第3章 タエ
妙林尼は、本名をタエ(妙)という。父親は朱や水銀の原鉱石を採掘する丹生一族の丹生正敏で、府内の外れに屋敷を構えていた。その屋敷で天正二十(1551)年に生まれたタエは、幼少の頃からたいへんなお転婆娘で、しょっちゅう近所の男の子を泣かせていた。正敏も、妻の八重も、何とかタエをおとなしく、おしとやかに育てようとし、
「タエは女の子なのだから、女の子らしくしなければなりませんよ」
何度もそう言い聞かせたが、そんな忠告なんかどこ吹く風、タエはすぐに屋敷を抜け出し、腕白どもに交じって外で木登りをしたり、虫採りをしたりして遊んでいた。生まれつき運動神経が優れているらしく、タエは足が速く、動きが敏捷で、高い木の枝にも子猿のように軽々と飛び乗っていた。さらに、男の子とばかり遊んでいたので、普段タエは自分のことを「おれ」と呼んでいた。「それだけはやめてくれ」と、八重が何度も注意したが、タエは改めなかった。
このように男勝りでやんちゃなタエであったが、かといって弱い者いじめをする事はなく、逆にいじめられて泣いている子がいれば助けに行っていたので、子供たちの間では人望が厚かった。子分もたくさんいて、彼らをよく統率していた。そんなタエを見て正敏は、
(この子が男に生まれていれば、将来はさぞかし優れた武将になったであろうに・・・)
と残念がった。
十二歳になると、タエは近所の悪ガキと遊ぶことがなくなり、その代わり府内の中心地へ一人で出掛けるようになった。
「危ないから一人で遠くまで行ってはいけませんよ」
と八重に言われていたが、そんなのは知った事じゃなかった。もはや子供っぽい遊びでは物足りなかった。自分の行動範囲を広げ、冒険を、刺激を、新たな体験を、タエは求め始めた。要するに思春期を迎えたのである。おあつらえ向きに当時の府内は、ポルトガルの商人や宣教師がウロウロし、あちらこちらにデウス堂と呼ばれた教会を初めとする西洋風の建物が点在するエキゾチックな都で、まさに冒険にはうってつけの場所だった。タエは奇妙な建物や異世界の住人であるポルトガル人をワクワクしながら見て回った。物怖じしないタエはデウス堂へもずかずか入っていった。この可愛くて人懐っこい少女は宣教師たちの間で人気者となり、日本布教長のトルレス神父はタエが来ると目を細めて喜び、
「いらっしゃい、日本の小さなお嬢さん」
と声を掛けていた。
タエは宣教師たち全員と親しくなったが、とりわけ仲良しだったのはアナミという若い修道士だった。アナミは端正な顔をした、もの静かな青年で、タエが来ると一緒に石蹴りをして遊んだり、近所を散歩したりした。散歩しながらアナミは、自分が育ったヨーロッパの話をよくタエに聞かせてくれた。タエはアナミと二人でいると、自分が大人になったように思えて、楽しくて仕方なかった。アナミはタエの初恋の人であり、アナミの前でだけはタエもしおらしい態度をしていた。
春先のある日、タエとアナミが港まで歩いて行くと、ちょうど南蛮船が沖へ向かって出航していくところだった。二人は仲良く石段に腰かけてその光景を眺めた。ポカポカと照り付ける柔らかな日差し、優しく海から吹いてくる潮風、波の音、カモメの鳴き声、時間がゆっくり過ぎてゆく・・・
去り行く船に目をやりながらタエが「アナミが生まれた国は、さぞ美しいんでしょうね」と言うと、アナミは静かに微笑んだ。
「はい。とても美しいところですよ、私の生まれ故郷は」
「日本より美しい?」
「うーん、美しさの種類が違いますから、どちらがどうとか優劣はつけられません」
「風景がぜんぜん違うの?」
「違いますね。私の故郷はもっと濃い感じです。日本は淡い。淡く澄んでいる、ひたすらに・・・」
「日本は物足りないの?」
「そういう意味ではありません。独特の美があると申しているのです」
「独特の美?」
「はい。日本特有の清明な美しさです。同じ東洋でも、中国やインドとはぜんぜん違います」
「日本が好き?」
「好きですよ」
「本当?」
「はい。タエちゃんの住むこの日本が私は大好きです」
「それなら、ずっと日本にいてくれる?」
タエがそう言って目を輝かせると、アナミはうつむいて困惑した表情をした。
「それは・・・私は神に仕える身ですから、いずれ神の教えが未だ届いていない国へ布教をしに行かねばなりません・・・」
「なんだ、つまんないの・・・」
タエが急にしょんぼりしたので、アナミは心配した。
「どうしたのですか、タエちゃん? 元気を出してくださいよ」
「だって、アナミがいなくなるって言うんだもの」
「今すぐいなくなるわけじゃありませんよ」
「でも、いつかはいなくなるんでしょ?」
「まぁ、そうですけど・・・」
「アナミがいなくなったら寂しいわ」
「タエちゃんの人生は、いま始まったばかりじゃありませんか。タエちゃんはこれからもっともっと大きくなって、たくさんの人と出会って、そうして人間として成長してゆくのです。私なんぞは、その成長の過程で出会った、行きずりの旅人に過ぎません」
「そんなの悲しすぎるわ」
「でも、さいきん私は思うのです。けっきょく人生はお別れの連続なのではないかと・・・もちろん新しい出会いもありますよ。でも、最後はやっぱりお別れになる・・・」
「どういう意味?」
「たとえば私は海の向こうから船ではるばる東洋へやって来ました。私は教会に拾われた孤児ですので、故郷に両親はおりませんけど、それでも友人や知人はたくさんいます。こちらで、東洋の地で死ぬ運命の私は、二度と彼らに会えないでしょう。会えなくなった人がたくさんいるのです」
「故郷へ帰りたいの?」
「いいえ、そうではありません。ただ不思議な気持ちになるのです、生きていると二度と会えない人が増えてゆくのが・・・でも、それが人生なのでしょうね・・・お別れするのが人生なのでしょうね・・・」
「お別れするのが人生なの?」
「人と別れるだけではありません。小さいころ持っていた夢や理想ともお別れしなければなりません・・・生きていると、ほとんどの人が・・・」
「アナミの話は難しすぎて、おれ・・・いや、あたしにはよく分からないわ」
「ごめんなさい。今はまだそうでしょうね」
「アナミは変わってるね」
タエがそう言うと、アナミは苦笑した。
「そうですか?」
「教団の他の人と違うわ」
「私は変人・・・いや、出来損ないですからね。自分のダメさを知っているから神に救いを求めているのです」
「でも、あたしは大好きよ、そんなアナミが」
そう言ってタエが笑顔を向けると、アナミは赤面した。