第7章 子供時代の終わり
アナミとタエにうまく乗せられたみたいで、些か納得できぬ思いを抱えながらも、二人に言われた通り、オネは弓の稽古に明け暮れた。タエが見抜いたように、もともと弓の素質があったオネは、稽古すればするほどメキメキ腕を上げた。子供用の弓では小さすぎるので大人用の弓を使っていたが、体が大きいぶん腕力も強いオネが、大人用の弓を力いっぱい射ると、放たれた矢は凄まじい勢いで一直線に的へ向かい、的をバラバラに吹き飛ばした。
稽古が終わると、オネもタエと一緒にアナミのところへ通い、様々な戦争の話を聞いた。
「以前、戦争は勝たなければ意味が無いと説明しましたけど、勝つ為に敗けるという選択をする事があります」
「勝つ為に敗ける?」
アナミの言葉を聞いたタエとオネはビックリしてそう訊き返した。
「そうです。最終的な勝利の為に、いったん敗けて退却するのです」
「逃げるわけ?」
タエがそう尋ねると、アナミは頷いた。
「その通り、逃げるのです。逃げたらどうなりますか?」
「敵が追ってくるわ」とオネが答えた。
「はい。敵が追撃してきますよね。そうしたら敵を自軍に有利な地形に誘い込み、そこで反転攻勢するのです。こういう戦法はモンゴルの兵が得意にしていました」
府内の弓道大会で連続優勝すると、オネは弓の名手として評判になり、体格の大きさもあって鎌倉時代に実在した巨体の女武者・板額御前の生まれ変わりだと噂する人まで出てきた。評判の高まりに合わせるように、オネは自分に対する自信を持ち始めた。それまでは、いつも暗い表情でうつむいてばかりいて、誰とも話をしようとせず、少しでも背を低く見せる為に前かがみで歩いていたオネが、背筋をしゃんと伸ばし、堂々と顔を上げ、他人と笑顔で会話できるようになったのである。まさにアナミが仕組んだ通りの結果になった事をタエは喜び、アナミのところへ連れて行って本当に良かったと思った。うつむいてばかりの時は気づかなかったけれど、顔を上げたオネがなかなかの美人であったのも、タエにとっては嬉しい発見だった。タエとオネは、武術に、勉学に、そして趣味の戦争研究に、二人して励んだ。
「勝つ為に敗けるという戦法には、敗けたふりをして逃げるだけでなく、いったん本当に降伏し、つまり城を明け渡して、敵が油断しているところを逆襲するというテもあります」
すっかり自信を持ったオネは、もはや悪ガキにいじめられる事は無くなり、逆にいじめっ子を懲らしめる側になった。タエとオネは弱い者いじめをしている奴を見つけては、二人してコテンパンにやっつけて回ったものだから、薙刀を担いだタエと大きな弓を抱えたオネが、肩で風を切りながら通りを歩いて来ると、不良少年たちは慌てて蜘蛛の子を散らすように逃げるか、その場で死んだフリをして二人が通り過ぎるのを息を殺してじっと待つという有様だった。
「勝たなくても敗けなければ良しとする場合もあります。敵と比較して味方の兵数が圧倒的に少ない場合、こちらからは攻めかからず、防御に徹するのです。籠城戦がその代表です。まずは鉄壁の防御陣地を築き、攻撃してくる敵を消耗させながら味方の援軍を待つのです。防御陣地のお手本としては、百年戦争の時イングランド軍が得意にしていたダプリン戦術が最適でしょう」
薙刀はある程度極めたので、タエは次に鉄砲の練習がしたいと思ったが、鉄砲となるとさすがにその機会は得られなかった。一度、父親の丹生正敏に「鉄砲が欲しい」と頼んでみたが、「ウチには水鉄砲しかねえわ」と端から相手にされなかった。
「戦争は団体戦、集団による攻防ですが、所詮は人間がやる事ですから、戦場では個人の力が大いにモノを言う場合が多々あります。いつかお話したジャンヌ・ダルクのように、一人の女兵士の頑張りが自軍の士気を高め、勝利を導く事があるのです。お二人がそういう存在になれると良いですね」
