誰でも知っていること
「あ」
「え?」
マリアが突然気がついたように小さく声を上げた。
「イーサンはもう帰る?忙しいのよね?ごめんなさい、私ったら引き留めてしまったわね」
「イヤ。……今日の仕事は終わっているから忙しくないんだ。だから、もう少しここにいてもいいかな?」
「もちろんよ」
やっぱり。
少し前から思っていたが、マリアの態度が少し変わってきている。口数が増えたし、少し優しい顔を見せるようになった。
あいつの影響か?
「ボランティアは何人くらいでやっているんだ?」
「そのときどきで違うわよ。私は、ほとんど孤児院のお手伝いをしているから、二人から四人くらいかしら?」
「マーロンもいるのか?」
「マーロンは私のバディだもの。いつも一緒よ」
「は?」
いつも一緒?
「彼が私に仕事を教えてくれたの」
「……」
「私たちはいつも一緒に孤児院でボランティアをしているのよ」
「……なんだよ、それ?」
「え?」
「男と一緒に仕事をするなんてありえないだろう?」
イーサンの声が少し大きい。
「イーサン?」
「なんで男と二人で仕事をするんだ?どういうつもりでそんなことをしているんだ」
「二人きりではないわ。子供たちと院長もいるのよ……?」
「だからなんだ。その男に下心がないとは限らないんだぞ!だいたい、なんで俺に秘密にしていたんだ?」
「秘密になんてしていない……」
「それならなぜ、二年も俺が知らないんだ」
「聞かれてないもの……」
「は?なんだ、それ。俺が聞かないと何も言わないってことか?なんだよそれ、なんでそんな……」
「……」
イーサンの怒りを孕ませた声に怯え、マリアが顔を青くして両手を握りしめていた。
「あ、マ、マリア、ごめん。こんなこと言うつもりじゃなかったんだ」
「……」
マリアは言葉も出ないまま瞳を揺らしている。
「マリア?ごめん、もう大きな声を出さないから」
「……なぜそんなひどいことが言えるの?」
「マリア」
「……ボランティアなのよ?」
「……ごめん」
顔を青くしたイーサンが顔をゆがませた。
するとノックをする音が聞こえ、返事をするより前に開いた応接室のドア。
「イーサン様!いらっしゃっていたのですね」
そこにジュリエン。その後ろにアナベル。
「馬車が停まっていたので、そうだと思いました」
ジュリエンがニコニコしながら応接室に入ってきた。
「……ああ、邪魔しているよ。夫人も、お久しぶりです」
「久しぶりね、イーサン。少し見ないうちにまた一段と逞しくなりましたね。それに、ますますアンドルーに似てきて」
アナベルのその目は、含みがあって少し居心地が悪くなる。
夫人はいつもあの目で俺を見る。いったいなんなんだ。
「イーサン様も大変ですね」
「え?」
「婚約者というだけで、お姉様に時間を割かないといけないなんて」
ジュリエンが困ったような顔をした。
「何を言っている?」
「ああ、大丈夫です。イーサン様が、この結婚に乗り気でないことなんて誰でも知っていることです」
「ジュリエン、やめろ」
「お姉様だってわかっていらっしゃいますよ」
「やめてくれ……」
「だから、無理にお姉様に気を遣う必要はないと思いますよ」
「いい加減にしてくれ!」
「え?」
イーサンの声に驚いたジュリエン。慌ててアナベルがジュリエンの前に出た。
「イーサン!ジュリエンに大きな声を出さないで」
「ジュリエンが無礼なことを言うからです」
「何を言っているの。ジュリエンが言っていることは、事実じゃない。むしろ、あなたを心配してあげているのよ」
「……誰がその話を事実だと言ったんです?」
「あなたよ」
「は?」
「マリア以外の令嬢と仲良くしているのは、ほかでもないあなたでしょ?」
「それは……」
返す言葉もないが、なぜマリアの前でそんなことを言うのだ。
イーサンがマリアを見ると、表情もないままシロップを見つめていた。
マリアが泣いてしまう。
そう思った瞬間に、マリアの手を取り、アナベルとジュリエンの横を抜けて、玄関を出てイーサンが乗ってきた馬車に向かって急ぎ足で歩いた
「イーサン様?」
御者が驚いて慌てて席から降りて、ドアを開けようとしたが、イーサンがそれを制した。
「すぐに出してくれ」
そう言って、マリアを座らせると、馬車のドアを閉めた。
「イーサン?」
「ごめん、マリア。本当に、ごめん」
動きだした馬車の中で、頭を下げて、ただ謝罪を繰りかえすイーサン。
「いいのよ、気にしていないから」
