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村へ行くなら地下迷路をどうぞ

桜が舞う頃に

作者: 月 影丸

村地下のネタバレを含みます。

自己満足で書いておりますので、お気をつけください。


父上は有名な武将であった。



南奥州をたった数年でまとめ上げた実力者である。


時代が時代であれば、彼が天下を取っていたかもしれない。

私はそう思っている。


自慢の父であり、尊敬する男だ。



私もいずれは彼のように強く聡明な男になりたかった。



しかし、私は幼い頃から体が強くなかった。

少し無理をすればすぐに体調を崩し、一度床につくとなかなか治らなかった。だから私は生まれてこの方この江戸屋敷から外に出ることはなかった。

庭に咲く四季折々の花を愛で池の魚たちをただ眺めるだけの、そんな幼児期を過ごした。

そのせいもあり、同年代の男児と比べれば色が白く体の線も細く、女児と言われても無理はなかった。




"せっかくの正室の男子なのに"、直接そう言われたことはないけれど、父の家臣たちが私を見る目は憐れな子犬を見るそれに似ていた。


そんな環境だったからなのか性分なのか、私は子どもらしくない子どもであった。母や乳母などはもっと甘えてもいいのにと口を揃えていたけれど、どうすればいいのかわからなかった。心の底では遠慮をしていたのかもしれない。自分には親に甘える資格などない、と自身に呪縛を施していたのかもしれない。




私には歳の離れた姉兄や異母兄姉がたくさんいるらしい。らしいというのは私が生まれた時にはすでに嫁いでいたり元服していたり、領地で生まれていたりと、ほとんど顔を合わせたことはなかったからだ。

唯一、同じ敷地内に異母兄が一人いた。彼とは6つほど離れており、仲は良好で私の体調が良い時には庭で一緒に遊んだりもした。彼は剣術の才に恵まれていたようで、屋敷に出入りしていた師範や家来たちが彼のことをよく褒めていた。私は体の弱さから木刀すらも握ることを許されなかったため、物心がつく頃から彼らの稽古を道場の端から見ては目を輝かせていた。




そんな私は、そんな私だからこそ"侍"という存在に強い憧れを抱いた。主君のために自らの命を投げ出してまでも戦う姿がこの上なく美しいと感じた。守るべき者のために死ねるのであれば本望であると思ったのだ。

いずれはそのように生きていくであろう異母兄は一際輝いて見えた。



異母兄や家来たちの稽古を眺めては要点を帳面に綴り、夜な夜なそれを頭の中で反芻した。

私は頭の中では無敵の侍であった。現実には木刀すら満足に握れない貧弱者なのだけれど。




私にも唯一の得意事があった。それは識字であった。

きっかけは4歳の頃、例の異母兄が習っていた学問書を見せてもらったことだった。彼に少し教えてもらっただけでなんとなく理解ができた。一年経つ頃には異母兄の習っていた学問書はすべて理解できるまでになった。

