第1章 宗麟
戦国時代、織田信長が天下統一の夢に向かって日本の中央で悪戦苦闘していた頃、遠く西の九州で覇王になっていたのが、キリシタン大名として有名な大友宗麟である。宗麟は法号で、本名は義鎮という。豊後の国(現在の大分県)で大名家の長男に生まれた宗麟は、天文十九(1550)年二月、戦国大名にありがちな御家騒動の末、父と弟を殺して権力の座に就いた(二階崩れの変)。宗麟、時に二十一歳。その後、北の毛利、南の島津と争いながら領土を拡張してゆき、遂には九州最大の大名に上り詰めた。
宗麟は武将として優秀なだけでなく、能や茶道を初めとする諸芸に精通した文化人でもあった。容姿も武人というよりは文人のように端正で、理知的で、スラリと背が高く、常に思慮深げな表情を漂わせている美丈夫であった。
宗麟の文化芸術に対する優れた資質は、キリスト教の受容という形になっても表れた。
十六歳の時、国府である府内の港にポルトガル人が来航して大騒ぎになった。豊後は昔から中国と貿易していたが、販路拡大を目論んだポルトガル商人が、その中国船に同乗してやって来たのである。好奇心旺盛な宗麟は、父・義鑑の後について、さっそく見学に出掛けた。初めて見る西洋人に宗麟は目を見張った。巨大な体格、金色の髪、真っ白い肌、珍妙な衣服、不可思議な言語・・・異世界の人間は身震いするほど魅惑的だった。今の私たちにとっては、宇宙人に遭遇したようなものであり、ぜひ親しくなって彼らの文化を自分のものにしたいと宗麟は思った。ところが、中国人たちは義鑑にポルトガル人を殺せとけしかけた。そうすれば、彼らの所有物を自分のものに出来るからと言って。それが中国人のいつものやり口だった。義鑑の心が傾きかけた。押しとどめたのは宗麟である。ここでポルトガル人を殺せば、なるほど彼らが所持する金品を奪えるであろう。しかし、その一時的な利益だけでおしまいである。二度と彼らは我が国にやって来ない。それよりも、彼らと友好関係を築き、貿易をした方が、長い眼で見れば絶対に得だし、国の利益になる・・・そう説得して。義鑑は宗麟の言を聞き入れてポルトガルとの貿易を始めた。宗麟の思惑通り、貿易は豊後の国に富をもたらした。鉄砲や大砲も大量に入手できた。宗麟は弱冠十六歳にして先見の明を有していたのである。
ポルトガル商人の出入りが頻繁になると、次にキリスト教の宣教師が布教をしにやって来た。歴史の教科書で必ずお目にかかる、頭頂部を丸く剃り上げたユニークな髪型でお馴染みの、イエズス会のフランシスコ・ザビエルである。このとき四十五歳。天文二十(1551)年九月、前年から大友家当主の座に付いていた二十二歳の宗麟は、謁見に訪れたザビエルを大はしゃぎでもてなした。未知の文化に接するのは宗麟にとってこの上ない喜びだったからである。ザビエルは宗麟に深く感謝し、布教の許しを乞うた。家臣にも一般庶民にも異教に対する警戒心が根強かったが、無類の新しもの好きである宗麟にそのような心理的障壁があろうはずも無く、あっさり許可した。ザビエルがそれまでに出会った島津や大内ら他の大名は、みな閉鎖的な田舎者ばかりで、
(日本人への布教は難しいかもしれない・・・)
そう思って諦めかけていた矢先だったので、ザビエルは大喜びし、神に感謝した。
「殿は他の大名と違いますね」
ザビエルがこう言うと、宗麟の顔がにやけた。
「そうかい? 俺は変わり者だからな」
「殿の視野は広く、その瞳は遠く未来を見据えていらっしゃいます」
「おうよ、わかるかね?」
「日本人は誇り高く勤勉で賢い優れた民族ですけど、殿のように先見性を備えている人は、残念ながらそう多くないように思います」
「けっきょく時代遅れの田舎者なんだよな、日本人は」
そう言って宗麟は豪快に笑った。
二カ月後、ザビエルはポルトガル船に乗って次の布教地であるインドへ旅立っていった。その際、宗麟は船長にポルトガル国王への親書を託した。本当は自分自身がポルトガルへ渡航したいくらいの気持ちで、国主という責任のある地位でなかったらそうしたであろう。それくらい宗麟の目は世界に向いていた。日本に閉じ籠って満足しているような狭い了見はさらさら無かった。
