第10章 鑑興の死
結婚後の約十年間は、タエもオネも、子育て、城の雑事、侍女たちへの武術指導等で忙しいながらも幸せな日々を過ごした。統増を産んだあとタエには子供が授からなかったが、オネは何度か妊娠した。夫の帆足鑑直は「俺は本当に良い嫁をもらった」と、子だくさんを喜んでいた。
しかし、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。先に記したように、国主である大友宗麟個人のパワーダウンと共に豊後の国は内部に幾つもの亀裂が入り、また外部から毛利と島津がじわじわと圧力を強めてきたことが影響して、九州最大の勢力を誇った大友家は衰退の道を辿りつつあったのであるが、遂にそれを決定づける事態が起きたのである。
天正六(1578)年二月、島津軍に国を追われた日向国の大名・伊東義祐を保護した宗麟は、島津討伐のため日向への進軍を開始した。父・長増の死後、家督を継いで城主になっていたタエの夫・吉岡鑑興も、家来を引き連れて出陣することになった。タエは妙な胸騒ぎが止まらなかった。
「大丈夫でしょうか? 今回の出兵には反対する声が多いと聞きますけど」
出陣の朝、タエが心配してそう言うと、鑑興は
「ああ、宿老の立花道雪殿を初め、反対している者が少なくないようだな」
と答えた。
「わたしは不安でなりません」
「確かに島津は強敵だが、このまま日向をとられてしまうと、次はこの豊後が危ない。だから、どうしてもここで抑えておかなければならないのだ」
「それはよく理解できるのですけど・・・」
「まぁ、そう心配するなって。兵の数は大友の方が島津より多いし、今回は宗麟さま自らご出陣なさるのだから、万が一にも敗けるようなことはありゃしないさ」
「そうなら良いのですけど・・・」
「日向の地から島津を追い出したら、すぐに帰ってくるよ」
「くれぐれも無茶をなさらないでくださいね。功を焦って敵を深追いなさってはいけませんよ」
「わかってるよ。タエの言う通り慎重にやるよ。なにしろ俺の戦術戦略はすべてタエ仕込みだからな」
そう言って豪快に笑った後、鑑興はタエの横にいる息子の統増に顔を向けた。統増はこのとき十歳になっていた。
「統増、俺の留守中、心配性の母上を頼むぞ」
鑑興にそう言われた統増は「はい、父上」と元気よく答えた。
「よし。それでこそ我が息子だ」
満足げな表情を浮かべた鑑興は、タエに「それでは行ってくる」と告げて出立した。不吉な予感に苛まれていたタエであったが、まさかこれが鑑興との今生の別れになろうとは、さすがにこの時は思っていなかった。敗けて逃げ戻って来る事はあるかもしれないけど、死ぬことは無いだろうと思っていた。いくら何でもそこまで壊滅的な敗北を喫することは無いだろう、と・・・
ところが十月、いわゆる耳川の戦いにおいて、大友軍はその壊滅的な敗北とやらを喫したのである。有力な武将は悉く戦死し、総大将の大友宗麟でさえも飢餓寸前の状態で命からがら逃げ帰ってきた程の大敗北だった。鑑興は、退却の途中、耳川の近くで追撃してきた島津兵に討たれた。享年二十七歳だった。
鑑興の戦死を知ったタエは泣き崩れた。タエは悔しくてならなかった、自分の無力が。夫の助けになれなかった事が。アナミに習った戦術が宝の持ち腐れになった事が。
何が「わたしは豊後のジャンヌ・ダルクになる」だ。結局は何も出来ないまま大切な人を失ったじゃないの。役に立たなかったじゃないの。みすみす夫を死なせたじゃないの。こんなことなら、わたしも鑑興さまと一緒に戦場へ行きたかった。戦場で共に戦いたかった。たとえ戦死したとしても、その方がマシだったろう。こんなにつらい思いをするくらいなら、戦って死んだ方が良かった・・・