異母兄は学問は苦手なようで、こっそりと内容を尋ねてくることもあった。私は彼から稽古の話を聞きたかったので互いの利害は完全に一致していた。



それから読書が趣味になり、特に父が土産に持ってきてくれる本を読むのが好きだった。6歳になった頃からは自国の言葉だけでなく、西の国の言葉も学び始めた。

というのも、彼は他国とも貿易を結んでおり度々珍しい本を土産としてくれたのだ。西の国の絵本には言葉も書かれており、さらに学びたいと思った私は父にお願いしたのだ。

彼は大変喜び、"お前は余に似て聡明になるだろう"と西の国の言葉に詳しい家臣を一人屋敷に置いて、私の勉学の手助けをしてくれることになった。

また、江戸の地に来れない時であっても家臣を遣って西の国の本を送ってくれるようになった。



父は将軍様に気に入られているようで、これから起こるであろう西の旧勢力との戦いに向けて領地の軍を整えていた。

父がこの江戸屋敷を訪れることは決して多くはなかったけれど、会えた時にはこれ以上ないほどに愛情を注いでくれる。

私はそんな父が大好きで、彼を喜ばせようと勉学に励み続けた。体は弱くとも、ゆくゆくは知恵で父を支えていきたいと強く願っていた。




◇◆◇


私が7つになる前の春のこと。

庭の大桜は相も変わらず美しく咲き誇った。

この年は父が江戸屋敷に来れたこともあり、庭で小さな花見の宴が開かれた。

父は私と異母兄を交互に肩車し、桜の花を目近で見させてくれた。

手が届きそうなほどに近い満開の桜は、下から見るのとは違う趣きがあった。

ますます桜が愛おしく、この季節がずっと続けばいいのにと思った。




それを見ながらも、私は心のどこかで悟っていた。

自分は長くは生きられないだろう、と。



得体の知らない何かが私の体を蝕んでいるような気がしていたのだ。

体中が声にならぬ悲鳴を上げ、体がバラバラに割かれそうになったことは数え切れないほどであった。


この頃には怠くない日のほうが少なく、酷い日には寝床から立ち上がるのも困難な日さえあった。




母は私に気づかれまいと気丈に振る舞っていたけれど、夜な夜な泣きながら仏様に祈りを捧げているのを知っていた。

父母で相談し、この江戸の空気が合わないのではないかと私を北にある領地に送ることも考えた、ということも。


しかし、私や正室である母は"幕府の人質"のようなものであり、領地に戻るなどという勝手は許されなかった。



私はなんと親不孝な息子なのだろうか。


こんなに父母に愛されていながら、何の恩も返せぬまま死にゆくのだろうか。

それが明日のことかもしれないし、一年後かもしれない。

だからこそ、後悔せずいられるようやりたいことをやろうと決めた。

それが父母へのせめてもの償いになると信じて。



こうして私は大好きな桜を目の前にして、遠くないであろう死を覚悟して生き始めたのだ。





◇◆◇


私の関心は相も変わらず武士道を学ぶことと西の国の読み物にあった。

体が無理なく動く日は欠かさず異母兄や家来たちの鍛錬を見学し、その度に帳面に綴った。その甲斐もあってか帳面は十冊ほどになった。

異母兄と私は、もはや本当の兄弟以上の絆で結ばれていた。少なくとも私はそう思っていたし、彼の屈託のない笑顔を見れば彼もそう思ってくれていたと信じられる。

体調は万全でなくとも、充実した日々を過ごしていた。




けれど、そんな日々はついに終わりを迎えることになった。




異母兄が元服し、この夏の終わりに江戸屋敷を旅立つことが決まったのだ。彼は某領主の養子として遠くの地に求められた。それは嫡男でなければ当たり前のことであり、むしろ喜ばしいことであった。


私はそんな彼を誇らしく思い、同時に自分の非力さを嘆いた。

私も体さえ丈夫であれば、彼と同じようにどこかの地に求められたかもしれない。そんな夢物語が私の心を静かに抉っていった。



夏の終わり、私は暗い感情をすべて押しやって笑顔で異母兄を送り出した。

そして心にぽっかりと空いた穴を読書と勉学で無理矢理に埋めていった。




◇◆◇

晩秋、ついに私は7歳になった。


この1年のうちに、自分でも驚くほどに西の国の言葉が読めるようになった。父は"お前は神童なのだな"とこの上ないほどに私を褒め、強く抱きしめてくれたことがあった。

それが嬉しくてさらに邁進したのは言うまでもない。



相変わらず体は弱く、この前も風邪をこじらせて長い間床についていた。


春の決意から半年、早くも心が砕けそうになっていた。

心の拠り所にもなっていた異母兄が居なくなったのも大きな要因であったようだった。

西の国の勉強は続けていたものの、あれだけ好きだった鍛錬は見に行かなくなってしまった。十冊にのぼった帳面も、今は部屋の隅に虚しく積み上げられているだけとなった。

体の不調と心の不調がさらなる不調を招くような、負の螺旋に囚われる毎日が続いていた。




秋の冷たい長雨が体にしみるような、そんな日の未の刻の頃であった。家臣の一人が馬を走らせて江戸屋敷まで来た。彼は父からの本と手紙を持参したのだった。


私は重い体をやっとの思いで起こし、家臣から手紙を受け取った。その場には母も同席してくれていた。 


此度父が誕生祝にと贈ってくれた鳶色の本は、今までの物とは少し様子が違っていた。重厚感があり古めかしいこともそうだけれど、本来あるはずの表題がなかったのだ。

私は首を捻りながら、まずは父からの手紙に目を通した。

最初には誕生日の祝言葉や、こちらに来れないことを詫びる言葉が綴られていた。彼は今頃大坂の地で大きな戦いの中に居るはずであった。自分の生死が掛かっているにも関わらず私の誕生日を気にかけてくれていたのだ。そんな細やかな気遣いが嬉しく、父の素晴らしさを再認識させられたのだった。

父からの手紙には本のことも書かれていた。どうやらこの本は西の国から来た宣教師から譲り受けた物らしい。正確言うと、その宣教師もまた若かりし頃にとある老婆からもらった物なのだそうだ。その老婆は他国から来たため路銀に困っていたそうで、神の僕である彼は金銭を恵んだらしい。そのお礼として半ば押し付けられるような形で受け取ったのがこの本だった、ということらしい。