ザビエルと入れ替わりにガゴという若い宣教師がやって来た。ガゴは宗麟にキリスト教の教義を解説した。宗麟は熱心に話を聞いた。
「姦淫してはいけません」
「俺のは純愛ばかりだから大丈夫だ」
「男色してはいけません」
「俺は女にしか興味が無いから大丈夫だ」
「人を殺してはいけません」
「それは・・・うーん・・・俺は一国の王として悪人を罰しなければならないし、極悪人には死罪を命じなければならないし・・・でも、これを禁じられたら国を統治するのは不可能だよ、実際・・・」
「正当な理由があれば許されるのです。今おっしゃったような法に基づく処刑とか、正当防衛とか」
ガゴはそう説明したが、宗麟は真剣に悩んでいた。
「戦争して他国の人間を殺す事もあるしなぁ・・・神の国は遠いなぁ、俺には・・・」
宗麟がキリスト教を保護した事により、次々と教会や育児院、西洋式の病院などが建てられ、府内は南蛮色に溢れた都市に変貌していった。宗麟本人もガゴから献上されたお手製の解説書を精読しては、ますますキリスト教にのめり込んでいった。
このように才気煥発、気宇壮大な宗麟であったが、大きな欠点を抱えていた。人望が無いのである。
もともと大名家の跡継ぎとして過保護に育てられたので、我儘な人間に育つのは致し方ないとしても、宗麟の場合はそれに収まりきれないほど自己中心的で他人を顧みない性格が強かった。常日頃から他者をバカにして見下す態度があからさまだったし、そのため協調性が皆無で、何事も独断専行で決め、家臣の意見など一顧だにしなかった。それでも織田信長のように《天下布武》という高邁な目標を掲げ、それに向かって突き進んでいれば人が付いて来たかもしれないが、宗麟にそんな大志は無かった。宗麟の関心は自己を中心とした狭いエリアに限定され、日本全体をどうこうしようという野望は持ち合わせていなかった。南蛮文化への愛着や異国への憧れも、あくまで宗麟の個人的満足の為であり、それを利用して国や社会を変革しようという大望を抱いたことなど無かった。自分が興味のあるものにのみ異常な執着をみせた宗麟は、いわば戦国時代のオタクだったのかもしれない。今も昔もオタクはリーダーシップとは無縁である。これでは人は付いて来ない。
キリスト教に関しても、一般の人間はやはり昔からある神社とお寺に親しみ、神道と仏教を愛していたというか、それらが身に染みついていた。それなのに宗麟が勝手にキリスト教の布教を許したものだから人々の反感を買い、これもまた宗麟の人望を下げる一因となった。
しかしながら、宗麟の人望を決定的に下げたのは、中年期以降に顕著になった常軌を逸した彼の女狂いである。女好きは宗麟だけではない。たいていの男はそうだし、大名が正室の他に何人も側室を持つのは、この時代ではあたりまえの話である。しかし、家臣の妻にまで手を出すとなると、もはや尋常ではない。宗麟はそれをやった、しかも複数回。美女と聞けば人妻であろうとお構いなしに自分のものにせずはいられないようだった。一万田親実という大友家支族の美人妻を狙った際には、わざわざ謀反の容疑をでっち上げて親実を処刑するという暴挙に及んだ。いくら殿様でもこのような非道が許されるはずがなく、遂には親実の実弟である高橋鑑種が、永禄九(1566)年、毛利氏と結んで謀反を起こす事態に陥った。
若い頃はあれほど英明だった宗麟が、中年に差し掛かるやガラリと人が変わったかのように暗愚になった印象である。イエズス会の記録によると、宗麟は病弱と書かれているそうだから、何らかの病気にかかり、人格が変わったのかもしれない。考えてみれば、豊臣秀吉も、壮年期と晩年ではまるで別人のような印象を受ける。常に死と隣り合わせの緊張を強いられている戦国時代の武将は、老齢に差し掛かるや長年の無理が祟って精神の糸が切れ、人格が変わってしまう人が多かったのであろうか?
宗麟個人のパワーダウンと共に内部に幾つもの亀裂が入り、また外部からは毛利と島津がじわじわと圧力を強めてきた為、九州最大の勢力を誇った大友家にも、衰退の足音が聞こえてきた。