マリアはいつも同じ言葉。
「いいわけがないだろう!俺は、君を裏切っていたんだから」
「……何を言っているの?そんなこと気にしていないわよ」
「浮気をしていたんだぞ、君の目の前で」
「だって、仕方がないじゃない」
「え?」
「私が婚約者なのだもの」
「は?」
「浮気してしまうのも無理はないわ」
「何を言っているんだ?」
「お母様が言っていたわ。私と結婚をしないといけないなんて、イーサンがかわいそうだわって。あなたは、私ではなくほかの令嬢と結婚をしたいんでしょ?」
「……違うんだ」
「ねぇ、イーサン」
「……」
頭を抱えていたイーサンが顔を上げた。情けない顔をしている。
「婚約を解消しましょう」
その言葉に目を見開いたイーサン。
「…………いやだ」
「いいのよ、無理をしないで」
「違う、無理なんて……」
「お父様には何度も婚約を解消してほしいとお願いをしているの」
「……え?」
「でも、お父様が認めてくださらないの」
「……君は、婚約を解消、したかったのか?」
「……ええ」
イーサンがこれまで婚約の解消を口にしなかったのは、幼馴染に対する情があったからだとはわかっている。
たとえ立場上こちらからは言えないとデヴィッドが言っても、両親は学生のころから親交があり、それほど立場による壁がある関係ではない。デヴィッドとアンドルーが二人で酒を飲みながら、親しく話をしているところだって何度も見ている。
だから、こちらから解消を願えば、受けいれてもらえると思っていた。それなのに、デヴィッドがなかなか首を縦に振らないせいで、ここまでズルズルと婚約を続けてしまった。
でも、もうはっきりさせたほうがいい。イーサンを自由にしてあげなくてはいけない。
「それで、あのマーロンってやつと結婚をするのか?」
少しうつむき気味のイーサンの顔は見えない。
「マーロン?どうして、マーロンが出てくるの?」
「俺と婚約を解消したいのは、……あいつが好きだからだろ?」
「マーロンはお友達よ」
「友達?好きって言っただろう?」
「友達だもの。好きに決まっているでしょ?」
俺には、好きだなんて言ったこともないくせに。
「俺には言えない秘密があるくせに」
「……」
「あいつには心を許しているくせに」
悔しさや、苦しさがイーサンの感情を昂らせていく。
「俺を捨てて、あの男のところに行くつもりなんだろう!」
「……あなたに、あなたにそんなこと言われたくない!」
「何……!」
「私は、私はあなたのように婚約者以外に心を寄せたりなんかしていない!」
「俺だって……」
そう言いかけて言葉に詰まる。マリアが泣いていた。
「……屋敷に戻って。本当に、もう帰りたいの」
「……マリア……」
涙をボロボロとこぼすマリアを見るのは幼いころ以来。言葉を失ったイーサンは、引きかえすように御者に指示をした。
「本当に、婚約を解消したいの?」と弱々しい声でイーサンが聞く。だからうなずいた。
イーサンは、マリアの目の前でほかの令嬢たちとの恋を楽しんでいたのに、なぜ、自分はマーロンとのことで文句を言われるのかわからない。マーロンは唯一の友達なのに。大切な友達なのに。
自分勝手。私よりほかの令嬢と仲良くしたいくせに、俺を捨てるのか、なんていくらなんでも自分勝手すぎる。
「……マリア、すまない」
イーサンと婚約を続けても拗れていくだけ。もう、終わらせたほうがいい。
どうせ、イーサンの心は美しくて華やかな令嬢たちのところにあるのだから、無理やり結婚をする必要なんてない。公爵夫人に相応しいわけでもない自分が、親同士が友人関係にあったからという理由だけで、いつまでも婚約者の座に居座っているほうが迷惑だ。自分より公爵夫人に相応しい女性ならいくらでもいる。
無言で馬車に揺られながら、マリアは早く屋敷に着くことを願った。目の前のイーサンはうつむいたまま動かない。
馬車が屋敷に着くと御者がドアを開けた。
マリアは立ちあがったが、イーサンはうつむいたまま動かない。
「……婚約を解消すれば、幸せになれるのよ」
マリアのその言葉にイーサンは顔をあげた。見開いた瞳は揺れ、顔は真っ青。そんなイーサンを見つめるマリアの顔に表情はない。
御者はまったく動こうとしないイーサンと、一人で降りてくるマリアに、何事かとオロオロしていたが、結局何もできずにマリアの背中を見おくった。
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