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絵描きと少女の夏

作者: かきな

短いですが、お付き合いください。

 残暑厳しい夏の日差しが頭上高くから降り注ぐ。


 鳴きわめく蝉の声に包まれながら、僕はキャンバスを片手に当てもなく林をさまよい歩く。むき出しの土を木漏れ日がまだら模様に彩る獣道。見渡す限りの自然には人工物は見当たらない。


 僕は絵を描く場所を探していた。


 幼い頃から僕はこの自然に囲まれて育ってきた。だから、今は失くしてしまった気持ちをここでなら取り戻せるのではないか。そんな期待を抱きながら描きたい景色を探す。


 足場の悪い獣道を向けると、開けた場所に出た。すると、薄暗い林から一転、僕の視界は鮮やかな黄色に埋め尽くされる。一面に咲くヒマワリが照り付ける太陽に向かって花を広げており、そこはそれだけですでに完成された絵画のような彩りを見せつける。


「おお……」


 その美しい光景に思わず僕は感嘆のため息をついた。


 ここにしよう。


 小脇に抱えていたイーゼルを柔らかい土に降ろし、キャンバスを立て、画材を広げる。絵を描く準備を終えるまでに数分もかからなかった。手際が良いのは準備に慣れているからというのも一因にはあっただろうが、それよりも一刻も早くこの目に映る夏の風景を描きたいという思いが僕の手を早めさせたのだった。


 紙パックを切り開いた貧乏人のパレットにアクリル絵の具を乗せていく。薄い青色をパレットナイフで掬い、真っ白なキャンバスに色を乗せていく。眼前の黄色とは対照的な色彩で描いていく風景は冷たくとがった輪郭をしていた。それは新宿駅前に立ち並んだビル群を思い出させる。高架下から望む都市の無機質な光景はまるでナイフのように鋭く、どこか僕を突き放すような排他的な硬さで形作られていた。


 それに比べて、この場所はどれほど柔らかく僕を受け止めてくれているだろうか。明確な境界なんて見せない。草生した地面からむき出しの土へ、青々と茂る幹から鮮やかな花へ、覆いつくす山々から雲一つない青空へ。すべてがグラデーションの如く色を重ね、風景を描いていく。


 自然だ。


 不自然という言葉が下手な絵画に向けて放たれる侮蔑の烙印だとするならば、今僕が目の前にしている作品は最上の賛辞を贈るにふさわしい物で違いないだろう。


 そこに違和感がないのだ。土があり、草木が生え、花が咲き、枝葉が揺れ、木漏れ日の先に青空が広がる。その一連の構図構成に何一つとして苦言を呈する余地がないのだ。


 そこにあってしかるべきものがそこにあるだけ。それなのに、人が作ったどのような景色よりも胸を打つ感動を生み出すのだから、芸術家なんて名乗る人間はどこまでも『不自然』な存在なのだろう。


 ナイフの先でキャンバスを引っ掻くようにして色を削っていく。乗せられていた青色が除かれ、薄くなるとそこに光が生み出されていく。濃淡で描く光の差異は最初こそなんてことはない汚れのような不格好を見せる。けれど、色を重ね、色を削り、不毛に思えるような工程を繰り返していくことで汚れは一つの景色へと昇華されていく。


 キャンバスの先、一番奥に描かれた空は大きな積乱雲を山の向こうに抱えていた。


 見上げればどこまでも続く青の中で、人が描けるのはこの木枠に張り付けられたキャンバスの端まで。どれだけ完璧に、どれだけ自然に描き上げたとしても、結局それは枠組みに囚われた不自由な空に過ぎない。


 それでも満たされた気持ちになれるのは所詮人の心なんてものが小さな器でしかないからだろう。


 喜怒哀楽に満たされた器。


 いずれの感情であっても許容できる量は一人分。他人の事なんて構っていられない。自分のことで精一杯。器を溢れた感情を受け止めてくれる誰かを皆が探し求めているのに、誰かの事情なんて抱えてはいられない。


