二
雨はきっとこの女の涙だ。絶え間ない寂寥、溢れ出る苦悩。
さっきの問いは何だったのだろう。僕はこの女を初めて見た、きっと。見覚えがない訳では無い。ただ、それは美人を一括りに見ているだけだと思っている。
温かく湿った風は身体に堪えて、吐き気がする。女もそんな素振りをした。
「帰らないかい?」
「もう少しだけ」
雨は止みそうに無かった。天気予報はしっかり見るものだと後悔した。しかし、女は足を止めない。大きな水溜まりの真ん中を踏みしめ、靴はずぶ濡れ、着ている薄いTシャツはピンクのブラジャーを浮き立たせた。
「もう帰ろう。これは散歩じゃない」
「じゃあ、散歩って何よ?」女はようやく足を止めた。
「散歩って言うのは、もうちょっとのんびりしてするものだよ」
女は下の方を覗いて、少し考えて、「そうね」と一言いって僕の部屋に戻った。
濡れた服は洗濯機に。勿論、ブラジャーも。洗濯して乾くまでの間、女はシャワーを浴び、出ると僕の服を下着を着けずに装って過ごす。運良く両親と妹は旅行に出ている。僕の蛮行は恐らく知らずに済むだろう。
「シャワーはどうだった?」
「気持ちよかったわ」
僕は女の生々しく浮き立つ胸に目を向けた。女はすぐに手でそれを隠した。仕様もない鼬ごっこに僕と女は恥ずかしくなった。
女を僕の部屋に入れ、どこに座るかを見て、ベッドに腰掛けた。女の胸にいるネズミのイラストが僕を睨んでいることに気が付くと僕はそんなに胸が気にならなくなった。次に気になったのは女のズボンの下ではなく、女の名前だった。
「ねぇ、君の名前は?」
「そっちから名乗りなさい」
「僕は蔵戸蹴って名前」
「私はね……立花晴夏って言うの」彼女はそう言って僕の目をギロっと睨んだ。それに気圧されて僕は黙りした。「蹴って名前珍しいね。サッカーしてたの?」一転して女──立花は澄ました笑顔で聞いてきた。
「いや、親父がサッカー好きなんだ。あと、ハリウッド好きも関係あるけど」
「ハリウッド?」
「誰か忘れたけど、俳優でケリー・何とかって人がいたんだよ」
「さぁ、知らないわ」
僕は静かにラジオを点けた。昼間からこの局はクラシックを流していた。
「クラシックを聴いていると胸躍るわ」
「どうして?」
「嬉しい曲は嬉しくなって、楽しい曲は楽しくなって、悲しい曲は悲しくなって……、感情的になれるの」
「僕は退屈に思えるけどね。このまま流しておく?」
「うん」
僕たちはそのあと一時間、静かにクラシックを聴いていた。お互いクラシックの造詣は深くない。だけど、音楽はそんなものを必要としないのだろう。
「リビングに行ってもいい?」立花はラジオを聴き終えると、そう言って立ち上がった。
そう言えば僕は彼女を、僕の部屋にずっと押し込めていた。推測だが、受刑者のような気持ちだったのだろうか。自戒の念に苛まれる。
「いいよ。そうだ映画を観よう」僕もそう言ってリビングへ向かった。
リビングにはこれと言った特徴的な、異質なものは無かった。それだけ一般的な家庭だったのだが、ただ一つ家具などではないがそれらに該当するものが現れた。
それは立花だ。
立花は僕の周りにいる人間とは幾分と違う存在だとふと思った。ぼんやりと愛嬌と気品を感じたのだ。
「ところで何を見るの?」
ソファーに腰掛けて、録画してあるいくつもの映画から僕はたった一本を決めていた。
「Roman Holidayさ」
「あらなぜ?」
「理由なんかないよ。でも、あるとすれば君かな。君とオードリーを何故か重ねてしまう」
立花は呆気に取られていた。理由は分からないが、直後に「違うのにしましょう」と言ったことは確かだった。
僕は次に『小さな恋のメロディ』を提案した。彼女は所在なく頷いた。
見終わる頃になると、彼女は僕の肩に頭をもたれて眠っていた。面白くなかったのか、あるいは疲れていたのか。後者であってほしいが、その前に彼女をあのベッドに眠らせるべきだと思った。僕は彼女の頭を左手で支え、右手を彼女の膝裏に通すと、所謂お姫様抱っこで彼女の華奢な身体を持ち上げ、僕のベッドまで運んだ。彼女はしばらく起きてこなかった。