第8章 結婚
アナミがいなくなった後も、喪失感に耐えながら、タエとオネは武術の稽古と勉学に励んだ。十六歳になった時、タエは長年の稽古で鍛え上げたカモシカのような体型をした、クリクリッとした丸い瞳をいつも悪戯っぽく輝かせている、利発で、勝ち気で、前向きな性格の、美しい乙女に成長していた。一方オネの方はというと、百八十センチ近い長身で、しかも筋肉の塊のようなごっつい体をしながらも、顔は涼やかな和風美人であり、普段の性格はおとなしくて控え目、それでいて一端なにか起きるや、たちまち抜群の勇気と聡明さを発揮するという、これまた素敵な乙女に成長していた。ところで、当時の女性の大半は、この年齢の前後に結婚した。すなわち、お年頃の二人にも結婚の時期が迫って来たわけである。
先に嫁に行ったのは、意外と言っては失礼だが、オネの方だった。嫁いだ相手は、現在の大分県玖珠町の山奥にあった日出生城主の長男・帆足鑑直で、年齢はオネより五歳上だった。鑑直は小柄ながらも明るく剛毅な性格で、オネの評判を耳にするや、
「俺はこの通り体が小せえから、でっかい嫁を貰えば、ちょうど良い背丈の子供が産まれるだろうて」
そう考えて結婚を申し込んで来たのである。オネの父親である古後摂津守は「男より図体が大きいオネには、嫁の行き先が無いかもしれんなぁ・・・」と半分あきらめていたところだったので、この縁談に狂喜して飛びつき、鑑直の気が変わらぬうちにと大急ぎでオネを嫁ぎ先へ送り出した。何が何だか分からぬ間に慌ただしく嫁に出されたオネには、タエに別れの言葉を言う機会すら無かったので、仕方なく日出生城へ向かう道中、タエ宛に手紙を書いて従者の一人に届けさせた。手紙を受け取ったタエは仰天し、すぐさま返事を書いてその従者に託した。オネの手紙に
「遠くへお嫁に行くので、もうタエちゃんには会えないだろうけど、元気でね」
と書かれていたので、
「そんな事ないよ。きっとまた会えるよ。たとえ会えなくても手紙を書くし、アナミも言ってたでしょう、たとえ離れて暮らしても心は一緒だって」
と書いて送ったのである。返事を読んだオネはタエの温かい思いやりに涙した。
オネが結婚したと思ったら、今度はタエに縁談が舞い込んで来た。相手は鶴崎城主の長男・吉岡鑑興で、タエと同じ年齢である。良縁だったので、父親の丹生正敏はタエを嫁にやることに決めた。タエとしては、他に好きな男がいるわけでなし、黙って親が決めた相手と結婚するのが普通だし、どうせいつかは誰かと結婚しなければならないのだから・・・そう思い、特に異存は無かった。それに、オネから届いた手紙に「結婚して良かった。わたしはいま幸せです」と書いてあったのも影響した。文面から察すると、オネは夫の鑑直とたいへん仲睦まじく暮らしているらしかった。そのせいでタエも「あたしも結婚してみようかしら」という気になったのである。
一通りの花嫁修業をこなし、言葉遣いを特に厳しく矯正された上で、タエは鶴崎城に輿入れした。初めて見る鑑興は、端正な顔つきの、おとなしくて実直そうな青年だった。ただ、将来は城主となって一軍を率いなければならない男としては、些か線が細すぎる印象だった。
新婚生活が始まった。鑑興はタエの見立て通り心根の優しい好青年だったので、二人きりでいる時間はおままごとのように平和で楽しかったが、タエには未来の城主夫人として頭の中に叩き込まなければならない事柄が山ほどあった。吉岡家の一族および主だった家来の顔と名前を憶えるだけでも一苦労である。そういった諸々の習得にタエが四苦八苦していると、鑑興が心配して、
「いっぺんに憶えなくても良いんだよ。少しずつで良いんだよ。無理しないでね、タエさん」