 誰もが孤独同士に求め合う。


 だからこそ人は求める誰かに無関心を決め込む。


 忙しなく歩を進める小さな器の群れが、道端に並べられた木枠の『不自然』にどうして足を止めるだろうか。


 僕の心に注ぎきれない青空を溢れないように描いていく。


 いつしか空は斜陽に染まり始めた。暮れる空にカラスが飛べば、それはそれで絵になる景色であったが、ヒマワリが寂しげに頭を垂れるので僕は手を止めた。


 今日はこれまでにしておこう。


 筆を置き、画材を片付けていく。


 どうせ誰も来ないだろうとイーゼルをそのままにキャンバスから背を向けたところ、ヒマワリ畑の端からこちらをうかがう女の子の姿を見つけた。


 透けるような白いワンピースに身を包んだ少女は、それに劣らぬ白い肌をしていた。腰まで伸びた長い髪は丁寧に手入れされているのか絹糸のように細く滑らかに流れる。


 こんな林の奥にどうして少女が、それも一人でいるのだろうか。


 そんな疑念を抱いていると少女はそのくりくりと大きな瞳をこちらに向けながら小首を傾げた。


「あなたはだれ? どうしてうちの庭にいるの?」


「庭? このヒマワリ畑は君の家の庭なのかい?」


「そうよ。むこうに私の家があるの」


 少女が指さす方を見ると、確かに家があった。木々に囲まれたここからでも見えるほどに大きな屋敷は、その大きさ故に手入れが行き届いていないのか、少し古びて見える。田舎町の更に果てに鎮座するそれからは、住んでいる人には申し訳ないが、幽霊屋敷のような不気味さを感じずにはいられなかった。


「勝手に入ってしまってごめんね。すぐに出ていくよ」


「なにをしていたの?」


「とても素敵な風景だったから絵を描いていたんだよ」


「絵?」


 少女の視線の先にはまだ青色しか乗せられていないキャンバスがある。それを見て、彼女は不思議そうな表情を浮かべた。少女の目には、それがこのヒマワリ畑を描いたものだとは、とても思えなかったのだろう。


「まだ下描きなんだ」


「色がないわ」


「これから付けていくんだよ。アクリル絵の具はね、上から色を重ねていけるんだ」


「そうなのね」


 少女はまじまじとキャンバスを見つめる。


「私、かいているところが見たいわ」


「ここで描いてもいいのかい?」


「もちろんよ」


 斜陽に少女の瞳が輝く。


 期待の込もった視線がこちらに向けられも、それに応えることはできない。今日はもうヒマワリが空を望んでいないのだ。


 薄暮の空は淡い朱色。


 一日の終わりを突き付けるその色彩に、僕は責められている気がして、聞こえもしない鼓動の早まりを感じ、どうにも嫌な汗を額にかいていた。


「ごめんね。今日は、もう描かないんだ」


「どうして?」


「ほら、ヒマワリが俯いているだろう? 昼間は背筋を伸ばして上を向いていたんだ。でも、ずっと上を向いていたら首が痛くなっちゃうんだろうね。今はこうして休んでいる。そんなところを絵にしちゃったら、可哀想だろう?」


「つかれちゃったのね。邪魔をしたらわるいわ」


「そうだね。だから、また明日にしようと思うんだけど、それでいいかな?」


「わかったわ」


 そうして少女と約束を交わし、僕は実家に戻った。


 親戚が集まった実家では皆が忙しなく動き回っている。仏壇の前の精霊棚には割りばしを突き刺したきゅうりとなすが死者を迎えるために並べられている。何か手伝うべきかとも思ったけれど、昔から何をするにも要領の悪かった僕に振られる仕事はないだろう。


 手持ち無沙汰に縁側に座る。夜風に当たりながら団子を頬張ると、涼し気な風が頬を撫でる。ネオンがきらめく都市部とは違い、この町の風に喧騒は乗らない。


 ゆっくりとした時間が流れていた。


 盆提灯の淡い明りがゆらゆらと揺れる。


 鈴虫の声に耳をすまし、これから訪れる夏の終わりを予感するのだった。




 晴れ渡る空に流れる雲はいったいどこへと向かうのか。


 広大な空を泳ぐ彼ら。しかし、向かう方角は右倣え。どこへだって行けるはずなのに皆が進むから自分もそうする。早朝、アスファルトを踏み鳴らし行進する彼らも同じだ。ふわふわとした意思のない群像はもはや社会という絵画の背景でしかない。


 見るに堪えない。いや、見たくないのだ。


 そこに自分がいないことが、歩幅を共にしなかった自分が、この世界で一人の悪だと言われているような気分になるから。


 僕は夏の高い空から視線を外し、足元を確かめるように歩き始めた。誰も舗装してはくれない獣道で躓かないように、一歩先を常に確かめ前に進む。


 うつむく視界では先は見えない。


 気が付けば僕の目の前には昨日残していったイーゼルがあった。青い絵の具で下描きされたキャンバスの向こうでヒマワリが頭上の太陽を仰いでいる。日々を懸命に生きる花々の活力があふれた光景を前に僕は焦るように画材を広げ始めた。


