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作者: 綿津見


主催した「アンソロジー空」に書いた話です。



 講義棟を出た瞬間、世界が不意に意識を取り戻したかのように、アスファルトから立ち上る熱が肌に突き刺さる。


「あつ……」


 ぶわりと湧く額の汗を拭いつつ、思わず呟いた。まだ蝉も鳴かない七月上旬。だというのにこの気温はさすがに堪える。地球温暖化だ、という嘆きが頭の端を過ぎっていった。小学生の頃は夏休みのたび自由研究に温暖化問題を取り上げる誰かしらがいたけれど、エアコンの温度をセーブしよう、できるだけ扇風機を使おうなんて主張は、大学生の今もう出来る気がしない。冷房がガンガンに効いた講義室に今すぐ戻りたかった。


 時刻はちょうど正午を回ったところだった。鞄を抱えた学生たちが辟易した声を上げつつも炎天下に飛び出していく。皆、構内にいくつかある食堂や購買へ向かうのだろう。同じく空腹を覚えながらもその背中を追うことをためらう。


 手元のペットボトルからお茶を一口含む。不味い。その生ぬるさに思わず顔をしかめていると、あきはる、と遠くで声がした。見れば高校からの友人が近寄ってきている。


「アキ、今終わったとこ? 三限あるなら飯行こ」


 泳士、と友人の名前をぼんやり呼び返して頷く。明治(あきはる)はようやく酷暑の直下を歩き始めた。行き先を打ち合わせすることもなく、旧友と連れだって中央食堂に向かう。


「夏バテしてんの? 相変わらず夏に弱いなあ」


 友人が笑う。

 冬見明治(ふゆみあきはる)、四季のうち夏だけを含まないその名前は、暑さに弱い性質も相まって夏場によく話のネタにされる。なお呼ばれる際はアキだとかハルだとか各々好きな季節が選ばれる。


「北国育ちにこの暑さは辛い。……水に足でもつければちょっとはマシになるかな」


 明治が冗談まじりに返せば、水泳部に所属する友人は真剣な面もちをした。


「おすすめ。これだけ暑いとめっちゃ気持ち良いよ。何なら飯食ったあと一緒に行く?」

「あー、三限、各論だからさ。残念ながらパス。あと二回の自主休講でアウト」

「あの穏やかーな、眠たくなるおじいちゃん先生だろ」

「そう、ほんと眠たい。あれは呪文」


 相づちを打っているうちに食堂の長い列へ辿りついた。どの年次も、さらには学外の人も利用する食堂は昼時いつも混雑している。慣れたもので二人は最後尾につく。


「A定が鶏天で、B定がおろし豚しゃぶだってさ」

「んー、……冷やし中華かなあ」


 列は学生たちの雑談を編み込みながら少しずつ進み、ようやっと日陰に差し掛かる。

 ふと振り返って空を見上げれば、いかにも夏らしい入道雲が突き抜けるような青空に鎮座していた。

 天気が良すぎて嫌になるな、と内言を宙に浮かべながら、明治はひそかに嘆息した。




 食後というのもあって余計に眠気の強い講義を受け終え、明治は駐輪場へと足を運ぶ。通学のために買った自転車に跨がり、車輪に任せてそのまますいと道へ滑り出た。


「あ、ハル、おつかれ」「おつかれー」


 日傘を装備した女子の一団に見送られ、下り坂を行く。足を動かさずとも車輪が回っていく。


 あとひと月ほどで大学三年の夏休みだった。あとひと月、そのひと月が長い。教授たちはその三十日ほどに試験やレポートを詰め込んでくる。それを何とか乗り切ることが出来れば多方から羨ましがられる長期休暇、……だが、今年はどうも謳歌ばかりもしていられなさそうだ。


 坂を下り終え、それなりに交通量のある交差点へ差し掛かる。歩行者の横で信号の色が変わるのを待つ。同じく信号待ちをしている学生二人組の会話が耳に入ってきた。


「ね、あれ、行く?」

「来週日曜の市民センターのやつ?」

「そう。それと、教務課主催の説明会」

「んー……、あたしバイトなんだよね。インターンシップって行かなきゃダメと思う?」

「実際どうなんだろ。でも、経済のさ、先輩も行ったとこで内定もらったって言ってたじゃん。行くに越したことはないよね」

「……やっぱり?」


 明治は苦虫を噛み潰したような気分を覚える。ああ、こんなことなら図書館でレポートの一つにでも着手していた方が良かったかもしれない。思わずそんな風にさえ思うほど、何てことのない雑談に気分を害されている自分自身にうんざりさせられた。講義、単位、サークル、バイト、就活、卒論。大学生がたやすく共通の感情を得られる話題はそこかしこに転がっている。


