第18章 奇襲
鶴崎城で島津軍送別の宴が始まった。この一ヶ月あまりですっかり島津兵と親しくなった吉岡家の家臣たちが総出でもてなし、城のあちこちから賑やかな笑い声が聞こえた。
タエはいつものように野村備中守文綱をもてなしていたが、文綱はタエの返事ばかりが気にかかり、酒どころの話ではなかった。
「あのですね、妙林尼どの、早く返事を聞かせてくれませんか。そうじゃないと、せっかくの美味しいお酒も、まったく味がしないものですから」
「それは困ったものですねぇ」とタエは苦笑した。「いつまでもじらしていても仕方ありませんので、それではお返事いたします」
そう告げられた文綱は緊張した面持ちでタエの返事を待った。
「野村さまの申し出をお受けいたします」
「やったぁ!」
「ただし」
「え?」
「条件が一つあります」
「条件?」
「はい」
戸惑う文綱を目の前にしてタエは静かに語り始めた。
「わたしどもは丹生島城にいる大殿から最後の一人になるまで戦えと命じられておりました。逃げたり、降伏したりした者は死罪に処すとも。しかし、わたしは城内にいる者たちのことを考え、降伏いたしました。これは君命に背く大罪です。島津の皆さまがこの城を離れたら、わたしどもは必ず罰せられることでしょう。そういうわけですから、わたしの家臣を一緒に薩摩へ連れていってくださいませんでしょうか? つれていってくださるのでしたら、私は野村さまの妻になります。側室で構いません。それがわたしの条件です」
タエの話を聞いた文綱は「お安い御用です」と快諾した。「家臣の皆さん全員に薩摩へ来ていただきましょう」
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。島津家は有能な士を求めております。島津軍相手に少数で一歩も引かない戦いをした鶴崎城の皆さまなら、ウチの殿も大歓迎だと思います」
「それなら家臣を集めて薩摩へ行く準備をいたします」
「そうしてください」
「では、皆さまをお見送りした後、わたしどもは大急ぎで準備して後を追いますから」
「え? 妙林尼どのは、このまま私と薩摩へ向かってくれるのではないのですか?」
「わたしは城の責任者ですから、細々とした後始末をしたり、薩摩へ行く家臣をまとめたりしなければならないのです」
タエがそう説明すると、「何だ、つまんないなぁ・・・」と文綱の顔はガッカリした表情に変わった。
「またすぐに会えるじゃありませんか」
「それはそうですけど・・・」
「先に薩摩に着いたら、奥様にわたしのことをよく説明しておいてくださいね」
「あ、そうだ。忘れてた」
文綱はそう言うや、おでこをピシャリと叩いた。
「薩摩に到着した途端、奥様と揉めるのはイヤですよ」
「妻には一言も文句を言わせませんから大丈夫です」
「本当に?」
「本当です」
タエは「フフフ」と含み笑いをすると、
「道中、冷えるといけませんから、熱いのをたくさん飲んでいってくださいね」
そう言って熱燗を文綱の盃になみなみと注いだ。文綱はグイッと飲み干した。
「妙林尼どの、早く薩摩に来てくださいよ」
「妙林尼ではなく、タエと本名で呼んでください」
「え? いいんですか?」
「もちろんです。あなたはわたしの夫になる人ですもの」
タエの言葉を聞いた文綱は興奮して、続けざまに熱燗を三杯飲み干した後、声を裏返しながらこう言った。
「それじゃタエ、早く薩摩に来てくれよ」
「はい。すぐに追いかけます」
「タエがそばにいないと俺は寂しいんだ」
「わたしもです」
「薩摩で幸せに暮らそうな」
「ええ、あなた様となら幸せになれる気がします」
「気がしますじゃないよ、俺が必ずタエを幸せにするんだ」
「うれしい」
そう言ってタエが抱きつくと、文綱は幸せのあまり卒倒しそうになった。そんな文綱にタエが酒をどんどん勧めると、文綱はたちまち酩酊状態となり、ろれつが回らなくなった。
(一丁あがり)
タエはにんまり微笑んだ。
美味しい酒と美味しい料理で満腹になった三百名の島津兵は、体をホカホカさせながら、ご機嫌な様子で鶴崎城から去っていった。島津兵の姿が見えなくなると、タエは中島玄佐を呼び、醒めた表情で「打ち合わせ通りに始めろ」と命じた。
ついさっきまで笑顔で島津兵を接待していた吉岡家の家臣たちは、男も女もすぐさま真顔になって鎧や鎖はちまきを身に着け、開城のとき地下の隠し部屋にこっそり保管しておいた五十丁の鉄砲を取り出してきた。それぞれ弓、鉄砲、槍を持った百五十名の家臣が、城内の広場に整列した。深夜の風に揺れる松明の赤い炎に照らされた家臣たちの顔は、予め酒宴のとき自分たちは酒を控えるよう指示されていたので、みなシラフで緊張した面持ちをしている。その前に紫色の甲冑姿のタエが薙刀を手にして現れた。
「今からいくさの総仕上げをする。島津兵たちは良い気分で酔っぱらっている最中だ。このまま機嫌よくあの世へ送ってやれ。それがおれたちからのせめてもの友情のしるしだ」
タエは、侍女で編制された鉄砲隊五十名と、玄佐ら年寄りで編制された弓隊五十名を、近道を通って先回りさせ、島津軍の進行先に位置する乙津川の手前にある林の中に潜ませた。そして、残った腕の立つ連中は、タエが率いて騎馬で島津軍の後を追った。
何も知らない島津軍は、ほろ酔い気分でゆっくり進み、乙津川に差し掛かった時には夜が明け、東の空が白み始めていた。すると突然、轟音と共に林の中から銃弾が一斉に発射された。島津兵がバタバタと倒れる。また無数の矢が飛んできて、これにも多くの島津兵が倒された。
「何事だ?」
文綱が慌てて周囲を見回すと、後方から騎兵の集団が勢い良く攻めかかってくる。その先頭にいるのは、紫色の甲冑姿に変わっているけど間違いない、ついさっき別れたばかりのタエである。
(まさか)
文綱は我が目を疑った。しかし、事実だった。タエが馬上で薙刀を振り回し、鬼の形相で島津兵をバッサバッサと斬り殺している。他にも、さっきまで愛想よく酒をついでくれていた吉岡家の家臣たちが、別人のような恐ろしい表情で馬上から槍を島津兵に突き刺している。その間にも林の中からは休みなく銃弾と矢が飛んできて、島津兵が次々と倒されていく。
(俺はだまされたのか・・・)
島津軍は総崩れとなって潰走した。しかし、体内に酒がまだたっぷり残っているので、思うように動けない。そこを銃で、弓で、槍で、薙刀で、どんどん命を刈り取られていく。文綱も胸に矢を受け、どかっと落馬した。地面に転がった文綱は、胸に突き刺さった矢を何とか引き抜いた。傷口から血がどくどくと流れ出る。血を止めようとして傷口を手で押さえていた文綱の耳に、ゆっくり近づいてくる蹄の音が聞こえた。顔を上げると、馬に跨ったタエが、勝ち誇った表情で文綱を見下ろしていた。