 今日は地面から塗っていこう。


 アクリル画は色を重ねていくことで絵を完成させていく。薄く延ばされた下の色を効果的に合わせ、奥から手前へと違和感なく色彩を馴染ませることで、作品を自然へと近づけていく。昨日は空の色を、今日は土の色を。それが仕上がれば、今度は草木の色を合わせていく。


 作品は徐々に完成へと近づいていくものなのだ。


 途中経過を他人が見れば稚拙な落書きにしか見えないだろう。時間をかけてゆっくりと大作へと昇華されていくはずのそれを、けれど、理解ない人が駄作だと一蹴する。目に見える成長、積み重なる確かな成果。点数化された人間の価値しか認められず、採点されぬ欄外の回答には目も向けない。


 それが社会のマジョリティ。


 なら誰が完成前の矮小な芸術家を評価するのか。身に染みている。そんな人間は存在しない。そこにいるのは傷を舐めあう落伍者ばかり。誰かに認められるために絵を描き、見向きもされなかった絵を皆で褒めあい、励ましあう。表面ばかりに支えあい、張り付けられた笑顔の裏ではこの掃き溜めからのいちぬけを目論んでいる。


 筆に馴染ませた茶色の絵の具を無心で塗り始める。


 何のために絵を描いていたのか。彼らは覚えていたのだろうか。


 僕は忘れてしまったよ。


 ふと思い出したように振り返りヒマワリ畑の端を見つめた。林の向こうの屋敷に続いているのだろう石畳の道に人影は見当たらない。


 昨日の少女は来ていないようだ。


 それに落胆を覚えてしまうのは僕も例に漏れず誰かに認められたいがために絵を描いているからに違いなかった。いつからだろうか、僕が誰かの評価に怯えるようになったのは。


 キャンバスに視線を戻すと先ほど乗せた色がすでに固まっていた。アクリル絵の具は乾くのが早い。一度、キャンバスに塗れば数分で固まってしまう。だから、何度でも色を塗りなおせる。失敗が積み重なれば、それだけ深みのある成功が生みだされるのだ。


 人生を絵に例える人たちがいる。生きることは真っ白なキャンバスに色を乗せていくことだと。上に上にと重ねられた今が過去を塗りつぶし一人の人間を描き上げていく。


 その結果が成功だった人間は良い。完成された作品は誰かの目に触れればたちまちに称賛されるだろう。けれど、失敗が塗りつぶしてしまった人間はどうなるのだろうか。


 絵の具をこぼし、惨憺たる様相を見せるキャンバスを誰が評価するのだろうか。過去には成功もあったかもしれない。誰にもまねできない美麗な色彩が彩っていたかもしれない。けれど、失敗作を見て誰がそれを見つけてくれるだろうか。


 握った筆が止まる。


 僕はどうしてこんなに辛い道を選んでしまったのだろうか。


 ここに戻ってくれば思い出せる気がしていた。


 僕が生まれ育ったこの田舎町には、塗りつぶされた僕の過去がある。


 小さなころから絵を描くことが好きだった。同級生は周りに何もないとこの町を嘆いていたけれど、僕はその何もない自然を絵にすることが好きだった。


 どうして好きだったのか。


 理由があったような気がする。


 母が褒めてくれたのだろうか。友達が褒めてくれたのだろうか。


 記憶をたどるように筆を動かしてみるも答えは出ない。重ねてしまった色が厚すぎて、ナイフで削りだすには遅すぎたのだろう。


 地面を塗り終え、背後の山を塗ろうとしたところで足音が聞こえてきた。大きくフリルのついた日傘をさした少女が石畳のうえを跳ねるように歩き、このヒマワリ畑へとやってきた。


「こんにちは、おじさん」


「こんにちは」


 色素の薄い肌の少女は今日も白いワンピース姿で現れる。日傘まで白ければ、腰まで伸びる黒髪が強いコントラストとしてアクセントをつける。


 幼さの残るあどけない笑みを向けられると、自分がおじさんと呼ばれることも納得してしまう。彼女の目からすれば、僕ももうおじさんなのだろう。僕がまだ若いと言われ続けたのは、周りにいた人たちがもう若くなかっただけなのだろう。


