考えてもマリアが一人で生活をしていけるはずがないことはわかっている。誰に聞いたって「無理だ」と言うはずだ。

 どうしたらいいのか、と必死に考えた末に思い出したのがジョアンナだった。


「お前の都合で解雇をしたのに助けてほしいだなんて、図々しいにも程がある」


 ジョアンナを紹介した先の友人から辛辣な言葉を言われた。ジョアンナは友人の屋敷でも評判が良く、とても気に入られていたのだ。それなのに、理由も言わずにジョアンナを雇いたいと言ってくるのだから、バカにしているのかと怒りたくもなるのは当たり前。

 それでもデヴィッドは毎日友人の屋敷に通い、友人に頭を下げジョアンナに頭を下げた。ジョアンナは友人さえよければと言ってくれたが、友人は頑として首を縦には振ってくれない。ようやく友人が許してくれたのは通いつづけて一カ月が過ぎたころだ。


 ジョアンナの息子たちは、再びパルトロー侯爵に雇われることを反対していた。不当に解雇をしておきながらずいぶんと勝手だ、とテーブルを叩く兄弟たち。

 ジョアンナもそう思っていた。だが、話を聞けばマリアの使用人として雇いたいと言う。婚約を破棄し、屋敷を出ていこうとしているマリアのために働いてほしいと。


 ずいぶん無謀だと思った。ありえない、と。この人たちはそこまでお嬢様を追い詰めたのだな、と。


 いつもうつむいていたマリア。母親からの愛情を得ることもできずに、表情もなく部屋にこもっていたマリア。

 ジョアンナがパルトロー侯爵家のことで唯一思い出すのはマリアのことだった。


 だから条件を出した。「私の息子たちが遊びにくることを許してください。その条件を呑んでくださるのなら、お仕事を引きうけます」と。


 デヴィッドはとんでもないと眉根を寄せたが、その条件を呑んでくれないのなら仕事は引きうけないと言う。仕方なくデヴィッドはうなずいた。信頼できる人を雇うことは簡単ではない。ましてやマリアを任せられる人なんて、そうそう見つかるわけがない。


 それに息子たちが家に通えば防犯にはなるだろう。


 悩んでいる場合ではない。選択肢などほかにないのだ。





 四人の兄弟は上からサニー、レイン、クラウディー、スノウ。全員が長身で筋肉質。それなりに女性に人気はあるが、結婚しているのはレインだけ。サニーも数カ月後には結婚する予定だが、クラウディーとスノウは、恋人募集中。意中の人はいるのだが、年上だったり高嶺の花だったりと難航しているようだ。


「それにしても、最近、マリアは料理の腕を上げたな」


 マリアが張りきって作ったオムレツを豪快に食べながら、スノウが感心したように言った。

 茹で卵から始まったマリアの料理ではあったが、最近ではオムレツまで作れるようになった。

 ハム、トマト、玉葱、ほうれん草、マッシュルーム、コンビーフ、チーズを入れたボリュームたっぷりのオムレツに使う卵は四つ。きれいな形とは言えないが味はジョアンナ仕込みだから間違いない。


 茹で卵の殻も上手に剥けなかったマリアが、野菜を切って卵を割って、クルッと巻くことまでできるようになったのだから、ハラハラしながら見守っていたころからずいぶんと成長をしたな、と泣けてくる。


「兄さんたちのお陰ね。もちろんジョアンナのお陰っていうのが一番だけど」


 ジョアンナを見ればうれしそうに笑っている。


「マリア様は器用だし、元々素質があるんですよ。私なんてあと数年すれば、追いぬかれてしまいますよ」


 ジョアンナの作る料理は、これまで食べたことがないもので、バターをたっぷり使わないし、品数もそれほど多くはない。味はシンプルで少し塩味は控えめ。だけど、そんな料理が屋敷のシェフが作る料理に負けないくらいおいしいと知った。


 それに、食事が楽しい時間だと知ったのも、この家に住みはじめてから。

 おいしい料理を食べながら、今日あった出来事を話して大笑いをする。イヤなことがあったと愚痴を言えば、みんながマリアの分まで怒ってくれるし、悲しんでくれる。


 感情が顔に出にくいマリアにとって、伝わらないことは悲しいことだったが、言葉にすればこんなにも共感してもらえる。これまで、マリアの内側に潜めていた感情は、表にはなかなか出てこないものだった。それなのに、ジョアンナや四兄弟と話をしていると、自然に言葉になって出てくる。

 マリアの表情が少しだけ明るくなったのは、彼らのお陰でもある。


 因みにマリアの大笑いは、普通の人がクスクスと笑う程度。


「そう言えば、私、明日から忙しくなるわ」


 毎日夕方の五時には仕事を終えて帰って来るマリアだが、これまで仕事を家に持ち帰ったことはない。しかし、明日からの仕事は納期があるため仕事を持ち帰ることになりそうだという。


「もしかしたら、残業をすることになるかも」


 どこから漏れたのかマーターズ全集が写本されるという話を聞きつけた人たちが、ぜひ譲ってほしいと言ってきたのだ。

 一日に十枚程度書写できればいいと言われているところを、毎日十五枚前後書写するマリアでも、全集を一冊書写し終わるのに一カ月弱はかかる計算になる。さらにそれに挿絵を入れるとなると、それなりに時間を要するはずだ。


「心配ない。誰かが迎えに行けばいいよ」


 今、家にいるのは長男のサニーと四男のスノウだけだが、毎日四兄弟の誰かが遊びに来るから、四人のうちの誰かが迎えに行くということだ。


「職場は直ぐそこなのに、迎えなんて必要ないわよ」


 デヴィッドに言われているのか、とても過保護な兄弟は、マリアの帰りが少し遅くなっただけで大騒ぎをする。


「だめだ。マリアは侯爵令嬢なんだぞ。何かあったらどうするんだ」

「でも、誰も私が侯爵家の娘だなんて知らないわよ」


 お隣に住む老夫婦も、よく買い物に行く青物屋も、魚の切り身をオマケしてくれる魚屋も、誰もマリアが貴族令嬢であることなんて知らない。


「それでもだ」

「そうだよ。距離が近くても、暗くなってからの女の子の一人歩きは危険だよ」


 サニーとスノウはウンウンとうなずくし、ジョアンナも同意見だ。


「わかったわ。遅くなるときは、お迎えをお願いする」

「そうしてくれ」


 サニーはニコッと笑った。


 余談だが、食費やジョアンナへの給金などはデヴィッドが支払っている。

 私財で十分に生活はできるが、それは将来のために取っておくべきだとデヴィッドが言い、マリアの私財はすべてデヴィッドが管理をしている。実際、諸々合わせたらマリアの私財は相当な金額で、マリアが管理するのは難しい。

 そして、マリアが生活をするのに必要な援助だと言って、デヴィッドはひと月ではとても使いきれないほどの金額の食費を渡している。つまり、マリアが生活するために必要なお金をデヴィッドが負担しているのだ。

 最初はそれがとても嫌だったマリアだが、実際に生活をしてみたら、書写の仕事で得る給金だけではとても生活などできないことを知った。

 現実は想像と違い甘くはないのだ。



読んでくださりありがとうございます。

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