古書店リベナ
二年前。デヴィッドに半ば強引に連れられて教会のボランティアに参加したとき、パートナーとなったのがマーロンだった。それからはずっとマーロンと一緒に活動をしている。
教会の子供たちと遊んだり、勉強を教えたり。掃除や洗濯をすることもある。
初めてのことばかりで、失敗を繰りかえしまったく役に立たなかったマリアを、マーロンは「大丈夫だよ」と励ましてくれた。それに嫌な顔もしないし、責めることもしない。
そして、慣れてくると週に二回から三回はボランティアに参加するようになり、いつの間にか多くの時間をマーロンと共有するようになり、そのあいだにたくさんの話をした。
マーロンはただマリアを肯定した。それだけなのに、マリアはようやく呼吸ができたような気がしたのだ。
ボランティアの仕事にも慣れて余裕ができ、自分の気持ちを言葉にするようになったころ、マーロンがマリアのドレスを褒めた。いつも着ているドレスよりほんの少しだけ明るい青色のドレス。それをただ「似合っているよ」と。
もしも、信頼関係が生まれる前にそんなことを言われたら、きっと心の壁が分厚くなっていたかもしれない。マリアのことを知った上で言ってくれているから、素直にその言葉を受けとることができた。
それに、デヴィッドなら、イーサンなら、その言葉のあとに、「でも、もっと明るい色も似合うと思うよ」と言うだろう。でもマーロンは言わない。それがうれしい。
マリアにとって唯一気の置けない友人がマーロンなのだ。
「絵は持ってきた?」
「ええ」
マリアは数枚の絵をマーロンに見せた。
「うん、良いね」
挿絵を入れることを提案するために、マリアが最近教会で描いた絵を持ってきた。
「楽しみ?」
「ええ、すごく」
こんなにドキドキするのは初めて。
古書店リベナに着くと、そこには紙とインクの匂いがしてホッとする空間があった。
「私、ここ、好きだわ」
「僕もだよ」
互いに本の虫だ。一日中本を読みながら過ごしても苦ではない。
「おじさん」
店の奥で本に囲まれている初老の男性を見つけると、マーロンが少し早足に歩きだした。
「おお、マーロン坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてよ」
店主の前まで来たマーロンが、少し困った顔をしてマリアをチラッと見た。マリアには聞かれたくなかったらしい。マリアは思わずクスッと笑ってしまった。
古書店の店主であるエリオットは、元は国内外の織物を扱う店を王都の一角に構える大商人。今は引退をし、息子に店を譲って、自身はこうして本に囲まれた生活を送っている。
マーロンのことを坊ちゃんと呼ぶのは、エリオットがマーロンの屋敷に出入りをしていたから。そして、引退してからもエリオットはときどきマーロンのことを坊ちゃんと呼ぶ。
「そちらが?」
店主がマーロンの後ろに立っていたマリアを見た。
「ええ、マリアです」
「よく来なさった」
店主がマリアを見てニコッとした。
「初めまして、……」
「大丈夫だ、ゆっくりで」
緊張をして手が震え、言葉に詰まりうつむくマリアにマーロンが小さく囁いた。
「……マリア・パルトローと申します。マリアと呼んでください」
「ああ、よろしくお願いしますよ。坊ちゃんから話は聞いています。とりあえず、座ってください」
マリアは店主の優しい笑顔と言葉にホッとした。
マリアに言葉をかけてくれる人は限られている。優しく笑いかけてくれる人なんてほとんどいない。
だから、優しそうな顔をした店主の笑顔が、マリアには少し信じられないし、素直に信じないといけないという思いもある。マリアは変わりたいと思っているのだ。そのきっかけがここにある。
「マリア?」
マーロンがマリアを呼ぶ声が聞こえた。
いけない。少しぼうっとしていた。
「はい?」
「書写したものと、絵を見せてくれるかい?」
「あ、はい」
慌ててバッグの中から紙を数枚取り出した。それを店主に渡すと、店主は「うん」と思案顔ですべての紙を見る。