「まだお花、色を塗っていないの?」


「そうだね。今日はまだ。花に色を付けるのは、明日になるかもしれないね」


「そうなの? それじゃあ、今日は何を描くの?」


「山を描くよ」


「お山を塗るのね。そしたら、緑色かしら」


「うん、そうだね」


 少女の言葉にうなずいて見せるも、僕が手に取ったのは黄色の絵の具だ。細い筆に持ち替え、下描きの青色に重ねるように塗っていく。山に生える木々の一本一本をイメージするように、青い山に黄色の木々を植えていく。


「今は何を描いているの?」


 首を傾げる少女の予想通りの反応に僕は少し得意げになる。


「これはね、光を描いているんだ」


「光?」


「そう。山は木に覆われているから、当然緑色に見えるよね。でも、よく見てみるとそうじゃない。ぼやけて見える部分は黄色だったり、陰になっているところは深い青色だったりする」


 自然が本当にその色を見せているわけではない。けれど、僕らの目はいい加減なもので、少しぐらいの色の違いを過剰に強調し認識する。だから、自然を描くためには不自然な色彩を足していく必要がある。


「そういった曖昧な色の違いを表現するために、黄色い絵の具で先に光を塗っておくんだよ」


「そうなのね」


 少女は僕の説明を楽しそうに聞いてくれた。日傘で陰る中でも爛々と光る彼女の瞳はまるでガラス細工のように美しい。その目が僕を、僕の絵をとらえている。それがどうにも嬉しくて、思わず吹き出すように笑ってしまう。


「どうしたの?」


「嬉しくて、つい笑ってしまったんだよ」


「うれしかったの?」


「そうだよ。もう長い間、僕は誰かに絵を見てもらっていなかったからね」


「おともだちがいないの?」


「お友達?」


 彼女の問いに首を傾げてみせる。どうしてそこで友達の有無が出てくるのか、僕にはわからなかったのだ。


 しかし、少し考えて少女の言いたいことを理解する。彼女は描いた絵を見せる相手と聞いて、家族や友人くらいの近い関係の人間を思い浮かべたのだろう。つまり、少女にとって認められたい相手は家族や友人であって、名前も知れない他人ではないのだ。


「お友達は、いなかったね」


「私と一緒ね」


「そうなのかい?」


「お屋敷の外にでちゃダメって言われているの。だから、いっつもひとりぼっちなの」


「そうだったんだね」


「おじさんもお外にでられなかったの?」


「いいや。おじさんは外に出て行ってしまったんだよ」


「お外に?」


「うん。ここよりももっと人がいる大きな町にね」


「人がいっぱいいるのに、ひとりぼっちだったの?」


「そうだよ」


「どうして?」


「みんな、僕を人だと見てなかったからかな」


「おじさんは人じゃなかったの?」


「そうだね。少なくとも、彼らにとっては背景でしかなかったんだよ」


「はいけい?」


「そう。誰も目を合わせない。見えているのに見てくれない。興味も関心も、一切の心の隙間にも僕の存在を留めてはくれなかったんだ」


 僕らの目はいい加減だから、見なくてもいいものは見止めない。高架下で絵の具にまみれた薄汚い男が並べた絵画の一枚にも価値を見出してはくれず、道端に転がる石ころのように蹴飛ばしていく。


 少女の気遣うような視線に気づく。一体、僕はどんな顔をしていたのだろうか。こんな幼い少女を心配させてしまうなんて、相当にしょぼくれた顔をしていたのだろう。


 慌てて、僕は取り繕った笑みを彼女に向ける。


「ごめんね。こんな話、するべきじゃなかったね」


「苦しかったの?」


「その時かい? そうだね、苦しかったよ。でも、不思議なことにね、辞めたいとは一度も思わなかったんだ」


 思い出す記憶はどれも辛いものだった。


 薄暗い部屋、立ち込める絵の具の匂い、汚れまみれの作業着。


 そこに僕をつなぎとめる物など何一つない。


 けれど、そこから逃げ出したいとも思わなかった。


「毎日、誰にも認められない絵を描いて、誰の目にも映らない景色に色を付けて。あの高層ビルに飲み込まれた街には描きたいものなんて微塵もなかったし、食べるものもないくらいに生活は苦しかったけど、最後まで絵を描くことを辞められなかったんだ。なんでだろうね」