 それを逃避と知りながら、せめて視界だけでもと明治は車道に目を遣った。次々横切っていく車の色とりどりの、その奥に。


「……?」


 小さく、たどたどしげに動く影を認めて目を眇めた。

 こんなにも車の多い場所で、まさか子供を一人で歩かせているのだろうか、このままでは無邪気に車道へ入ってきてしまいやしないか。いや、さすがに親が近くにいるはず。


 焦燥にも似た感情を覚えたまま、対向車線の信号が赤へ切り替わる。車が減速して目の前の道を空ける。視界が切り開かれ、数拍置いて、目の前の信号がぱっと青に変わった。


 引き続き、ぽてぽてと歩く小さな存在に、明治は思わず周囲を見渡し。静かな驚嘆を引き連れて、その()()()()へと駆け寄った。




「……ケープペンギン」


 七帖の自室で呟くが、対象から芳しい反応は得られなかった。

 明治が思わず連れ帰ったそれは、手持ちの機器で調べるにどうやら、ケープペンギンという名のペンギンであるようなのだった。


 全長約六〇センチ、顔とクチバシが黒く、胸のあたりにも黒い横線。白い腹には斑点模様が散っている。UFOキャッチャーに詰まっていればさぞ耳目を引きそうな体躯は、ぬいぐるみの柔らかいイメージとは違いずっしりと重く硬かった。


 空調の効いた室内で、ペンギンは我関せず、マイペースに佇んでいる。七月にしてこの気温である日本の夏に耐えられるのか、心配になったがこの種は本来アフリカに生息しているらしい。南極のイグルーに暮らすクレイアニメ(ピングー)の想像しかなかったが、とりあえずは平気のようだ。


 というか、どうやら。

 そのペンギンは明治以外には見えていないようなのだった。


 明治が車道と歩道の区別もついていない生きものを咄嗟に拾い上げたときも、自転車のカゴに乗せたまま平和な交番を横切ったときも、誰一人として奇異の目線を向けてきた人はいなかった。普通ぬいぐるみを乗せていたってつい目を遣ってしまうものだろう。女子大生も親子連れも、そこに何もいないかのように自然体だった。学内であればともかく、何かのドッキリ企画とは思えない。そうであれば既に種明かしがされているはずだ。


 さらに、カシャリと音を鳴らして撮った写真に『何が見える?』と添えて送信すると、


『床。心理テストかなんか?』


 友人のにべもないメッセージが返ってきたのみだった。対面で問うていれば相手が真顔であったことは予想に難くない。


 明治は座り込んだまま、何だこれ、と思う。いや、ケープペンギンだと調べはついているのだが。幻覚の解像度が高すぎて寧ろ脳の処理がついていかない。


 ワンルームに暮れ泥む太陽の光が差し伸べられている。ミドルブラウンの床が赤みを増していく。七帖が夕暮れに満たされていくようだ。


 徒らに過ぎる時に耐えがたくなって、ペンギンの頭へ手を乗せてみる。硬い。たしかにそこに質量が存在しているのを感じた。


「何だこれ……」


 同じ呟きをもう一度。

 黒いクチバシを動かすだけのペンギンは、さすがに答えをくれなかった。




 アジに塩を振って水分を出し、片栗粉をまぶし、焼く。細切りにした野菜とタレに漬け込んで粗熱がとれるまで待つ。以上、「アジの南蛮漬け」の作り方。「アジ 料理 簡単」で検索をかけて得た知識である。


 明治は今しがた出来上がった皿をテーブルに置いた。ケープペンギンが何事かと言わんばかりにとてとて近寄ってくる。


「……お前のために買ってきたんだけど」


 座卓の前に腰を下ろしながら、若干恨みがましくペンギンを見る。一人暮らしで魚など普段は買わない。キッチンにグリルもない生活では「魚は学食で食べるもの」という認識だ。それでもスーパーの鮮魚売り場に足を運んだのは、このペンギンは果たして物を食べずに平気なのだろうかと不安になったからだった。


 ペンギンを居候に迎えて、かれこれ三日が経つ。


 このアパートはペット禁止物件であったような気がするけれど、足音は響かない、鳴き声も他の人に聞こえないような存在を置いていても他の誰にも迷惑はかけないだろうと思った。自分にしか見えないペンギンに三日構ってみて、分かったことがいくつかある。


