黒猫
君は映画を観ている。
◇
傘を弾くどしゃ降りの雨。
左ポケットに手を入れて信号待ちをする男。
急に道路へ飛び出した黒猫。
男の足が咄嗟に動く。
放り出された傘。
男の両手が黒猫を歩道に逃す。
ドシャッと彼が倒れ込んだアスファルトからは死の匂い。
男にトラックが迫る。
どうしようもないクラクションの音。
パパパパーーーー
重なる影。
パーーーー
ドンッ
◇
「ん? 寝てた?」
目を開けた俺は暗がりのなか独り言を口にする。その瞬間しまったと思った。
ここは「アザワールドリーシネマ」略して「アザワ」。
幼馴染三人組の一人もっちゃんが副支配人を務めるミニシアターだ。
ちなみに支配人はもっちゃんの父さん。
今はシネコンで働く俺も、かつてはここでバイトさせてもらってた。今も企画のコラボだかなんだかでよく世話になってる。
もっちゃん親子にとっては死活問題だが、幸いなことに客は俺一石空大と、もう一人の幼馴染であり恋人の藤堂美月二人だけだった。
ちらっと隣を見る。眼鏡のつるに目が隠れて表情までは読み取れないが、ひとまず美月はこちらを気にする様子もない。邪魔をしなかったことに安堵する。
俺はぼーっとする頭でエンドロールを眺める。クライマックスシーンで目が覚めたのか。
それにしては見覚えのある光景だった。
どこで見たんだっけ?
ヒントを探すように俺は目線を動かす。
目の端で、美月が眼鏡を外したのが見えた。
その仕草に目を奪われる。
スクリーンの光が頬を伝う涙を照らし、時が止まったみたいに綺麗だった。
その反動だろうか、世界は急激に動き出す。
「うあああああん」
美月は眼鏡を膝に置いたかと思うと、まだエンドロールの途中だというのに泣き喚いた。学級委員や生徒会副会長を務めてきた真面目な美月にしては珍しい、というか初めての行動だ。
「うう、空大、あら、た……!」
両手で顔を覆い俺の名前を呼ぶ美月を安心させようと俺は彼女の左手を握る。
「あ、あれ?」
掴もうとしてもスカスカとすり抜けてしまう。
みゃ〜
黒猫が隣で鳴いた。
「うお!」
「むだむだ」
「え?」
「死んでるもん」
「ええ!?」
俺は手のひらをグーパーしてみる。
黒猫が現れたのも、喋るのも驚きだが、今は死んだという事実が衝撃的すぎてたいして気にならない。
「結婚を約束した恋人が不慮の事故で亡くなってしまうっていう実話に基づいたラブストーリーをどっかの誰かが作ったんでしょ?」
「どっかの誰かって誰だよ」
エンドロールに監督名が出るはずだ。俺は慌ててエンドロールを見た。しかしちょうど終わってしまった。見逃した。と思っていると一瞬の暗闇のあとメッセージが浮かび上がった。
最愛の恋人美月に捧ぐ
監督 一石 空大
「え」
思いもしなかった人物に動揺する。
「お、れ?」
頭が回らない。
「美月に捧ぐ?」
さっき掴めなかった感覚がぶわっと蘇る。
「え、え、死んだのって……?」
どしゃ降り。ポケット。黒猫。トラック。重なる影。急激に脳裏に浮かぶ記憶。
「そう。藤堂美月」
隣の美月の肩を掴む。スカッと通り抜けやはり掴むことはできない。
「あんたは重体だったけど奇跡的に生き残った。彼女のおかげでね」
「そんな」
俺は美月を見つめる。
俺は掴めないことを知りながら彼女を抱きしめた。腕にはなんの感触もない。目の前の美月は変わらず泣いている。俺のこと見えてないのか?
「こんなに泣いて」
ただ、映画を見つめる眼差しは覚えている。
「だああー! もう! 最愛の恋人を泣かすクソ映画なんてこの世からなくなっちまえ!!」
俺は立ち上がる。
この映画を作ったのが俺なら、やることはこれしかないって思った。
「美月の笑顔は俺が守る!! シリアスラブロマンスをコメディに作り替えてやる!!」
「みゃはははは」
急な笑い声に俺の肩が跳ねる。
「面白そう。手伝ってあげる」
「お前何者だよ」
「異世界からきた魔法使いってとこかな。気を失うほど一心不乱に映画を作り上げたご褒美。あんたに力を与えてあげる」
「力?」
「うん。あんたは映画の主人公になって自由にこの映画を作り替えることができる」
「それって! 美月を助けられるってことか!?」
「そう。代償が伴うけどそれでもいい?」
「なんだっていい! 美月が助かるなら!」
「じゃあ中に入って」
どこから出したのか黒猫が赤い旗のついたいい感じの棒を尻尾で振るとスクリーンが白く輝きだした。
言われるまま客席を駆け下り、スクリーンの中に飛び込んだ。
「やり直していいよ」
黒猫の声が聞こえた。
◇
傘を弾くどしゃ降りの雨。
俺は左ポケットに手を入れて信号待ちをしている。
ポケットの中で上品な手触りの箱を掴む。ダンディな店員さん曰くベルベットという素材らしい。
今日、美月に渡す。
あの日をやり直すんだ。
急に道路へ飛び出した黒猫。
「あいつ」
足が咄嗟に動く。
「みゃーー!!」
黒猫は来るなとでも言いたげに鳴いた。
「くっそ!」
やり直していいよって、助けず見捨てろってことか! そしたら事故は起きずに美月が死ぬこともないって?
「それでも」
放り出された傘。
「見捨てられない!!」
俺は黒猫を歩道に逃す。
ドシャッと倒れ込んだアスファルトからは死の匂い。
俺にトラックが迫る。
どうしようもないクラクションの音。
パパパパーーーー
美月が俺を守るように目の前に飛び出してきた。
そうだった、こうやって俺のこと守ってくれたんだ。
パーーーー
俺は後ろから美月を抱きしめた。
「きゃっ」
今度はちゃんと触れる。
「美月俺に掴まれ! ここでジャンプして映画を編集する!!」
「え? え?」
戸惑う美月を抱きかかえジャンプしながら一か八か叫ぶ。
「マッチカット!!」
◇
ドサッ
「いって」
着地に失敗した。
俺の上には美月が乗っていて、俺たちは草むらの中にいた。
トラックは消え、視界には空が広がっていた。
水色にピンクのグラデーションがかかった空。
こういう空の色好きだな。
ビーナスベルトって言うんだっけ。日没のとき見れたらラッキーって思ってた。
「ようこそ」
黒猫がペロッと俺の頬を舐めた。
俺たちが着地したのは異世界だった。