第5章 オネ
タエが通っていた剣術道場は女性専用で、大人の部と子供の部に別れ、豊後各地から集まった上流家庭の娘が、花嫁修業の一環として稽古していた。タエはもちろん子供の部に属し、得意の薙刀以外は同年代の女子と一緒に稽古していた。師範は白い髭を蓄え、いつもニコニコ微笑んでいる温厚な老人だったが、昔は剣の達人として他国にまで名が知れた存在だったという評判だった、その真偽は不明ながら。
ところでタエは、自分たち子供の部に大人がひとり混じっているのが、少し前から気になっていた。その女性はすごく暗い雰囲気で、他の誰とも話をしようとせず、いつも道場の隅っこで、うつむきながら孤独に木刀を振っていた。
(何なのかしら、あの人は? 誰かの付き添いなのかな?)
色んな事情があるのだろうから気にしないでおこうと思ったタエであったが、気にしないようにしようと思えば思うほど逆に気になり、とうとう我慢できなくなって老師範にこっそり「先生、なぜ大人が混じっているのですか?」と訊いてみた。師範は白い髭を揺らしながら大笑いした。
「大人? あれはタエと同じ年齢じゃよ」
「えええ? でも、体が大人と同じくらい大きいですよ」
「あの娘は生まれつき異常に大柄でのお。本人はそれが嫌で、ひどく気に病んでいるようじゃ」
「へぇー、そうなんだ・・・」
「まぁ、可哀想じゃよなぁ、他の娘とまるで体格が違うから」
「名前は何というんですか?」
「古後城主の娘で、オネ(於祢)という名じゃ。ぜひ仲良くしてやってくれ」
後に天下人となる羽柴秀吉の正室と同じ名前だが、そんな事をタエが知る由も無く、ここではどうでもイイ話である。とにかくタエはオネに興味を抱き、彼女に近づこうと試みた。しかし、オネは稽古が始まる時間ぴったりに現れ、稽古中は黙々として他人を寄せ付けず、稽古が終わるやそそくさといなくなるので、話かける機会が無かった。ところが、ある日の帰り道、オネが路上で三人の悪ガキにからまれている場面に、タエは遭遇した。三人はオネに群がって「やーい、バケモノ」「大女」「オバケ女」とからかってイジメていた。オネは大きな体を縮めてメソメソ泣いていた。頭にカーッと血がのぼったタエは
「コラーッ、てめえら、そこで何やってんだ!」
と大声を上げた。
「あん?」
三人が一斉に振り向いたところへ、タエは怒りの形相でずんずん突進していった。
「てめえら、男のくせに女の子をイジメて恥ずかしくねえのかよ?」
「おめえには関係ねえだろが、バーカ」
「おれは弱い者イジメしてる奴を見ると許せねえんだ」
「許せないならどうするってんだ?」
「こうする!」
そう言うなりタエは正面の悪ガキに頭突きを喰らわせた。悪ガキは悲鳴をあげて倒れ、鼻血がどっと出た。残り二人の顔が怯えた表情に変わった。
「もっとやっか、おう?」
タエが炎のような眼差しでそう一喝するや、三人は慌てて逃げていった。三人がいなくなると、タエは一転して優しい顔になり、穏やかな口調でオネに話しかけた。
「大丈夫、オネちゃん?」
「え?」とオネは驚いた表情をした。「なぜわたしの名前を知ってるの?」
「同じ道場に通う仲間だもの。名前くらい知ってるわよ」
そう言ってタエは快活に笑い、「さぁ、オネちゃん。涙を拭いて」と手拭いを差し出した。オネは黙って手拭いを受け取り、涙を拭いた。そして小さな声で「ありがとう」と言い、ぺこりと頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして。でも、あんな悪ガキどもに泣かされているようじゃダメよ。次はぎゃふんとやっつけてやらなくちゃ」
「うん・・・」
それだけ言うと、オネはそのままスーッと消えるように帰っていった。タエは「時間がかかりそうね」と呟いた。
翌日の稽古前、オネがタエのところへやって来て、「これ・・・」と言って昨日の手拭いを返した。手拭いはきれいに洗濯されていた。
「返してくれなくても良かったのに」
そう言って微笑んだタエの前で、オネは何か言いたそうにモジモジしている。タエが辛抱強く待っていると、ようやく口を開いた。
「・・・あの・・・名前は何というの?」
「あたし? あたしはタエ」
「タエちゃん?」
「そう、タエ」
「ありがとう。昨日は助けてくれて」
「いいのよ、あれくらい朝飯前だから」
「タエちゃんは強いのね」
「小さい頃から男の子とケンカばかりしていたから、ケンカ慣れしているのよ、あたしは」
「へえ・・・」
「ケンカには一度も敗けたことがないのよ。男なんか弱虫ばかり」
「へえ・・・」
「オネちゃんだって本気でやれば勝てるわよ」
「うん・・・」
今回もまたそれだけ言うと、オネはタエからスーッと離れていった。心の扉を開いてくれるまでの道のりはまだまだ遠そうだった。しかし、その程度の事にめげるタエではない。積極性こそはタエの持ち味である。「オネちゃん、一緒にやろう」「オネちゃん、一緒に食べよう」「オネちゃん、一緒に片付けよう」「オネちゃん、一緒に帰ろう」と、タエは何をするにもオネを誘い、四六時中そばにいるようにした。最初、オネは逃げるような素振りをしていたが、それでもタエがしつこく付きまとってくるものだから、とうとう観念して少しずつ心を開き、タエにだけは自分から話しかけるようになった。やがて、それまでは他人に相談しても無駄だし、口にするだけで心が痛くなるので誰とも話をするのを避けていた、体が大きなことの悩みも打ち明けるようになった。
「タエちゃんはいつも元気で楽しそうだね」
「楽しいよ。オネちゃんは楽しくないの?」
「わたしは楽しくない」
「どうして?」
「みんなからバケモノって言われるから・・・」
体が人一倍大きい事がコンプレックスであり、それがオネを暗くしている理由なのは、タエにも当然わかっていた。しかし、ここを突破しなければオネは一生暗いままだ。オネに明るく元気になって欲しい。自分に自信を持って欲しい。劣等感の無い生活を送って欲しい・・・そう願っていたタエは厳しい表情でオネの顔を見つめた。
「なぜオネちゃんがバケモノなの?」
「わたしはこんなに体が大きいから・・・」
「なぜ体が大きいとバケモノなの?」
「他にこんな人いないもの・・・」
「他の人と同じでなければいけないの?」
「わたしはみんなと同じがいい。みんなと同じになりたい。わたしだけ大きいのは嫌だ。普通がいい。みんなと同じになりたい」
そう言うとオネは両手で顔を覆い、しゃがみ込んでしくしく泣き始めた。
「あのね、オネちゃん」とタエはオネの肩にそっと手を置いた。「他人より体が大きいのは悪い事じゃないのよ。だって、それで誰かの迷惑になるわけじゃないでしょう? アナミが言っていたわ。この世に無駄なものは無いって。ぜんぶ意味があるんだって。オネちゃんの体が大きいのにも、きっと意味があるのよ」
「アナミって誰?」
「イエズス会の修道士よ」
「修道士?」
「あたしと仲が良いの」
「へえ・・・」
「そうだ、今からアナミの話を聞きに行こうよ。オネちゃんに紹介してあげるわ、あたしの親友のアナミを」