第17章 文綱
「冷静になって、少し頭を冷やして、もう一度よく考え直された方がよろしいですよ」
そう言って一旦は帰したものの、野村備中守文綱は諦めきれず、再び舞い戻ってきてはタエを口説いた。
「お気持ちは嬉しいのですけど・・・」
タエがそう言うや、文綱は食い込み気味に
「それなら了承して頂けるということでよろしいのですね?」
と目を輝かせたものだから、タエは慌てて否定した。
「いえ、いえ、そうではありません。野村さまはわたしのことをよくご存じありませんので、もう少し慎重に、時間をかけて、じっくりとお考えになるべきではないのかと申しているのです」
タエにそう言われた文綱は、ややムッとした表情でこう尋ねた。
「私が妙林尼どのの何を知らないとおっしゃるのですか?」
「たとえば、わたしが野村さまより年上だとか・・・」
「恋愛に年齢は関係ありません」
「わたしには十八歳になる息子がいるとか・・・」
「ご結婚なさっていたわけですから、子供がいても何ら不思議はありません。私にだって国に二人の子供がおりますから」
「あと、わたしの性格とか・・・」
「性格がどうしたというのですか? そんな事、どうでも良いではありませんか。私は初めてあなたに会った時に、それはつまり開戦前に降伏を勧めに行った時ですけど、あの時に運命を感じたのです。この女性こそが俺の運命のひとだと思ったのです。おかしいですか、こんな私は?」
「いいえ、おかしくはありません」
「ひとを好きになるのはいけないことでしょうか?」
「いいえ、人間として当然のことです」
「それに私ならあなたを幸せにできる。というか、私しかあなたを幸せにできない」
文綱が急に変なことを言い出したものだから、タエは戸惑って訊き返した。
「あの、それはどういう意味でしょうか?」
「さっきあなたは私が妙林尼どのをよく知らないとおっしゃった。確かにそうです。私はあなたの深い部分を何ひとつ知らない。しかし、これだけはわかる、あなたには私が必要だ」
「はい?」
「私は馬鹿です。単純で平凡な男です。難しい理屈は分かりません。でも、本能がわかるのです。あなたの中には複雑な何かがあって、それが妙林尼どのの魅力の一端を担っているのは事実ですけど、一方でそれは破滅を導く恐ろしいものでもある・・・」
「何ですか、それは?」
「うまく説明できないのですけど、平凡な私だからこそあなたを救える気がするのです」
「わたしは野村さまに救ってもらわなければならないのですか?」
「すいません、救うというと語弊がありますね。私は誰かを救えるような立派な人間ではありません。ただ、こう思うのです。平凡な私と平凡な幸せを掴みましょうよ。それが私にとっても、妙林尼どのにとっても、いちばん幸せな道であるはずです」
「前にも申しましたけど、元々わたしは平凡な女です」
「そうでしょうか?」
「そうなのです」
「でも、それなら却って好都合ではありませんか。平凡な私とお似合いだということになりますものね」
「はぁ?」
「平凡な人間同士、末永く幸せに暮らしましょうよ」
「いや、ですからそれは・・・」
「とにかく私は妙林尼どの、あなたが欲しい。私との結婚を真剣に考えてくださいませんか?」
文綱が熱い眼差しでグイグイ迫ってくるものだから、タエは困り果てた表情で答えた。
「お話の趣旨はわかりました。少し考える時間をください」
「ええ、ぜひご検討ください」
「よくよく考えさせて頂きます」
「こちらは色よい返事を待っておりますから」
「ご期待に沿えるかどうかはわかりませんけど」
「またそんな冗談を・・・私は妙林尼どのを信じておりますよ」
そう言い残して文綱は帰っていった。文綱の後ろ姿を見送りながらタエは心の中で思った。
(あのバカ、おれの中にある複雑な何かがどうのこうのとぬかすものだから、こっちの企みが露見したのかと一瞬あせったじゃねえか。でも、その心配は無さそうだ。そろそろ決着をつけないとな。何をちんたらしてんだ。さっさと来いや、秀吉!)
タエを含めた大友家の人間全員が待ちに待っていた秀吉であるが、三月、遂に関白・豊臣秀吉が率いる二十万の大軍が九州に上陸した。島津軍は本国防衛のため一斉に豊後から撤収し始めた。三月七日、帰国の命令を受けた文綱は、青い顔をしてタエのところへすっ飛んで来た。
「大変です、妙林尼どの。今宵のうちに帰国しなければならなくなりました」
「あらま。急にどうなされたのですか?」
「都から関白の大軍が押し寄せてきたのです。私ども全軍は薩摩へ撤兵です」
この時、タエの瞳が一瞬キラリと光ったが、狼狽している文綱は気づかなかった。
「そこで急がせて申し訳ないのですが、先日の件の返事を頂きたい」
「先日の件と申しますと・・・」
タエがそう言って首を傾げると、文綱はイライラして大声を上げた。
「私との結婚ですよ。わかっているでしょうが」
「大きな声を出さないでください」
「すいません。つい取り乱しまして」
「その件につきましては未だ結論が出ておりません」
「私にはもう時間が無いのです」と言うや文綱は涙目になった。「私の真心は伝わっているはずです。どうか私と一緒に薩摩へ行ってください」
タエは顔を伏せてじっと考え込んでいたが、何かを決意した表情で顔を上げた。
「今夜、ご出発前に、お世話になった皆さまの為に、わたくしどもで送別の宴を催しましょう。場所は鶴崎城が良いでしょうね。あそこなら、ご出発前の皆さま全員をもてなすことができますから。その席で野村さまへの返事を申し上げます」
「期待していて良いのでしょうね?」
「良いと思います」
タエの言葉を聞いた文綱は天にも昇る気持ちになった。
「ありがとうございます、妙林尼どの」
「詳しい話はまた後ほどに。これから宴の準備をしなければなりませんので」
「城で待っております」
「楽しみにしていてください」
「今宵は幸せな夜になりそうですな」
文綱はウキウキした様子で鶴崎城へ戻っていった。
(いよいよ大詰めだな)
タエは家老の中島玄佐を呼んだ。