第2章 戦雲
天正六(1578)年、島津軍に国を追われた日向国の大名・伊東義祐を保護した四十九歳の大友宗麟は、何をトチ狂ったのか日向の地にキリシタン王国を作る夢を抱き、家臣が猛反対するのを無視して島津討伐のため日向へ進軍した。結果は大敗北。大友軍は有力武将を多数失い、宗麟は食べる物が無く飢餓寸前の有様で命からがら豊後へ逃げ帰ってきた(耳川の戦い)。
この大敗が大友家の目に見える衰退の始まりだった。従属していた氏族に次々と見限られ、九州各地で反乱が勃発した。すると、この機に乗じて島津が侵攻してきた。窮地に陥った宗麟は天下人目前の織田信長に仲介を頼み、何とか島津と停戦する事に成功した。ようやく一息つけてホッとしていたところ、天正十(1582)年六月、頼りにしていた信長が本能寺の変で急死してしまう。その瞬間、信長の仲介で結ばれた和平条約は消滅し、再び島津が攻めてきた。獰猛な島津軍の猛攻にさらされた大友軍は為す術なく、どんどん後退していくばかり。大友家滅亡の危機である。
「まずいぞ、まずいぞ、まずいぞ、これは!」
絶体絶命の危機に直面した五十六歳の宗麟は、信長に代わり天下人となった羽柴秀吉に助けを乞う事にした。内心では秀吉を「足軽出身のくせに」とバカにしていた宗麟だったが、こうなると背に腹は代えられない。当時、宗麟は国府である府内を離れて臼杵の丹生島城を本拠地にしていたが、天正十四(1586)年三月、その臼杵から海路、大阪へ向かった。
大阪に到着した宗麟は、それまで見たことが無いほど華やかで活気溢れる大都会に、まずは度肝を抜かれた。
(何だ、この賑わいは。喧噪は。人の多さは・・・)
秀吉がいる大阪城はまだ建設途中の部分を数多く残していたが、それらの工事に携わる人夫の数の多さ、大河のように巨大な堀、鉄製の城門など、すべてが宗麟の想像を遥かに超えるスケールの大きさだった。文化芸術に精通し、ポルトガル国王に親書を送るなど海外にまで目を向けている自分こそが、時代の最先端を行く天才だと自惚れていた宗麟は、ここに来ておのれの限界を思い知った。
(俺は井の中の蛙。何者でもない。単なる田舎大名の一人にすぎなかった・・・)
大阪城の大広間で秀吉に拝謁した宗麟は、この猿顔の小男が途轍もないエネルギーを秘めている事を、自分との圧倒的な格の違いを、一瞬で悟った。
(世の中、上には上がいるものだ・・・恐ろしい・・・)
卑賎の出である秀吉は、由緒正しき大名である宗麟が目前で深々と平伏し、ひたすら臣下の礼を取っている姿にご満悦で、上機嫌のまま宗麟を天守閣へ案内したり、黄金の茶室で茶を振る舞ったりした。そして島津を討伐すると宗麟に約束した。
秀吉の本軍が九州へ進軍すれば、さしもの島津も歯が立たないのは明らかだったが、徳川家康と交戦中であるため、すぐには動けなかった。その間にも島津軍は、筑前、肥後、日向の三方面から続々と侵攻してきた。中年期以降ボンクラに成り下がった宗麟であったが、幸い家臣に恵まれており、立花宗茂ら有能な家臣が善戦し、何とか島津の猛攻を防いでいた。しかし、長くは持たないのは明らかだった。
宗麟は丹生島城にイキの良い武者と兵糧をかき集めて籠城し、ひたすら秀吉軍の到着を待つ作戦に出た。その名の通り、干潮時にだけ対岸と陸続きとなる島の上に建てられた丹生島城は、四方を海に囲まれた天然の要塞であるため攻めるのが難しく、籠城にはうってつけの城だったのである。宗麟が以前ポルトガルから購入した当時の最新兵器フランキ砲(国崩しと呼ばれていた)が2門、城に据えてあるのも心強かった。
天正十四(1586)年七月、秀吉は関白となり、九月に朝廷から豊臣の姓を賜り、さらに十二月には太政大臣にも就任して、名実ともに日本国の最高権力者、私たちにお馴染みの豊臣秀吉となった。ちなみに、「豊臣」という姓は「源」や「平」と同じく朝廷から賜与されたものなので、秀吉という名との間に「の」を入れて「とよとみのひでよし」と読むのが正しい。
秀吉の権力基盤が固まり、徳川との交戦状態も解消したので、同年十二月、ようやく秀吉軍の先発隊として、仙石秀久、長宗我部元親・信親父子に率いられた六千の兵が豊後に到着した。
(ぃよっしゃー、これで安心だ!)
宗麟が歓喜したのは言うまでもない。
秀吉から先発隊に下された指令は、本軍が到着するまでの間、防御に徹して島津軍を足止めにしておけ、というものだった。ところが、功を焦った先発隊は勝手に攻めかかり、その結果、戸次川の戦いで、肥後方面から進軍して来た島津軍に大敗北を喫し、あっけなく全滅してしまった。
(はぁ? 何してくれてんのよ、おまえらは?)
宗麟、愕然。もはや残る望みは秀吉本軍の到着のみとなった。秀吉本軍の到着が早いか、大友家の滅亡が早いか、時間との戦いである。
府内から東へ十キロも行かない場所に鶴崎城という小さな支城がある。代々吉岡氏の守る城であったが、城主の吉岡鑑興が耳川の戦いで戦死した後、十八歳になる息子の統増が城主となり治めていた。ところが、その統増を宗麟が、若くてイキの良い武者と共に、ごっそり束にして丹生島城防衛の為に持っていったものだから、城に残っているのは老人と女ばかりという有様になった。統増がいなくなった後の城主は、統増の母で、夫・鑑興の死後に出家して妙林尼と号する三十五歳の女性である。
鑑興の父の代から鶴崎城を取り仕切る家老の中島玄佐は、この戦争が始まって以来ずっと島津軍が城に迫った場合にどうするかを考えていたが、年寄りと女ばかりでは戦いようが無く、これでは最初から勝負にならない、島津軍が攻めて来たら戦わずにさっさと降伏するしかない、という結論に達していた。常識的に考えれば、この老臣の考える通りである。ところが、ボンクラのくせに知恵だけは働く宗麟が、そうなるのを見越してか、先回りしてこう命令してきた。
「降伏は許さん。降伏した者は死罪に処す。逃げた者もまた同じ。諸君は最後の一人になるまで戦い、一日でも、一時間でも、一分でも敵の侵攻を食い止めるのだ。秀吉軍が到着すればこちらの勝利は間違いないのだから、何としてもそれまで時間稼ぎをするのだ。それが諸君に課せられた使命である。諸君の死は無駄ではない。犬死にではない。これは殉教であり、必ずデウス様が天国へ連れていってくれる。だから安心して死んでくれ。神は諸君に期待しているぞ」
鶴崎城に残っている者たちはガックリと肩を落とした。戦おうが、降伏しようが、どのみち命が無いわけである。これでは元気が出るはずがなかった。戸次川の戦いの翌日、府内城が落ち、次はいよいよ鶴崎城の番である。死の時が刻一刻と近づいて来る。皆が意気消沈し、城じゅうに暗いムードが漂っていた。ところが、この絶望的な状況下にあっても、一人だけ心を弾ませている人物が城中にいた。城主の妙林尼である。彼女は心の中でこう叫んでいた。
(やっとわたしの出番が来たわ)