宣教師は父から私が西の国に興味があることを聞き、他国の文化に触れる機会になるのであれば、とこの本を譲ってくれたらしい。この本は風変わりで、表題も含め文字は一切ないのだという。

手紙の最後には、秋が深まってきたので体が冷えないように用心するようにと書かれていた。

私は気づかないうちに目に涙を溜めていた。こんなに愛されているという嬉しさによるのか、自分の非力さの憂いによるのか、涙はついに溢れ着物を濡らした。

その場にいた家臣は動揺していたけれど、私は自制も効かず嗚咽を漏らし続けた。母はそんな私を優しく抱きしめてくれた。こんなふうに母に頼ってしまったのは、自我が芽生えてからは初めてのことだったかもしれない。




気がつけば私は一人で自身の(とこ)で横になっていた。

泣きつかれて寝てしまったらしい。



庭の方を見ると雨はすっかりと上がったようで、夕焼けが障子を照らし一層の輝きを放っていた。


私は枕元にあった先程の本を手に取った。


ずっしりと古めかしい鳶色の表紙をそっとなぞった時だった。



本から眩しいほどの黄金の光が放たれたように見えた。

もしかしたら庭の夕陽が反射したのかもしれない、とも思った。しかしそれは直ちに否定された。




表紙にはいつの間にか、金の糸で縫われた表題が現れたのだ。



私は何度も目をしばたたかせた。

しかし、何度やっても結果は変わらない。金色の表題は消えることはなかったのだ。



どうやら私は夢の中にいるようだった。


その証拠に、いつになく体が軽く気分がいいのだ。こんなに体調がいいわけなどないのだから。



私は夢を楽しむことを決め、再び表題に目を向けた。


表題は西の国の言葉ではなかった。けれど、読めた。




頭の中でさっと文字が変換されていくような、今までにない不思議な感覚だった。



やはりここは夢の世界らしい。夢であれば私は偉大な通訳者にもなれるようだ。



表題には



『銀髪の妖精と混血の少年』



と縫われているようであった。



妖精とは西の国々に言い伝わる超自然的存在らしい。それはこの前読んだ他の本で知った。この国でいうところの妖怪に近いもののようだ。





私は吸い込まれるかのようにその本の頁をめくっていた。

めくるたびに金色の光とともに黒い文字が現れていく。

美しい色とりどりの挿絵とともに、内容が頭に入ってきた。



本の内容はこうだった。


魔族と人族が存在する世界で、2つの種族は長い争いの後に交流を断った。魔族が大山脈の奥地に住むようになったのである。


その山脈の中の小さな村に銀髪の妖精が住んでいた。


彼女は治癒の力を持っており、村人たちから一目置かれていたそうだ。


ある日妖精は山中で4人の魔族と出会った。うちの一人である金髪の少年は深傷を負っており、一刻を争う事態だった。

妖精は自身の力で少年の傷を癒やし、魔族たちを村へ連れ帰った。

目を覚ました少年は、実は魔族の王女の息子であり、魔族と人族との混血であった。



妖精と少年は心を通わせるようになり、やがて恋に落ちた。




しかし、





ここで物語は不意に終わってしまった。

頁が足りないわけではなかった。ただ、次の頁からは美しい挿絵も文字もなく、古びた白紙が続くだけだったのだ。




なんだか、狐につままれたようであった。



私はハッとして前の頁に戻った。



そこにあるはずの挿絵も文字も消え失せていた。




そして、突然本が宙に浮かび黄金の光を放ったかと思えば、無数の光の玉となってまるごと消えてしまった。




私は呆然と宙を見つめることしかできなかった。







気がつけば、あたりは夕闇に包まれていた。



次こそは本当に目が覚めたようだった。

枕元にあった例の本は開く気になれなかった。


体がいつになく重く、本を取る余裕すらもなかったのだ。






それから数日して体調が回復した後、恐る恐るあの本を開いてみた。やはり手紙の通り文字などはなく、挿絵のみが存在していた。不思議なことに、その挿絵は夢で見たものと全く同じであった。

あれは夢か現か、それとも都合よく曲げられた何かだったのか。

挿絵がある最後の頁では、銀髪の妖精と金髪の少年が笑顔で手を取り合っていた。"しかし"と続くのを知ってしまっている以上、続きが気になって仕方がなかった。こんなに幸せそうな二人に一体何が起こるというのだろうか。彼らの行く末が大団円であることを願ってやまなかった。




