傷つけられた本と心
邸に入ったマリアは、泣いて赤くなった鼻を隠すようにして両手で覆った。とそのとき、自分の手に店主から預かった本がないことに気がついた。
「……あ」
マリアが初めて書写をする本で、仕事のことを考えるとうれしくて、つい持ち歩いてしまった。その大切な本を、応接室のソファーの上に置いて、邸を出てしまったのだ。
「どうしよう」
マリアが、不安になって急ぎ足で応接室に向かうと、部屋のソファーに座って分厚い本を読んでいるジュリエン。その手にはマリアが借りてきた本。
「ジュリエン。それは私の本なの。返してくれる?」
「ふーん」
本を雑にペラペラとめくりながら、興味もなさそうな顔をするジュリエン。
「なんでお姉様が読んでも仕方のない本を持っているの?」
「え?」
「これって、権謀術数について書かれた本だよね?」
「え?ええ」
写本をするために借りた本だからまだ少ししか読んではいないけど、そういえば店主がそんなことを言っていた。
「なぜ、お姉様が?お姉様に帝王学なんて必要ないのに」
「それは、少し興味があって」
焦ってつい言ってしまった言葉だったが、ジュリエンは気に入らなかったらしい。
「なんでそんなことに興味を持つのさ!跡取りでもないクセに!何?僕より優れているとでも言いたいの?」
「そんなこと言っていないわよ。とにかく、その本を返して」
マリアがジュリエンに近づいて本を取り返そうとしたとき、ジュリエンが本の紙を数枚掴むと、勢いよく破った。
「やめて!何をするの!」
驚いてジュリエンから本を取り上げたマリア。すると、ジュリエンが大きな声で「痛い!」と悲鳴を上げた。
「え?……どうして?」
床に倒れ込んだジュリエンを見て慌てて駆けよったマリア。そして、二人の争う声とジュリエンの悲鳴を聞いて駆けつけたアナベル。
「いったい何を……」
そう言って応接室にやって来たアナベルが、床に倒れこんでいるジュリエンを見て、悲鳴に近い声でその名を呼び早足で近づくと、マリアを押しのけてジュリエンを抱きしめた。
「マリア!あなた、ジュリエンに何をしたの?」
マリアを睨みつけるその目は、我が子に向けるものとは思えない。マリアの体がわずかに震える。
「私は、何もしていません」
「嘘を言わないで!」
ジュリエンの髪をなで、心配そうにその美しい顔をのぞきこんだアナベル。
「ジュリエン、大丈夫?ジュリエン、何があったの?」
アナベルがそう言うと、ジュリエンが「お姉様が、本を……」と涙をこぼした。その様子を見たアナベルの目がますます吊りあがる。
「マリア、あなたって子は。なんて酷いことをするの!」
「私は、……何もしていません」
「ジュリエンがこんなに泣いているのに、何もしていないですって?」
「でも」
マリアは本を取りあげたが、本でジュリエンを叩いたわけではないし、ぶつかってもいない。突然ジュリエンが倒れたのだ。
それに、被害者というなら本を破られたマリアだ。預かり物の本を破かれたのだから。
マリアはボロボロと泣きながら、本を胸元で抱きしめた。
「マリア、あなたは部屋に戻りなさい。今日は一日部屋で反省をしていなさい」
アナベルの憎しみを孕ませた声に、マリアは肩をビクッと震わせて、よろよろと立ちあがり、自分の部屋に向かって歩きだした。その目には、大粒の涙。
店主から預かった大切な本なのに。
自室に入るとベッドに座り本を開いた。破かれたのは二ページほど。破かれて床に落ちた部分も拾ってきたから、紙を貼りあわせれば全部読める。でも、売リ物にはならない。
「なぜ、こんな酷いことをするの?」
涙が拭っても拭ってもこぼれてくる。
「謝らないと。こんなことになってしまって」
試用期間だし何も仕事を熟していないのに、大切な本をダメにしてしまった。
「お仕事の話はなかったことになるかもしれないわ」
いったい何をしたら自分はこんな目に遭わないといけないのか?地味だから?本ばかり読んでいるから?存在自体が迷惑?
「こんな家、早く出ていきたい。早く出ていきたいのに」
その日の夜。
デヴィッドがマリアの部屋を訪ねてきた。食事を食べていないことを心配しているのだろうか。それとも、アナベルから今日のことを聞いたのだろうか。
「何があった?マリア?」
ドアの向こうから聞こえるデヴィッドの声から、マリアを心配してくれているのだとわかる。
でも、もうどうでもいい。返事をする気力もない。
ドアの前でマリアの返事を待っていたデヴィッドは、諦めたように溜息をつき、明日アンドルーが来ると言い残し、その場をあとにした。
きっと婚約解消の話だ。
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