 まず、このペンギンは食事を必要としないらしい。買ってきたアジを目の前に掲げてみてもクチバシは開かれなかった。何か不満があるにしても時間が経てば口にするだろう、と思ってしばらく様子を見たが、ただただ鮮度が落ちていくのみだったため明治も諦めた。


 結果、人間用に南蛮漬けとなったものを口に含む。片栗粉を買い足す羽目にはなったがそこそこに美味しく出来ている。明治がおかず一品で一気に充実した感のある夕食を摂っていると、


「うわ、ちょ、行儀悪いぞ」


 食卓をじっと見ていたペンギンが、顎を天板に乗せてアジを奪いにかかった。余計な調味料がかかった切り身を問題なさげに丸呑みしている。鋭いクチバシの奥にアジが一瞬で消えた。


 訂正、食事を必要とはしないが、食べることは出来るようだ。


 さて、それから。水場もいるだろうかと思って浴槽に軽く溜めた水で、ペンギンは溺れかかった。人間は水深十センチもあれば溺れるというが、まさか海の生きものが(フリッパー)をやたら無暗に動かしてばしゃばしゃと水ばかりまき散らすとは思わず、それが潜ろうとするのでも泳ごうとするのでもない動作だと認識するのにしばらく時間を要した。


 ペンギンは「やれやれ」といった風に首を振って、フローリングに水滴を零しながら浴室を出て行く。


「お前、この片付けを人にやらせる気か……」


 明治は水びたしの浴室から顔を出して、ペンギンの後ろ姿を見た。黒い背中は開けたままだった掃き出し窓に向かい。ベランダに降りて、欄干に小さな足をかけて、翼を、


「──いやいや! それは飛ぶためのものじゃないから!」


 広げたところを慌てた明治に引き戻される。


 このペンギンは飛びたがるのだった。


 ペンギンという生きものは飛べないというのに。


 いや、このペンギンに限って本当は飛べるのだろうか? そんな疑問が頭を掠めない訳ではないが、「本当」を試されて、重力と仲良くしている惨事は幻覚でも決して見たくはない。


 そんなものだから、明治はこの生きものからなかなか目を離せないのだった。ここ数日はなるべく大学から直帰するようにしている。期末を控えて授業の数は少なくなってきているし、アルバイトは今やっていないから問題はない。


 ペンギンが少し翼をばたつかせた。二つの瞳と視線が噛み合う。


「広くないけど、ここにいて。飛ぼうとするのだけはやめてくれ」


 自分で連れ帰って来たとは言え、ロボット掃除機よりも役に立たない。寧ろ目が離せない分こちらの仕事が増えている。ペットと言えばそういうものなのかもしれないが、この不思議現象──あるいは明治の妄想、幻覚は、見ていて飽きないことは確かだった。




「アキハル、おはよ」

「……はよ」


 講義室で肘をつき、講義開始を待ちながらぼうっとしていると同じ学部の知り合いが声をかけてきた。挨拶もほどほどに、隣の席に滑り込まれる。特に相席の約束をしている相手もいないので明治はそれを不満もなく受け入れた。彼の顔はよく見ていたがすれ違う程度で、話すのは久しぶりだ。

 座席についたその男子が体の向きを少し変える。


「な、アキさ、公務員講座受けてたっけ? 受けてたら昨日のノート見せてほしくて」

「いや、受けてない。泳士と長谷川なら真面目にやってるよ」

「そっか、そうだったっけ。サンキュ。情報助かる」


 あたってみるわ、と知人は人好きのする笑顔を浮かべる。そこで話を切り上げるかと思いきや、掛け時計をちらりと見て逡巡した素振りを見せたあと続けた。


「じゃあ就活? こっちで受けんの、それとも地元戻るとか?」

「んー、まあ、検討中かな。様子見つつ」

「そっか、でもアキハルなら問題ないよな。しかも売り手市場? らしいし?」


 俺、地元の田舎の田舎まで落ちたらどうしようかなって思ってさ。そう零す知人に、明治は「俺もどうなることやら」と返しつつ、少しくだけた顔を見せてみる。それに幾分かほっとしたのか、話題は中身のない地元トークに移行する。