タエとオネに様々な事を教えてくれたアナミだったが、二人が十四歳の年に日本を離れ、インドへ赴任することになった。アナミの転勤を知ったタエとオネは何日も泣き暮らし、出航の日は二人して港へ見送りに行った。出航間際になってもアナミの体にしがみついて離そうとせず、延々と泣きじゃくるタエとオネに向かって、アナミは優しく語りかけた。
「ほらほら、いつまでも駄々をこねていてはいけませんよ。いつか教えたじゃありませんか、人生はお別れの連続だって」
「いやだ、いやだ、アナミとずっと一緒にいたい」
タエが首を横に振ってそう懇願すると、オネも「わたしも」と言ってさらに大きな声で泣き始めた。
「日本での私の役目は終わったのです。たぶん私は神様からお二人の教育係に任じられていたのでしょう。その仕事が終わり、神様は次の任務を私にお与えになったのです」
「わたしたちには未だアナミが必要だわ」
「乳離れしない子供のような事をおっしゃらないでください。お二人はもう大人です。私の役目は終わりました。今度はお二人が、素晴らしい伴侶と家庭を持って、次の世代の人間を育てる番です」
「アナミは? アナミは一人で寂しくないの?」
タエがそう訊くと、アナミは微笑した。
「私はこの身を神様に捧げた人間です。普通の生活はできません。しかし、タエちゃんとオネちゃんは違います。お二人には、これから新しい出会いがあり、新しい生活が待っているのです」
「あたしも出家してアナミと一緒にインドへ行くわ」
「タエちゃんが出家する事は神様が望んでおられません」
「どうして? そんな事わからないじゃないの」
「わかります。その黙示がありませんから」
「黙示って何?」
「神様はご自分の本心を明かしてくださいませんけど、それに気づくような手掛かりを、私たちに暗示してくださるのです。神様がタエちゃんとオネちゃんの出家を望んでいるなら、私に対して何らかの示唆があったはずです。しかし、残念ながらそれはありませんでした。ということは、神様はお二人に別の道へ進む事を望んでいらっしゃるのです」
「あたしたちは何をすれば良いというのよ?」
タエは泣きながらそう叫んだが、アナミは冷静だった。
「今はこのまま真っすぐ進むのです」
「神様がわたしたちに与えた使命というものの中身は、いつになったらわかるのですか?」
オネがそう尋ねると、アナミはオネの方を向いて答えた。
「それは未だ誰にもわかりません。しかし、いずれわかる時が来ます。必ず来ます。その時まで自分を律しながら待っていてください」
「あたしは豊後のジャンヌ・ダルクになれるかしら?」
タエがそう尋ねると、アナミはニッコリ頷いた。
「なれますよ、タエちゃんなら」
「わたしは?」とオネが尋ねる。
「オネちゃんもなれます。考えてみれば、私は二人の女傑を育てたのかもしれませんね。いや、きっと育てたのでしょう。神様が私にこのような素晴らしい仕事を与えてくださった事に、今は感謝しかありません。人間にとって最大の喜びは、素晴らしい仕事を成し遂げる事に尽きますからね」
タエとオネを前にして、アナミは最後にこう告げた。
「これから離ればなれに暮らすことになりますけど、心に留めておいてくださいね、私がタエちゃんとオネちゃんを決して忘れないという事を。海の向こうからいつもお二人のことを思っているという事を。体は離れても心はずっと一緒です。神様が与えてくださった使命を、お二人が立派に果たすのを期待していますよ、タエちゃん、オネちゃん」
アナミを乗せた船が港を離れていった。タエとオネは、水平線の彼方に船の姿が見えなくなるまで、ずっと見送った。泣きながらずっと見送った。