◇◆◇

年末、私は高熱と今までにない全身の激しい痛みに襲われた。


それはまるで、体がもう耐えられないと悲鳴を上げているかのようだった。


年が明けた頃、かかりつけの医者に診てもらったことで、長年の不調の原因がわかった。

私の体は不治の病に冒されていたのだ。子どもがかかるその病気は、発症すればたちまち命を蝕む治しようのないものだった。


覚悟はしていた。

していたけれど、医者からその事実を聞くまではどうにか生きながらえられるのではと心のどこかで期待してもいたのだ。


しかし現実は残酷で、私の余命は幾ばくもないらしい。すでに発症しており、もはや薬で治ることは期待できないそうだ。


母はどうにかして生きながらえないかと医者に詰め寄ったけれど、医者はひたすらに頭を下げるだけであった。



私は母や家来たちの前で気丈に振る舞った。

死は覚悟しておりました、と笑ってみせた。


うまく笑えていなかったのか、それを見た母は女中たちに抱えられるようにして自室に籠もってしまった。

心配をかけてしまったと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。




夜になれば一人で泣いた。死が怖くないわけなどない。

世間では子が元服する前に亡くなることなど珍しくはなかった。

けれど、いざ自分の身に降りかかるとなれば恐怖で頭が埋め尽くされていった。


さらに痛いのだろうか。苦しいのだろうか。



それ以上に辛かったのは、父母に何も返せないまま死にゆくことだった。


私は何のために生まれてきたのだろうか。

ただ大人しく死を待つことしかできないのだろうか。

自問したけれど何かが返ってくることはなかった。




しばらくして父から手紙が届いた。

戦場を離れるわけにいかず戻れないけれど、常に私の身を案じているというものだった。


死ぬ前に、最後にひと目彼に会いたいと強く願った。

直接会って、何もできなかったことを詫たかった。




◇◆◇


そして、日に日に体が弱っていき、ついには好きだった西の国の勉強もできなくなってしまった。




私は床から障子をただ眺めるだけの人形となった。

本当は障子を開けて庭を眺めたかったけれど、寒さが体に障るからと母は許してくれなかった。



少しだけ回復したある日、母に頼んでようやく障子を開けてもらった。

しんしんと雪の降る中、白銀の庭では真っ赤な寒椿が花をつけていた。私は冷える体を擦りながら、久しぶりに見る外の景色に心を踊らせていた。

奥の大桜も雪化粧しており、それもそれで美しいと見惚れてしまった。

不意にぼとりという音がした。そちらを見ると、先程の椿が白い雪に花を落としていた。それを皮切りにぼとり、またぼとりと赤い花が雪に吸い込まれていった。

一緒に見ていた母が狂ったかのように叫んだ。家来を呼び出して、人の首が落ちるようで不吉だからと木を切ろうとしたのだ。



私はそんな母を止めた。

椿に罪などなく、無下に扱うべきではないのだからと。



母は我に返ったように私を抱きしめた。母もまた、まもなく訪れるであろう息子の死を受け入れきれずにいたのだ。

母は泣きながら心の内を明かしてくれた。

彼女はずっと、高齢で私を産んだことを悔やんでいたらしい。それが原因で体が弱くなってしまったのではないかと。

私はそれを否定した。

こういう運命であったのでしょう、と静かに微笑んで見せた。




そして、私もまた内に秘めていた気持ちを伝えた。

正室から生まれた男子でありながら何もできなかったのを悔やんだこと。

父母もそう思ってただろうに、それをおくびにも出さずに愛してくれたことへの感謝の念。


母は私をまっすぐに見つめ、静かに首を横に振り、こう言った。



"お前が生きていてくれる、それだけで嬉しかった。一日でも長く生きてほしい"