 少女は小首を傾げた。当然だ。僕にも分からないことを、昨日であったばかりの少女に尋ねたところで答えが返ってくるはずがない。


「絵を描いているところが見たかったんだったね。そろそろ続きを描くよ」


 僕はこれ以上空気を悪くしないように話を切り上げ、筆を動かし始めた。


 黄色の上に少し水を含ませ半透明にした緑の絵の具を塗っていく。黄色と混ざれば光を浴びた木の葉が、青色と混ざれば陰る木の葉が。積み重ねられ、混ざり合う色彩が、徐々に高くそびえる山々をキャンバスの上に描き出していく。


 一つ一つは意味のない色だ。こうして描き上げなければ誰にも理解されない。山になるはずだった木の葉の色は、途中で筆を折ってしまえば落書きにも満たない、単なる汚れにしかなり得ない。


 要するに、絵も人生も結果が伴わなければ意味がないのだ。終わりを迎えた時に完成しない経験が報われることはない。努力することに意味がある、過程こそが重要だなんていうのは、成功者の戯言でしかない。彼らは完成させたのだから、それまでの色に意味があるのは当然なのだ。


 だからこそ、道半ばで倒れた落伍者の人生には意味なんて存在しない。あるのは血反吐のように散りばめられた虚しい下描きの絵の具のみ。


 花の散り際に美しさを覚えるのは、その花が咲き誇っていたからだ。蕾のまま散る命に、いったい誰が目を向けるというのか。


「今は何を描いているのかしら?」


「今はね、ようやくヒマワリを描こうとしているんだよ」


「私、このお花好きよ。いつもお日様の光をいっぱいに浴びて、気持ちよさそうなんだもの」


「そうなんだ」


「このお花はね、パパが植えてくれたの。私はお日様にあたれないから代わりにって」


「素敵なお父さんだね」


 ヒマワリの花言葉は憧れ。


 この風景は少女にとっての憧れなのだろう。彼女にとって意味のある風景、それを僕は今この30号程度の小さな枠の中に描き出そうとしている。


 納得してくれるだろうか。


 少女が抱く意味に見合う作品を完成させられるだろうか。


 そんな不安が僕の中で渦巻いていく。ドロドロと熱を帯びる感情が胸のあたりで息を詰まらせる。この感情に色を付けるなら僕は灰色に少し青を混ぜたような色を塗るだろう。


 焦燥が筆を震えさせる。


 顔を上げ、ヒマワリを見つめ、色を乗せていく。キャンバスのおよそ六割を占めるヒマワリ畑の黄色をゆっくり、丁寧に描き込んでいく。


 すると、どうだろう。


 描き始めた時に重かった筆は加速度的に軽くなっていった。ここにはこの色、ここは透明色。この色は正しいか、この色彩で少女は認めてくれるだろうか。


 そんな風に悩んでいるのもじれったい。右手に握る筆は羽でも生えたのか、まるでヒマワリ畑の上を飛び回る蝶のように動き回る。


 いつしか僕は一人になっていた。


 誰かの声に耳を傾けるのも煩わしかった。


 僕が、僕として、思うがままに描くこの風景に、指摘もアドバイスも受け入れる余白は存在しなくなっていた。


 だから、然るべくしてこうなったのだろう。


 誰も他人の事情なんて抱えてられない。


 僕だってそうだ。


 皆が皆の背景。


 だから、孤独と孤独が集まったあの高架下には最初から人間なんて存在しなかったのだ。


 もたれかかったコンクリートに奪われた体温。虚ろな目で眺めた規則的な革靴の足並み。


 色のない世界だった、光のささない暗闇だった。


 隙間風に冷え込むアパートの中で、それでも熱量を持っていられたのは握る筆から伝わってくるからだ。陽だまりに差す陽光の温もりが、胸中に燻る情念に火を灯す。


 何のために絵を描いていたかなんて、とうの昔に忘れてしまった。思い出せない色彩は、積み重なった愚にもつかない今に塗りつぶされてしまったから。


 けれど、全ての始まりはその色だったのだ。


 最初のひと塗り、まだ何を描こうとしているのかも見て取れない、下描きの色。それが、僕の全ての根底。重ねられる今という色彩、その全てに掛け合わされているのだ。


 下描きの色は見えなくなっただけで、無くなったりはしない。


 思い出せないだけで、無意味になったわけではない。


 だから、この筆が描き上げたヒマワリ畑には彼らが望む青空が映っているのだ。


「ふう……」


 一息に描き終えると倦怠感を覚えた。学生の頃にプールの端から端まで泳ぎ切った時とよく似ている。息苦しさに悶えながらも溺れるように前に進む。決して楽ではないけれど、振り返ったときに映る煌めく水面は僕に確かな達成感を与えてくれる。