 そこで教授が姿を見せたため会話は打ち切りとなった。


 そうして講義を受け終えて、週に何度か定例の、友人・泳士との昼食を摂る。


「なんかあった? そんな顔しかめて」

「ん、大丈夫。何でもない」


 薬が必要かと問う友人に、眉間の皺をほぐしながら礼を言う。


「何か必要になったら連絡よこして」


 食事を終えると、友人は心配を見せながら今日も趣味の水泳に向かっていった。彼は水泳バカと言って差し支えないほど泳ぐことに意識を注いでいる。水に触れてさえいられれば良いんだ、と言っていたのをたまにふと思い出す。


 友人と別れた明治は、図書館にて取り寄せていた論文のコピーを受け取る。今日も家でレポートを進める予定だった。集中力が続かないので亀の歩みだが着手しないよりはマシだろう。


 アルバイトの時間を気にせずに帰宅ができるのは楽だった。


 入学直後に始めた居酒屋の仕事はつい先月辞めていた。辞めたい辞めたいと思っていた訳ではないけれど、一つ上の先輩が抜けるというので、あ、それなら俺も、と思ってしまった。まとめて二人もバイトが抜けることに焦る店長を前に「何となく」が理由だとは言えず、「そろそろ就活の準備しなきゃいけないんで」と説明をした。


 準備だなんて、その活動が嫌になる以前に始まっていない。そもそも大学を卒業後、一般企業に就職したいかどうかも分からないのだ。


 インターンシップ、エントリーシート。Uターン、リクルーター。大学生のある時期から途端に氾濫するカタカナたちは勿論明治の耳にも飛び込んで来る。

 それでも、明治の頭の中にはペンギンと締切の迫るレポート、それくらいしか入っていない。


 薄っすらと「未来」のことを考えようとするとき息苦しいような気がした。進路は無限に広がっているのに、どこにだって行けるはずなのに、どこにも行けないような気がした。

 例えば、別に継ぐべき親の職業もないから地元に戻っても、あるいは戻らなくても良くて、大学院に進んでも留学してみても良くて、何なら自分探しの世界一周に出てしまっても良くて。


 別に高所にいる訳でもなく。こんなにも空気に満ちているのに、それがずしりと重くて、酸素を上手く肺に取り込むことが出来ない。七帖の自室―その直方体の中に自ら閉じこもって、きっとキューブにぱちりと蓋をしてしまったのだ。やがて上下左右も分からなくなって、結局どこに向かうことも叶わないまま、ずうっとここに居るような気がしている。自分が望んだことだとも忘れかけながら。


 帰宅した自室で床に膝をつく。


 ゆるりと手を伸ばしてペンギンを両腕に抱える。

 到底気持ちの良い肌触りではなかった。しかも硬いクチバシで腕を突かれた。それでも想定していたほどの拒否ではない。


 窓ガラスの向こうの空が遠い。

 泣きたい気分なのを、まだ暮れてもいない夕日のせいにした。




 遅々として進まなかったレポートも試験も何とか終えて、八月、夏休みに入った。まだ成績は出ていないが、今さら焦ったところで前期の講義を受け直せる訳でもない。


 ポーン、と高い音が響いた。


「──皆さまこんにちは。本日は××航空をご利用いただきありがとうございます。当機は××空港行き一二二便でございます。この便の機長は佐竹、私は客室を担当いたします古橋でございます──」


 機内アナウンスが流れる。明治は地元に向かう飛行機の中にいた。


 実家に帰ったからといって特段何が変わるとは思ってはいない。家族に相談の時間を取ってもらうつもりも今のところない。劇的な何かが待ち受けていたりはしないだろう。帰ることでそこにあると予測がつくのは実家らしい温かさと実家らしい窮屈さくらいだ。


 ただ、それでもこの夏は帰ろうかと思った。あの七帖の自室を一度出ようと思ったのと、それと。


 明治は座席の横、窓側をちらりと見た。隣席は幸い空席のようだ。人間の座っていない空間に、代わりにペンギンが収まっている。ほかの誰にも見えないペンギンを、機内持ち込みできるキャリーケースの上に乗せて何とか連れて来たのだった。


「そのまま座ってて」


 囁くとペンギンは不思議そうにこちらを見る。

 実家に帰ろうと、飛行機に乗ろうと思ったのはこのペンギンにも理由があった。


 どうしても飛びたがるペンギンに、せめて雲の上を見せてやろうと思ったのだ。


 もっとも締切の遅いレポートに着手しているとき、明治が何気なく顔を上げれば掃き出し窓のガラスが引かれていた。窓の開閉には気を遣っていたはずなのに、ペンギンはベランダ、そしてその手すりの上に立っていた。少し強く風が吹けば途端にバランスを崩しそうな位置で、遥か遠くに焦がれるように空を見ていた。落ちてしまう。脳裏を過った思いのままに駆け寄って、引き戻して、