そう言われて、肩の荷が下りた気がした。



私達はその日一晩中抱き合って泣き続けたのだった。




母は数日後に小さな桜の挿し木を部屋に飾ってくれた。

庭の奥にある大桜から枝を剪ったのだそうだ。私の寝床からは好きな桜が見られないからと気遣ってくれたのだ。




桜の枝は先の方に可愛らしい蕾をいくつか蓄えていた。



この桜が咲くまでは死ねない。

そんな思いが私を生かしていたのかもしれない。



蕾は日に日に緑から黄色へ、そしてほのかな桃色を帯びてきた。



桜の成長と反比例するかのように、私の体はさらに弱っていった。

もう自力で起き上がることも箸を持つことすらも満足にできなくなった。

何かを食べたいという欲すらもなくなった。



咳をすれば痰に血が混じり、胸の骨が砕けそうになるほどの痛みが襲った。



そんな中で、母が側にいない時には成長していく桜が唯一の心の癒しとなった。




そして温かい春の日、ついに桜は花開いた。

優しく温かな花を見ているだけで、少しだけ苦痛が和らいでいく気がした。



桜の花は可憐に咲き誇り、そして役目を終えたかのように静かに舞い散っていった。

私は床から手を伸ばしてその花びらを一つ手に入れた。

そして母に頼んで父からの贈り物である例の本に挟んでもらった。




その美しさを、そして私が生きていたという証拠を遺しておきたかったのかもしれない。






◇◆◇

そしてその日はやってきた。



まだ部屋が暗いうちに目が覚めた。不思議と体が軽くいつもの不快感や痛みが全くなかった。

その感覚はあの本を読んだときによく似ていた。

もしかしたらあの時のように夢なのかもしれない、そう思いながら私は大きく伸びをした。



そしてあの本のことを思い出したからか、無性にそれを読みたくなった。

書棚まで取りに行き、障子を開け、縁側に腰掛けた。

早朝の空気はぴりりと引き締まっており、少し身が震えた。


頭上には満点の星空が広がっており、東の方はほんのりと白みかけていた。



庭の右奥を見れば大桜が静かに佇んでいた。花はまだ落ちきっておらず、新芽が顔を覗かせ始めていた。



行灯に頼らずともかろうじて本は読めそうなほどであった。



やはりここは夢の世界のようだった。

あの時のように表紙に手を触れた瞬間に金色の文字が現れたのだから。


表題は以前と同じものだった。



内容も同じだったが、不思議なことにこの日は続きが読めた。



私は逸る気持ちを抑えながら内容に目を通した。




妖精と少年は恋仲になったものの、悪者に邪魔をされ、妖精は少年との記憶を忘れてしまった。


少年は旅立たなければならず、彼女の記憶が蘇るよう強く願い、泣く泣く村を出たのだった。




私は居た堪れない気持ちで一杯になった。

恋などという感情は抱いたことはないけれど、それでも、忘れられてしまった少年に同情した。




次の頁から、様子が一変した。

挿絵がなくなり、白紙に黒い文字だけがくっきりと浮かび上がってきた。


『私は、彼らを助けたい、、?』


私は思わず文章を読み上げてしまった。


まるで、それは物語の作者の言葉のようだった。

私は先が気になり、さらに読み進めた。



『ずっと探していた。彼女を守れる存在を。私の愛し子を守り抜く"剣"となる存在を。』



剣という言葉に、胸が高鳴った。あやうく本を落としてしまいそうになったけれど、どうにか留まることができた。

また頁をめくった。



『貴方こそがその"剣"。この本が読めることがその証。』



本を持つ手が震え、じんわりと手汗が滲んできた。



『貴方の時間を、貴方の存在を、私に預けてほしいのです。』


この本は、私に呼びかけているようにしか思えなかった。



ふと気がついた。

その頁には桜の花びらが挟まっていた。それは先日、母に頼んで挟んでもらったものだった。

少しだけ色あせたように見えたそれを、私は震える手のひらに優しく収めた。



夢の中なのだから何でもあり得るのだろうけれど、あまりにも生々しく、額や手のひらに浮かぶ汗に現実感を覚えた。こんなに興奮していたのでは夢は終わってしまいそうなのに、醒める気配は全くなかった。

まるでこれが現実と言わんばかりの状況に、ただただ飲み込まれていくだけであった。




不意に池の方からちゃぽんという音が聞こえた。魚でも跳ねたのだろうかとそちらを見やった。





そこに、彼女がいた。




緩やかな癖がある長い黒髪、褐色かかった肌、そして、薄暗い中に浮かぶ紅玉のような美しい瞳、この国にはいないようなはっきりとした顔立ち。青く艷やかな少しばかり露出の多い異国の服。歳は母と同じか少し若いかほどの壮年の女性だった。