 けれど、この達成感のために絵を描いているかと問われれば、それも違う。それは初期衝動になり得ない。僕を突き動かすのはもっと単純で、もっと心底に芽吹く感情。


「描き終わったの?」


 少女が声をかけてきて、ようやく僕は彼女の存在を思い出す。


 いつの間にか、僕は誰かに見られていることも忘れて、目の前のキャンバスに没入していたようだ。


「うん。完成したよ」


「そうなのね」


「どうかな。君の好きな花畑、それを僕なんかが絵にしてしまったわけだけど……」


 その問いかけに少女はキャンバスに視線を向ける。幼い少女の目にはそれがどう映ったのだろうか。彼女はキャンバスと僕を見比べるように視線を動かしていた。


 斜陽が日傘の端から差し込み、赤みがかった顔に笑顔が浮かぶ。


「とても素敵な絵ね」


 それはたった一言の称賛だった。


 絵の巧拙も、技法も、題材も、テーマも、メッセージも、何もかもの批評を挟まない、単純で明瞭な肯定の言葉。


 何よりも求めていた言葉だった。


 けれど、不思議なことに受け取ってみるとどうということはない言葉だった。


「それはよかった」


 描き上がったキャンバスをイーゼルから外す。


「これ、貰ってくれないかな?」


「いいの?」


「うん」


「ありがとう、おじさん」


 日傘を閉じた少女は、その大きなキャンバスを両手で抱える。


「私ね、おじさんが絵を描いているのを見てね、私も絵を描いてみようと思ったの」


「そうなの?」


「うん」


 少女が笑顔で頷く。その無垢な彼女の胸にある色が気になった。


 この少女は、まだ色も付いていない白紙のキャンバスにどんな色で下描きをするのだろうか。


「それは、どうして?」


「だってね、おじさんがね、すごく楽しそうだったから」


 その言葉に、僕の汚れたキャンバスが白紙に戻ったような気がした。


 そうだ、そうだった。


 小さな頃、初めて手にしたクレヨンの感触。チラシの裏に押し付けるように色を塗ったあの時の感動。


 下描きの色は楽しさだった。


 誰かに褒められたから描いていたわけではない。


 誰かに認められたいから描いていたわけではない。


 ただ僕は白紙のキャンバスに色を塗る、それだけのことが好きだったから、死ぬまで描き続けていたのだ。


「……ありがとう。君のおかげで、僕は思い出せたよ」


 呟く声に少女は首を傾げる。


 瞳を閉じると頬を撫でる風が鈴虫の音を運んでくる。


 残暑を連れていく涼しさの中で、盆の終わりを感じたのだった。




「ただいま」


「おかえりなさい、お嬢様」


 庭から戻った少女を使用人の老人が出迎える。白いひげを蓄える老人は彼女が持ちにくそうに抱えるキャンバスに気が付くと首を傾げながら彼女に近づいていく。


「おや、お嬢様。そのお荷物は?」


「お庭で幽霊さんにもらったの」


「幽霊に?」


 少女からキャンバスを受け取った老人は、やはり不思議そうに絵を見つめる。


「そうよ。これ、私のお部屋に飾っておいてね」


「ですが、お嬢様。これは……白紙では?」


 白紙のキャンバスに首を傾げた老人に少女は首を振り否定する。


「ちがうわ。私には見えないけど、とても素敵な絵が描かれているの」


「どうしてそう思うのですか?」


「だって、あんなに楽しそうに描いていたんだもん」


 幼い少女に絵は分からない。


 けれど、確かに言えることは彼が心の底から絵を描くことを楽しんでいたということ。


「素敵な絵が描いてあるに違いないわ」


「さようでございますか」


 それだけでこの絵は素晴らしいものであると確信できるのだ。


「私もあの人みたいに好きなことが見つかるかしら」


「お嬢様なら見つかると思いますよ」


「ふふ。そうだとうれしいわ」


 下描きの色は蒼天の青色。


 望む憧憬の光に胸を焦がしながら、少女は初めの色を塗り始めるのだった。



読んでいただき、ありがとうございました。

よろしければ、感想や批評など頂けると幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 丁寧な描写で、感情の機微が書き込まれている点が良かったと思います。 雰囲気に浸れる作品を読ませていただき、ありがとうございました。
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