「なるほど、うん」
そう言ってマリアに紙を返した。
「なかなかいいのですが、絵は一枚描くのにどれくらいの時間がかかりますか?」
「……二日ほど」
「なるほど」
「……」
「あ、いや、ダメだと言っているわけではないんです」
少し暗い顔をしたマリアを見てエリオットは慌てて言葉を足した。
「挿絵は、本の情景を表すのにもっとも有効な手段ですし、現在出版されている本にはほとんど挿絵がありませんから、人気が出ると思うのです。それで、どれくらいの時間で描けるのか気になりまして」
「あ……」
「挿絵を描いているあいだは書写の作業ができないので、時間がかかりすぎるなら考えないといけませんから」
「その分は、僕が頑張るよ」
「ははは、そうですか」
マーロンの言葉を聞いて、店主は楽しそうに笑った。
「あ、あの!……私、もっと早く描けるように練習をします」
「ああ、そうしていただけると助かります」
「で、おじさん。マリアを採用してくれる?」
「まずは、試用期間を設けます。そのあいだに、マリア嬢の仕事の質と適性を見させていただきます」
「は、はい。よろしくお願いいたします」
「それに、すぐには働けないのですよね」
「……はい」
家を出る算段は立っていない。婚約の解消もできていない。そのため、ボランティアと言って家を出られるときにしかできない。
「なら、持ち帰るのはどうですか?」
「うむ、実は私もそれを考えていました」
店主がマーロンの言葉にうなずいた。
「自宅で?」
「それなら、余計な嘘を吐く必要もないし、ボランティアにはちゃんと参加できるでしょ?」
「……」
確かに、それなら自分の時間でできるし、元々部屋に閉じこもっているマリアには、まったく問題がない。
「それでいいなら、ぜひ、そうさせてください」
こうして、マリアはお試しではあるが、写本の仕事をさせてもらえることになった。
古書店の店主は、マリアが侯爵家の令嬢であることを知っているが、それによって生じる疑問には一切触れないでいてくれた。
ご迷惑だけはかけないようにしないと。
侯爵家の令嬢を働かせたなんて知られれば、店主に迷惑をかけることになる。上手に話を進めていかなくてはいけない。
教会に向かう馬車の中。
マリアは店主から預かった一冊の本を、大切そうに抱きしめている。紙も相当数貰っていて、書写が終わったら、マーロンがそれを店主に届けてくれることになった。
「マーロン、何から何までありがとう」
「いいんだよ。僕がやりたくてやっているんだから」
マーロンもマリアと同じように、本を一冊店主から預かっている。
「でも、マリア。家族に見つかっても大丈夫なの?」
「うん。書写をしていて怒られることはないと思う」
それが仕事だと知られれば大変なことになるが、そうでなければ、変な趣味だ、で終わるだろう。だが、用心はしなくてはいけない。
「絵の練習もしようと思うの」
「そうか」
「質を下げずに時間を短縮できるようにしないと」
マリアの描き方は独特だ。すべては頭の中にあって、それを下書きもせず色を塗りながら絵にしていくから、最初は何を書いているのかわからない。描き進めるうちにようやくそれが猫とわかる。そんな描き方だ。
だが、一度絵を描いているときに、ジュリエンが部屋に入ってきて、「気持ちの悪い絵」と言って、真っ黒な絵の具で仕上がる寸前の絵を塗りつぶしたことがあった。
黄緑色の太陽とオレンジ色の月、空色の草と白い建物、クリーム色の空に紫の犬。マリアの心の中にあった情景を絵にしたのだが、ジュリエンがぐちゃぐちゃにした。マリアが十五歳のころの話。
それ以来、邸で絵を描いていない。
早朝や深夜に描くのはどうだろう。それなら、見つからないし文句も言われないはず。
「マリア」
「何?」
「楽しい?」
「ええ、とても」
表情の乏しいマリアの顔が少し綻んでいる。マーロンもうれしそうに笑った。
読んでくださりありがとうございます。