「だから、飛べないって言ってるだろ!」


 自分でも驚くほどの大声で否定を口に出したとき、その声量と内容に自分で血の気が引いた。蓋をした箱に自らが閉じ込もるだけでなくこのペンギンまでも引き込もうとしている。どこにも行けず、何も出来ない。いくら妄想の対象かもしれないとは言えそんな不毛に巻き込む権利も資格もない。


 ……飛行機が安定した飛行に入って、また音が鳴る。明治ははっとした。


 手を伸ばして窓の覆いを上げる。窓の向こうに、乗れそうだとつい思ってしまうほど厚みのある、柔らかそうな雲の海がどこまでも広がっている。視認できる範囲での「一番遠く」から橙のラインがじわりじわりと夕暮れを滲ませていく。今どこにいるのか、どの方角に向かっているのか、この景色では分からない。分からないが、機長でもない自分にそれは大した問題ではないような気がした。


 示される進路なんてない、上下左右もなくどこまでも広がる空、そこに、自身で標識を立てるも立てないも別に勝手なのだろう。


 それは希望でも諦念でもなかった。ただ喉元へするりと入り込んできた思いを抱えながら、


「近くで見る空はどう、」


 傍らへ声をかければ、シートベルトを締めているはずもないペンギンは座面に立ち上がっていた。そうしてそのまま、外側へ体を向ければ、金属の壁などなかったかのように自然に雲の海へ抜け出ていく。


 あ、と口が開いたが何も言えなかった。本当に驚いた時には声も出なくなるらしい。


 ペンギンは首を伸ばして明治の手の甲を一度突くと、空へ泳ぎ出していった。悠々と、飛ぶと言うにもあまりにも優雅な動きだった。

 黒点が小さくなっていく。明治はその姿が見えなくなるまで、窓ガラスに顔を近づけ続けていた。




 夏休みが終わってしまった。実家にいつまでも滞在している訳にもいかず、学生の身分として明治は戻ってきて構内へ来ている。学期初めは学生が多いせいか食堂もひときわ混雑しており、今日は購買で済ませるかとそちらへ足を延ばしたところで、


「……あ」


 思わず声が零れた。


 いなくなったはずのペンギンが、外に設置された丸テーブルに尊大に顎を乗せていた。


「ねぇ、ちょっと。何であたしについてくるの? どっか行ってってば──ていうか何なの、これ夢?」


 座席に置いた鞄を取るに取れず、女性がぼそぼそと小声で話している。ペンギンが気になっているが、それ以上に平然とした周囲を慮っているのだろう。電話をしている様子もないのに突然大声で一人声をあげれば怪訝な視線が刺さることは間違いない。


 明治は思わず立ち止まりペンギンをじっと見つめた。あの大きさ、マイペースさ。居候の奴で間違いない。


 対して女性は明治の知らない人間だった。おそらく学内の人だろうが面識はない。隙なく施された化粧に、染めたショートヘアの奥で大きなピアスが揺れていた。見ればそこかしこに装飾品をつけていて、よく似合っていたが「隙のない美人」という雰囲気を漂わせていた。まあ現状、ペンギンに困らされてはいるようだが。


 と、向こうのペンギンが明治に気づいたのか、羽ばたくように翼を動かしてこちらに歩き出してくる。ぽてぽてとした歩みは戻りを喜んでいるように見えて、思わず柔らかく明治の口角が上がった。


 女性は鞄を取り戻して満足するかと思いきや、


「──待って、ねえ、あなた、見えてるでしょ?」


 カツカツと、凶器になり得そうなほど鋭いピンヒールの足音が迫ってくる。その剣幕に、明治は思わず気圧された。ペンギンに目配せし、さりげなくその場を離れようとするが、


「待ってってば!」

「ぐ、」


 勢いよくリュックの紐が引っ張られ、上半身が後ろへ傾ぐ。

 弾みがついてしまったのか、バランスを戻すことは叶わず。思いきり空を仰いでしまった。今日の空は雲ひとつなく、青く透き通っている。


 日々確実に変わっていくのは空だけなのだろう。自分たちが何をしようと、何もしなかろうと。


 背中を打ちつけた時の痛みなど、現実的なことを想像する代わりにそんなことをふと思った。

 リュックに引っ張られた首は苦しいが呼吸は出来る。

 明治は今日の空を肺に、網膜いっぱいに吸い込んだ。


 ──今日も空が綺麗だ。



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