と優しい言葉で労わってくれる。その他にも新しい生活に慣れずに戸惑うタエを鑑興は細かく気遣い、どんな場合でも庇ってくれたものだから、タエは心から鑑興に惚れた。親が決めた結婚だったが、運よく素晴らしい夫に巡り会える結果になったわけである。ただ、鑑興にも問題点が無いわけではなかった。初対面の時にタエが抱いた印象通り、城の大将としての力強さに欠けていた。それは鑑興本人も気にしていて、家来が帰った後、鑑興は城の道場で密かに剣の特訓をしていた。鑑興に稽古をつけていたのは、家老の中島玄佐である。生まれつき虚弱で運動神経の鈍い鑑興は、何度挑みかかってもやられっぱなしだった。鑑興が倒れる度に玄佐の怒声が飛んだ。
「何じゃ、そのへっぴり腰は。そんな事だから、いつまでたっても上達しないのですよ、若。さぁ、もっと腰を入れて、気合を込めて、もう一度わしに打ちかかってきなさい」
ある日、いつものように玄佐と鑑興が剣の秘密特訓をしていると、
「玄佐、あなたはもういいから下がりなさい」
という声がかかった。声の方に眼をやると、道場の入り口に稽古着姿のタエが立っていた。それを見て鑑興も玄佐もギョッとした。
「若奥さま、もういいとはどういう意味でしょうか?」
玄佐がぽかんとした表情でそう尋ねると、タエは即答した。
「夫の稽古相手はわたしが務めますから、あなたはもう下がって良いと申しているのです」
「若奥さまが若の稽古相手?」と玄佐は笑いだした。「冗談はおやめください、若奥さま」
「冗談かどうか試してみますか、玄佐?」
挑発された玄佐はタエと木刀を構え合った。鑑興は怯えた表情で二人を見ていた。玄佐が裂帛の気合を発して打ちかかるや、タエはヒラリと身をかわして玄佐の小手をピシッと打った。握っていた木刀を床に叩き落とされた玄佐は「まいった!」と叫んだ。
「これで納得しましたか、玄佐?」
タエにそう尋ねられた玄佐は眼を白黒させ、何が起きたのか未だ状況を把握できていない様子だった。
「あ・・・いや、お見事な腕前です・・・若奥さまはどこでこのような技を習得なされたのですか?」
「そんな事はどうでもイイでしょうが。玄佐、あなたのやり方では、いつまでたっても殿は上達いたしません」
「わ、わたくしの指導方法が間違っているとおっしゃるので?」
「はい。夫は生まれつき非力な体なのです。そういう人にはそういう人に合わせた訓練方法があります。あなたのようながむしゃらなやり方では、かえって逆効果です」
「それなら若奥さまは、どうやって若殿を鍛えるおつもりなのですか?」
「わたしは非力な女です。あなたより腕力がありません。でも、剣を持たせれば、あなたより強い。つまりわたしのように強くなって頂くのです。それはわたしにしか教えられません」
「確かに・・・」
「それにわたしたちは夫婦です。夫の問題は妻であるわたしの問題でもあります。夫婦は足りないところを互いに補いながら協力し合って前へ進むのが、本来のあり方であると思います」
「はぁ・・・」
「そういうわけですから、夫の稽古相手はわたしが務めます。あなたも異存ありませんね?」
タエはそう言って鑑興の方を見た。タエの迫力に圧倒されていた鑑興は「・・・あ、はい、お願いします」と小さな声で答えた。
翌日からタエによる猛特訓が始まった。剣は力にあらずと言っていたくせに、タエがまず鑑興に命じたのは、城内を何周もする長距離走。木刀の素振り千回。基本の型の反復百回という面白くも何とも無い繰り返しであり、玄佐の時よりも肉体を酷使するメニューだった。鑑興はたちまちヘロヘロになったが、まさか新妻の前でぶざまな恰好を見せるわけにはいかず、そうなったら夫の面目丸つぶれなので、普段なら望むべくもない頑張りを発揮し、歯を食いしばりながら何とかタエのしごきに耐えた。お陰で鑑興の基礎体力が徐々についてきた。