彼女は池の上に浮いていた。



一目見るなり直感した。


彼女こそがこの本の"作者"であると。




私は裸足で庭に出るなり彼女に一歩ずつ近づいた。



『私はシアナ。とある国を統べる者。貴方の答えを教えて。』

彼女はそう言った。正確には思念というものだろう。直接響くその声は落ち着きのある心地よいものだった。


仏様や神様が存在するならばきっとこのような姿をしているだろう、そう思った。彼女にはそんな凄みがあった。

いや、もしかしたら彼女は本当にそういった類なのかもしれない。



「しかし、」

私は自国の言葉で答えた。

もはや言語などは意味をなさないことがわかっていたから。

私が言葉を続けようとした時、彼女はふわりと私の目の前まで舞い降りてきた。

『余命のことでしょう?心配はいりません。私が連れ出して差し上げます。ここの空気が貴方にに合わないだけなのです。』

「空気が合わない?」

『そう。例えるならば、貴方は水がない世界に生きる魚のようなもの。居るべき所に居れば生き長らえるでしょう。』


そんな魚は生きづらいだろう。いや、それは長生きできるわけもなかった。

彼女が真に言わんとしていることは理解できなかったけれど、少なくとも私がその状況に置かれていることはわかった。


『貴方は、どうしたい?』

彼女の表情は柔らかく、至極真面目なものだった。

私の答えは決まっていた。


「引き受けたい。私は、誰かのために生きたい。」

そう言ったものの、一瞬、家族の顔が過ぎった。ここまで育ててくれた父母たちを裏切ることになるのではないかと不安になった。

しかし、そんな不安に気づいたのか、彼女は私に優しく微笑みかけた。

『心配しないで。このままでは貴方は死んでしまう。貴方が生き長らえることこそが、彼らの願いなのではないですか。』

そう言われて、以前の母の言葉を思い出した。心に支えていたものがすっと降りていった気がした。

私は彼女の前に跪いた。

「異国の女帝よ。願いを一つ叶えてくださいませんか。」

私がそう言うと彼女は慌てたように、召し物が汚れてしまうわ、と私を立たせた。

『シアナでいいわ。なんでしょう。』

「シアナ様。父母へ手紙を残すことを許していただきたいのです。」


そう、彼らは私がいなくなったと知れば探すに違いなかった。もしかしたら家臣や家来を罰してしまうかもしれないのでそれは避けたかった。


『承知したわ。ただ、夜明けまであまり時間がないから急ぎましょう。』

彼女は優しい笑みを携えたまま言った。

私は急いで部屋に戻ると机に向かって筆を執った。もう室内すらも薄っすらと明るくなり始めていた。


父母への手紙として育ててくれたことへの感謝と、突然旅に出ることの謝罪、探さないでほしいということを(したた)めた。



不思議とこの先への恐怖はなかった。あったのは生への渇望と、両親への謝罪の念。

死んで悲しませるのも居なくなって悲しませるのも同じか、と半ば強引に自分を納得させた。



机に手紙を置くと庭に戻った。

シアナ様は屋敷を見上げ、"東洋の古い建築もいいわね"などと呟いていた。

彼女は私に気がつくと、ふわりと微笑んだ。



可憐な人だと思った。

歳は母と同じほどかもしれないけれど、母に抱く感情とは明らかに違うものが混じっていた。


そんな彼女を見ていたら、さっきまでの憂鬱な気分が晴れた気がした。それと同時に自分の薄情さにあきれてしまった。両親のことを軽々と捨てられる子どもだったのか、と。



『何?こちらをじっと見て。』

シアナ様の問いに私は首を横に振った。

「私は、人でなしだなと。」

『別に両親を殺すわけでもあるまいし。大丈夫、貴方は居なくともこの世界は進んでいきます。それは貴方を励ます言葉にはならないでしょうけれど。』

彼女が言うように、この世界は私という歯車が一つこぼれ落ちたとしても、何事もなかったかのように進んでいくのであろう。

なんだか寂しいような少しホッとしたような、言葉にできない感情に包まれた。


「励ましなど必要ありません。親不孝者に違いはありませんから。」

『ふふ。強情なところも嫌いじゃないわ。ねぇ、貴方の名前のことなんだけれど、この国では成人するときに名前が変わるのでしょう?』

「ええ。主君から(いみな)をもらうのです。」

シアナ様はそんなことまで知っていたらしい。本当に謎が多い方である。

『では、私から貴方に名を授けましょう。成人までは少し早いけれども。』

「いいのですか?!」

思わず声を上げてしまい、慌てて口を覆った。もう起きている女中が居てもおかしくはない時間だった。


嬉しくて心臓が高鳴った。諱をもらえるなど思ってもいなかったのだ。


『もちろん。そうね、あなたはあの木がつける花が好きなのでしょう?』