もちろん城主の正室が一緒に出陣するなど普通ではあり得ない話だし、鑑興の戦死はタエのせいではない。大友軍の総大将である宗麟のせいなのだが、人一倍責任感が強いタエはぜんぶ背負ってしまい、自責の念に苦しんだのである。
日出生城にいるオネの夫・鑑直も代替わりして城主になっていたが、今回こちらには出陣命令がかからなかった。よって鑑直は無事だったが、豊後の国が崩壊の危機に瀕している空気は、山奥の城にいるオネにもビンビンと伝わってきた。鑑興の戦死を聞いたオネは心配してタエに手紙を送った。そこには鑑興の死を悼む文言と共に
「今はつらいでしょうけど、統増ちゃんの為にあなたが頑張らなくては駄目なのよ」
という親友ならではの少し厳しめな叱咤激励の言葉が書いてあった。タエはオネの言う通りだと思い、元気を出そうと気張ってみたが、やはり気力が伴わず、その時にできた返事は
「わかった。頑張る」
それが精一杯だった。気丈なタエといえども、最愛の夫を失った悲しみからすぐに回復するのは、さすがに無理な注文だった。
鑑興を失った鶴崎城では、統増が新城主となった。とは言っても十歳の統増では何も出来ないので、実質的にはタエが城主だった。タエは落飾して妙林尼と名乗った。頭に白い頭巾を被り、法衣を纏った二十七歳の尼僧誕生である。これ以降、人々はタエを尼御前と呼ぶのだが、本人はこれに不満で、尼御前と呼ばれるのは婆さん臭くて嫌だと手紙に書いてオネに送ったところ、オネからこういう返事が送られてきた。
「尼御前ならマシじゃないの。わたしなんか最初はオネ御前と呼ばれていたのに、それが今では鬼御前と呼ばれているのよ。ひどい話でしょ? あまりにも厳しく稽古をつけたせいで、城内のみんなから恨まれているのかしら? ま、別に鬼御前でも構わないけどさ。日出生城に鬼御前ありという評判が立てば、敵が気味悪がって攻めて来るのを躊躇するかもしれないからね」
オネの返事を読んだタエは久しぶりに声を上げて笑った。
「鬼御前はイイわね。傑作だわ。また、鬼御前と呼ばれても、ちっとも気にせず悠然と構えているところが、オネちゃんらしいわ。昔からオネちゃんは、体も大きいけど、心もデカかったものね」
今後、戦火が豊後国内に及ぶ事が大いに予想された。タエは鑑興の生前からおこなっていた鉄砲の買い付けを進めると共に、城の改造にも着手した。鶴崎城は平城ながら左右を川に挟まれ、背後の北側は海に面しているので、敵兵が攻めて来られるのは南側しかなかった。城の建っている場所が丸い地形で、そこから南に向かって川に挟まれた土地がすーっと狭くなり、まるで鶴の頭と首のように見えるため鶴崎という地名が付いたのであるが、籠城戦になった場合の事を考え、タエは南側の細い土地にアナミから習った戦術を施せるよう少しずつ堀や石垣の形を変えていったのである。
また、タエは新城主である統増の教育を怠らなかった。
「統増、我が吉岡家の行く末はあなたにかかっているのですからね」
「はい、母上」
「くれぐれも父上の名を汚すような事があってはなりませぬよ」
「はい、母上」
統増はとても素直で、従順で、心の優しい少年だった。ただ鑑興と同じように、タエはそこにひ弱さを感じた。吉岡家の将来の為には統増にもっと強くなってもらわなくてはならない・・・もっと鍛えなくては・・・そう考えたタエは、かって鑑興に対してそうしたように、自ら統増に剣の稽古をつけた。本当は父である鑑興が息子の統増に稽古をつけてやるはずなのに・・・そうしてもらえなくなった統増を可哀想に思いながらも、本人の為に厳しく・・・ことさら厳しく・・・心を鬼にして・・・性格の良い統増は必死に母のしごきに耐えていた。