特別な花のシロップ
イーサンがマリアに会いに来たのはそれから五日後のこと。二日前には帰ってきていたが、提出書類の締めきりに追われて、なかなか時間を作ることができなかったのだ。
焦る気持ちを抑えながらドアノッカーを叩くと、少ししてパルトロー侯爵家の執事のフィリップがドアを開けた。
「イーサン様、ずいぶん早くお着きになりましたね」
先触れに記されていた時間より二時間も早い。
「ああ、ちょっと時間ができたから早めに出たら、早過ぎてしまったようだ。マリアはいるか?」
聞かなくてもいることはわかっているのだが、念のため聞いてみる。が、フィリップの返事はイーサンの予想とは違う。
「申し訳ございません。お嬢様は、出かけておりまして、もう少ししたらお戻りになると思います」
「は?」
予定より早く来たイーサンが悪いのだが、まさかマリアが出かけているなんて。
「どこに行ったんだ?」
思わず語気が強くなる。
「お嬢様はこの時間は、教会のボランティアに行かれています」
「ボランティア……」
あの、アーロンとかいう奴と一緒か。
「その教会はどこだ?」
「パサドナ教会ですが」
「パサドナ?」
「ここから南に行った所にある小さな教会です」
ただ、ボランティアは教会より、近くの孤児院で行うほうが多い。今日も孤児院に行っているはずだ。
「遠いのか?」
近いのであれば、様子を見にいきたい。
「それほど遠くはありません。ですが、もうすぐお戻りになると思います」
「……そうか」
入れ違いになるわけにもいかない。イーサンは仕方なく応接室で待つことにした。
「おじさんは?」
イーサンがここで言うおじさんとはデヴィッドのことだ。
「旦那様は、外出をされております」
「そうか」
先日の無礼は手紙で謝っているが、もう一度直接謝っておきたいと思っていた。できれば今日中に会いたいところだ。
それから一時間もしたころ、ようやくマリアが帰ってきた。
馬車の音を聞いたイーサンがマリアを出迎えるために立ちあがり、早足で外に出た。
馬車を降りてきたマリアは、目の前にイーサンが立っていることに気がついて驚いた顔をした。
「いつ来たの?」
先触れよりずいぶんと早いけど。
「さっきだよ。予定が早く片づいたから、少し早めに出たんだ」
それは嘘。何も予定はなかったが、待ちきれずに早く出てしまった。御者にゆっくり進めと言ったが、残念ながらそれほど時間を稼ぐことができなかった。
応接室のソファーに座った二人。目の前には侍女が用意した紅茶が置かれ、ゆらゆらと白い湯気を揺らしている。
マリアの紅茶には多めの砂糖とミルクが入れてあり、甘くてまろやかでおいしい。イーサンは何も入れない。二人は口に含んだ紅茶の豊潤な香りにほうっと息を吐いた。
カップを置いたイーサンがジッとマリアの顔を見た。
「ボランティアに行っていたんだって?」
「ええ」
「……」
マリアが座るソファー。マリアの横にはずいぶんと古い本が置かれている。馬車から降りるとき、マリアが大切そうに抱えていた。
あれは?聖書ではないな。最近の愛読書かな。聞いたら彼女は答えてくれるだろうか?
「いつから、ボランティアを?」
「二年前からよ」
そんなに前から?
「何をやっているんだ?」
「孤児院に行って、子供たちと遊んだり勉強を教えたり」
結構本格的にやっているんだな。
「あいつもいるのか?」
「あいつ?」
「アーロンとかいう奴だよ」
「マーロンよ」
「……どうでもいいよ、そんなの」
「よくないわ。私の大切な友達よ」
大切?あいつのことが?大切ってどういう意味だ。本当に友達っていうだけか?
「マリアは、マーロンのことが好きなのか?」
「好きよ」
とてもいい人だもの。
「……」
イーサンはわずかに眉間にシワを寄せた。
そんなにあっさり認めなくてもいいじゃないか。
「……」
「イーサン。今日は何をしに来たの?」
「……お土産を渡そうと思って」
すっかり本来の目的を忘れていた。
「ああ、シロップね」
「うん」
イーサンは自分の横に置いていたシロップをマリアに渡した。
「ありがとう。開けてもいい?」
「ああ」
マリアが変わらない表情のままシロップの蓋を開けた。マリアの知るシロップよりフルーティな香りがする。イーサンが特別な花の蜜と言っていたシロップだ。
「いい香りがするわ」
「気に入った?実はカザフ領でしか作られていない、特別なリンゴの花の蜜で作られたシロップなんだ」
「まぁ、リンゴの花の蜜なんて初めてだわ」
そう言って、ティースプーンで目の前の紅茶に入れる。
「え?」
イーサンは慌てて止めようとしたが間に合わなかった。
「え?」
イーサンの少し大きな声にマリアは驚いて、イーサンの顔を見た。
「いや、マリアの紅茶はもう甘いだろ?」
シロップを入れたら甘すぎて飲めなくなるのでは?と心配をしているのだ。
「あ、そうね。私ったら、うれしくて何も考えなかったわ」
「うれしいの?」
「ええ」
「お土産が?」
「ええ」
マリアのわずかに綻んだ笑顔に、思わず言葉が詰まる。
マリアが喜んでくれた。
「こんなのがうれしいなんて知らなかったな」
「そう?私、イーサンがくれるものはなんでもうれしいわよ」
「え?」
そうだったのか?全然そんなふうには見えなかったけど。
「でも、身に着けるものは私には似合わないから」
「……」
今まで、マリアに贈ったものはドレスやアクセサリー。
いつも「私には似合わないわ」と困った顔をしているマリアに、性懲りもなく贈りつづけていた。
ドレスの色やデザインにはとても気を遣ったし、アクセサリーだってできる限り華やかにならないものにした。それでも、ドレスはパーティーがあれば着てくれたが、いまだに袖を通していないのもあるし、アクセサリーを身に着けてくれたことはない。
お陰で、イーサンは婚約者に贈り物をしていないと思われている。
でも、身に着けないでいいものなら喜んで手にしてくれた。
「今度は、もっとおいしいものを買ってくるよ」
「ふふふ、うれしいわ」
あ、少し笑った。
「やっぱりちょっと甘すぎたわ」
シロップを入れた紅茶に口をつけたマリアは、少し眉尻を下げてからポットの紅茶を少しカップに足した。
淹れ直せばいいのに。そう思うが、その姿に見とれていたイーサンには言葉が出なかった。
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