シアナ様はそう言うと桜の大木を指差した。私はコクリと頷いた。彼女は何でも知っているらしい。


『舞う桜で、舞桜(マオ)。どうかしら?』

「舞桜。ありがとうございます。なんと美しい名でしょう。」

私は心の中で何度もその名前を反芻した。

自分とあの桜とが一体になれたようで胸が高鳴った。


『少し女性的すぎるかしら。東洋って難しいわね。桜士郎とかのほうがいい?』

「いいえ。舞桜がいいです。気に入りました。」

『よかったわ。では、舞桜、こちらへ。』


そう言うとシアナ様が両手を伸ばしてきた。その手には上腕に至るほど長い白色の手套がはめられていた。


私もつられるように彼女に両手を差し出した。





互いの手が触れたその瞬間、どこから現れたのか無数の桜の花びらが舞い上がり、私達を包み込んだ。




こうして私は、江戸の地を旅立った。




◇◆◇


目が覚めると、柔らかい布団の中に居た。

床に敷いたものではなく、脚のついたフカフカしたものの上に寝ていたらしい。これは西の読み物で見たことがあり、たしか"カーマ(※ベッド)"というものである。

窓からは眩しい光が降り注いでいた。それにより、この部屋が西洋の造りをしていることがわかった。



私はどうやら異国の女帝、シアナ様に連れられてどこか別の国に来たらしい。



どれくらい眠ってしまっていたのだろうか。

体は羽根のように軽かった。

病魔に蝕まれていたはずの体は、そんなことは夢だったかのように好調である。


カーマの隣の机上には見慣れたものが積まれていた。


私が書き溜めていた鍛錬の帳面であった。

どうやら彼女が運んでくれたらしい。



私はカーマから起き上がった。

そこで初めて、自分が西洋の寝間着に袖を通していたことを知った。

灰色の綿でできたそれは、軽くて動きやすかった。


私は窓まで移動し、外を眺めた。

そこに広がっていたのは白亜の西洋の建物と、その奥に煌めく天色の大きな大きな池だった。庭の池とは比べ物にならないほどの大きさであり、これが父上が言っていた"海"というものなのかもしれないと思った。



そこで突然、部屋の扉が叩かれた。


入るわよーという声と同時に、シアナ様が入ってきた。

彼女は白いべスティード(※ドレス)を身に纏っていた。



不思議と、彼女が幾分か若く見えた。あの場では暗がりだったから老けて見えたのだろうか。


元から麗しい人だとは思っていたけれど、さらに美しいと思った。


『目が覚めてよかったわ。貴方ったら、五日も眠っていたのよ。』

「五日?!そんなに眠っていたなんて。」

私には信じられなかった。


『おかげでしっかりと"魔素"も補給できたみたいね。顔色もいいし、これなら回復も早そうだわ。』

「魔素、とは?」

彼女はこの国について教えてくれた。正確に言うと、この"世界"について。

ここは私が居た世界とは交わらない場所にあるという。つまり、異世界ということらしい。

この世界には"魔素"というものが存在しており、空気中に混じっているらしい。この魔素は魔法という超自然的な現象を引き起こすのに不可欠な存在であるけれど、この世界のほとんどの人間は魔法を使えないらしい。

私は生まれつき魔素に適合性があったらしく、逆を言えば魔素がない世界では魔素を補給できないために衰弱してしまう体質だそうだ。"水のない世界に住む魚"とはそういう意味だったようだ。私も訓練次第では魔法を使えるようになるかもしれないとのことで、シアナ様は判定布を持ってこなくちゃ、とよくわからないことを言っていた。

そういう特異体質の人間は元の世界に極稀に存在しているそうで、シアナ様は特殊な力で世界を渡り、そういった特殊な人間を異世界からこの世界に連れ帰って保護しているらしい。

目的は様々で、国を治める手伝いや新しい文化を取り入れるため、ということが多いそうだ。


ちなみにこの国は"永遠那(トワナ)"という小さな島国で、彼女は女王としてこの国を治めているそうだが、政治的な部分は家臣たちに丸投げ(おねがい)しているとのことらしい。

「永遠那とは、私の国の言葉で永遠に美しい地という意味ですね。なぜ、西洋な国に、東洋な名前を?」

私は気になったことを尋ねた。他にも気になることはたくさんあったのだけれど、一番尋ねやすそうだった。

『国名は建国時に民から公募したの。貴方と同郷の、ずっとずっと子孫の代の子たちが名付けたのよ。お洒落で素敵でしょう?』

シアナ様はニコリと微笑んだ。

詳しくは後でね、と言われたけれど、私は姫君の"愛し子"を守る存在として成長させるために連れてこられたというわけである。これは特殊な場合だったようで、彼女曰く"こんなことを頼むのも、こんなに遡ったのも初めて"だそうだ。


