美しい人ほどゾッとします。
イザベラ様と視線が合い、微笑を浮かべられる。そのミステリアスな美しさと底の見えない海のような瞳に言いようのない感覚が尾骨から脊椎を駆け上がった。
以前一度だけ対峙したことのある、闇夜に這い回る両生類じみた魔獣のような雰囲気を感じ取る。
あの魔獣は獲物を狩る時、闇に紛れて姿を隠す。暗闇でじっとりと身を潜めて観察してくるのだ。自分の領域に入るまでけして視線を逸らさず、音もなく近付く。
気が付く頃にはもう襲われる直前だ。
あのときは明かりを付けた家畜を餌に、狩人たちと連携して狩った。
家畜を狙い、這い寄って飛びかかるまでのおぞましさに、姿を見ていた私を含め全員が鳥肌が立っていた。
今でも思い出すあの、闇夜でほんの少し発光する魔獣の目――
イザベラ様は全く違うというのに、脊椎をざわつかせる目があの魔獣と重なってしまう。
それをごまかすようにお茶を飲み下す。イザベラ様は視線を外したのにまだ背中がぞわぞわしている。
うなじを掻いて私はその感覚を消そうとした。
「あら、メアリ。口紅がよれているわよ?」
紅茶とケーキを綺麗にしたメアリお姉様に、イザベラ様が声を掛ける。「あらやだ!」と恥ずかしそうに声を上げたメアリお姉様に向かって、イザベラ様は丸い手鏡を差し出す。
この辺りではとても珍しい。
手鏡の背面には青い蝶があしらわれており、貝の内側特有のあの真珠のような光沢がきらりと光る。
黒い漆の闇で、まるで羽ばいているようだった。とても美しいそれを流れるような仕草でメアリお姉様に手渡し、手入れされた白くすらりとした指先で自分の目元を指さす。
「歩き回ったから汗で目元の化粧も薄くなってしまったみたいね。直してきたら?」
「いやだわ、ありがとう。ちょっとパウダールームに行ってくるわ」
メアリお姉様が恥ずかしそうに手鏡を返して私たちに手を振った。
私が「いってらっしゃい」と言うと、イザベラ様はとても優しい笑みでメアリお姉様を見送る。
「ゆっくりでいいわよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
パウダールームに向かうメアリお姉様を待つ間、間が持たないような気がした。せっかくだからケーキをもう一つ頼んで食べて待とうか、と思ったタイミングでイザベラ様がぐっと体を寄せてくる。
私は驚き、目を見開く。
イザベラ様の目の色が、変わった気がした。比喩でも何でも無く、本当に。
「ねえ、キャロルさん。やっぱり不安? エドワード様やニコラ様と並ぶオズウィン様相手では」
イザベラ様がさらに距離を詰めてくる。
思わずのけぞりそうになったが、それ以上下がることはできない。
見間違いか、海の青を閉じ込めたと思っていた瞳は鮮烈な赤に染まっている。瞳の色の鮮烈さに対し、何を考えているかはわからない表情。
「イザベラ、さま……」
「高い身分の相手に、突然婚約を申し込まれて……大変ね。不安がいっぱいよね?」
テーブルの上に乗せた手に、何かが触れる感覚がした。視界の下端に見えたのは、私の指に軽く触れるイザベラ様の手。
胸の中に妙なものが芽生えるような感覚がした。
まるで体が縛り付けられているかのように動かなくなる。さっきお茶を飲んだばかりなのに酷く喉が渇いた。
私の視界から色が消え、聴覚も周りの音を拾わない。
イザベラ様だけが鮮明に存在する。
「だってニューベリー家は男爵だもの。不釣り合いだって、考えてしまうのでしょう? アレクサンダー家は王家に並ぶと行って過言ではない家……自信、無いわよね……?」
イザベラ様の声が耳から入り、じわじわと染みが広がるような感覚。
思わず息が止まりそうになった。
周りには人がいるのに、聞こえてくるのはイザベラ様の声だけ。心臓が強く脈打った気がした。
イザベラ様と私以外いない気さえした。
「でもね、少しだけ勇気を出すといいと思うの。キャロルさんの不安を……」
「キャロル嬢!」
突然の声にぱんっ、と弾かれたように音が戻ってくる。
水彩絵の具がやわらかな紙に落ち、色が広がるように世界が再び色を取り戻す。人々のおしゃべりと食器のぶつかる音が一気にあふれてきた。
どっと汗が噴き出した感覚に襲われる。耳元で心臓が鳴っているような気がした。
振り返るとそこには顔に大きなガーゼを貼り付けているオズウィン様がいた。
昨日までは無かったそれに、一瞬ぎょっとする。何かあったのだろうか? と恐る恐るオズウィン様を呼んだ。
「オズウィン、さま……?」
目を瞬かせる私に、オズウィン様が「あ」と言う口になりイザベラ様の方を見る。
「急に割り込んですまないペッパーデー嬢」
「いいえ、お気になさらずに」
イザベラ様に先ほどまでの両生類の魔獣のような空気はなく、今はいつもの青い瞳をしていた。
オズウィン様はイザベラ様に礼を言い、私の方に向く。
「申し訳ないキャロル嬢。父上から貴女に急ぎの用があるということで呼びに来たんだ」
申し訳なさそうな顔をしながら私を見るオズウィン様の頭に、ぺたりと下がった犬の耳が見えた気がした。
なぜ辺境伯から? もしや昨日のデート――とは言いにくいお出かけ――に不手際があって、苦情を言いに来たのだろうか?
どうしよう、とイザベラ様とオズウィン様を交互に見ていると、化粧直しからメアリお姉様が戻ってくる。
「あら、アレクサンダー様。ご機嫌よう」
「やあ、こんにちはニューベリー嬢。すまないが妹君をお借りしてもよいだろうか? 用事を済ませた後でかまわない。貴女も邸宅へ戻って欲しい」
メアリお姉様は私の方をちらと見てから、オズウィン様にお辞儀をする。
「お気遣いありがとうございます。もう用事は済んでおりますので大丈夫ですわ。それではすぐに馬車の手配を」
「ああ、ありがとう」
店員に声を掛け、すぐに馬車が呼ばれる。
メアリお姉様はイザベラ様の方を見て、品のよい笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね、イザベラ。また一緒に出かけてさせてね?」
「いいのよ。次は新しいパウダーを作りに行きましょう?」
「ええ、楽しみにしてるわ」
イザベラ様はやわらかな笑みを浮かべ、メアリお姉様を見つめていた。本当に親しげな二人だ。
ちょうど馬車が用意できたと声がかけれら、私たちはイザベラ様に見送られて店を後にする。
昨日の今日で辺境伯に呼び出されるなんて……と私は馬車の中で不安を押し殺していたのだった。
オズウィン、よく生きていたなって思います。
9/19 加筆修正しました。