ちなみに、言語が通じる理由は彼女の特殊な術によるものなのだという。そのうちに切れてしまうので早いところこの国の言葉を学ばなければいけないそうだ。




そんな話をしていると、扉が激しく叩かれた。




そして入ってきたのは20代半ばほどの凛々しい男性だった。肌は白く、黒く少し癖のある短髪に灰色の瞳をしていた。高貴な西洋の服に身を包んでおり、その体格や容貌によく似合っていた。


『シアナ様!!寝ていてくださいと言ったでしょうが!あぁもう、こんなになってしまって!!』

彼はぎゅうっとシアナ様を抱きしめた。見ているこっちが恥ずかしくなるほどの抱擁であった。そして、すぐにシアナ様を横抱きにした。比較的小柄な彼女はすっぽりと彼の腕の中に収まった。



『ディル、いいでしょう?貴方もこのほうが何かと』

シアナ様は男性の首に腕を回しながら笑顔で言った。

彼は頬を染めた。

『えぇ、内心はね!内心嬉しくてたまりませんとも!しかしこのままでは、、って!子供の前で何言わせるんですか?!』

男性は私の方を見てさらに赤くなった。私は居ないほうがいいのだろうか。

『ベラベラと話したのは貴方なのだけれどね。ディルは過保護なのよ。』

シアナ様はぷうっと頬を膨らませた。

『そりゃ過保護にもなりますとも。じゃあちょっとエドまで行ってくるわねー、とか意味のわからないことを言ってどれだけ力を使ったと思っているんですか?!もう少し自分の心配をしてください!』

『だってね、舞桜はサムライになるのよ。きっと魔法も使いこなせるでしょうから、魔法剣士ならぬ魔法侍よ!しかもこんなに将来有望そうな容貌で。あぁ、あの子が舞桜に惚れてしまったらどうしましょう!金髪少年の出る幕がなくなっちゃうわ!!』

シアナ様は足をばたつかせながらキャーキャー騒いでおり、それと対照的に男性は静かに彼女を受け止めていた。ふらつかないところを見ると彼は相当鍛錬を積んでいるようであった。


シアナ様の言葉の内容に私は困ってしまった。

私は彼らが幸せになるためにここに来たと言っても過言ではない。人様の恋路を邪魔する予定などないのだ。



『ったく、愛し子様のことになるとこれだ。確かに愛し子様と同じくらいの歳みたいですし、いい感じに育ちそうですね。おっと、挨拶が遅れました。私はこの国の副宰相を任されて(おしつけられて)いるディートヘルムです。ディートと呼んでくださいね、マオ様。』

ディートヘルムと名乗った彼は、端正な笑顔を向けてきた。子ども相手であるのに丁寧すぎると思った。

「様だなんて。私はただの子どもですから。」

『何を言ってるんですか。愛し子様の"剣"となられる方ですから当然です。あ、貴方の国だと"カタナ"ですかね。丁重に扱わないとシアナ様からどんな仕打ちをされることか。』

そう言いながら、ディートさんはシアナ様を恨みがましい目で見つめた。それに対して彼女はニッコリと微笑んだ。

『ディル。今夜のお仕置きは何がいいかしら?』

『な、何を言い始めるですか、まったく!!子どもの前でしょうが!!』

ディートさんはまたもや頬を赤らめた。本当に表情がよく変わる人である。

『ふふ。本当に可愛い子ね。』

シアナ様は嬉しそうにそっと彼の黒髪を撫でた。


この二人が親密であることはよくわかった。

年の差など気にならないほど、二人はお似合いであった。


『っ、そうやって俺のことをいつまでも子ども扱いしないでください!ほら、ベッドに戻りますよ。』

『ねぇ、今日は休暇日なんだし、もう少し舞桜にこの世界のことを』

『アホなんですか?!少しでも休んで回復しないと!打ち合わせ通り、俺が養父になるんだから任せてくださいよ。マオ様、後で私と朝食にしましょう。トワナの食文化は素晴らしいんですよ。きっと満足するはずです。』

ディートさんは爽やかな笑顔をこちらに向けると、シアナ様を抱きかかえたまま部屋を出ていった。




彼は私の養父だと言っていた。

まさか父親になってくれる人が居るとは思ってもいなかった。

私はこれから始まるであろう新しい生活を思い、頬を緩めたのだった。








お読みいただきありがとうございました。



諱をもらえぬまま夭逝してしまった彼を生かしたかった、なんて言うのは勝手ですね。



ついにトワナについて少しずつわかってきました。本編との絡みが早く書きたいのですが、これから忙しくなってしまうのでしばらく更新頻度が下がります。すみません。





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