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孤独は嗤う  作者: 譜久山 希
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-序章-

独裁国家を築き上げたアドルフ・ヒトラーに関する逸話は多い。ドイツを支配下においた彼の生き方は、賞賛すべきでない点が取り上げられることが多いが、数々の功績があるのもまた事実である。そして何より、群衆をナチス色に染めた演説は誰も真似できないことだろう。これは彼の才能か、はたまた努力なのか。それは努力で手に入れたとも否定できない。なぜなら、彼は、群衆を魅了するための演説方法を研究し、声の出し方などをオペラから学び練習に励んだと言われているからだ。それは、まさしく努力と言えよう。しかし、彼のずば抜けた才能と引き換えに、何を犠牲にしたのか。

 


 今日も教室は薄暗く、本をめくる手はゆっくりで、目は文字の斜め上を見ている。実際は、斜め前の女生徒を見ている。時々眼球を動かしながら、文字を女生徒と行き来し気づかれないための策を講じている。彼女はおそらく僕のことを知らないし、僕のことを知ってほしいとも思わない。それでも、見ていたい。僕にとって彼女は、陰鬱な学校生活の一種の清涼剤なのだ。

そんな僕は、部活にも参加せず、家と学校の往復をしている。時々、喫茶店に立ち寄ることはあっても、基本的にはまっすぐ家に帰る。特に、門限や親とかそういったことがあるわけではなく、家が好きだからだ。学校に行けば、椅子に座り、また本を開く。学校では読書はほとんど進まないが、それでいい。人と関わることが苦手な僕には、学校という空間は苦痛そのものなのだが、本を開けばたちまちそれは爽快な空間に変わる。彼女は今日も美しい。

それは、雨の日の午後だった。学校が終わり、帰路についていると、見慣れぬ犬に出会った。

「可愛いな、お前。ご主人はどこに行ったんだ。」

首輪にはXと書いてある。飼い犬らしいが、雨の中どこからか逃げてきたのだろうか、犬はぐっしょりと濡れ、リードはついていない。動物好きではないが、こんな状態の犬を放っておくわけにもいかない。人馴れしている犬を抱いて家に帰った。僕の家では動物禁止ということはないが、母は動物があまり好きではない。そのため、飼ったことがあるのも夜店で掬った金魚ぐらいだ。この場合は、救ったと表現するのが正しいのか。しかし、救う願いも届かず、数週間で金魚は全滅してしまった。あの時は、僕も小さかったため生き物の扱いに慣れておらず、死なせてしまう結果に終わったが、今回は犬と共に何年も過ごせるよう、努力しよう。いや、犬は金魚と違い人に懐き易い。母も納得するかもしれない。

家に帰るとさっそく、母は小言を言いだした。もちろん、犬を拾ってきたこと、これから犬を飼うのか、または保健所に連れて行くのかなど様々な予測を立てていた。僕は、犬のために風呂を用意し、泥だらけの体を洗ってやることにした。Xとは変な名前だ。何と呼べばいいのか。単純にエックスなのか、これはバツなのか。そう思いながら、温かい風呂に気持ちよさそうにしているXを見ていると、僕にも何とも言えない気持ちになり、これが母性なのか、と考えていた。以前、テレビ番組で見たことがあるのだが、代理出産で産んだ赤ん坊に対し、卵子提供しかしていない、つまりは10か月間、他人のお腹にいた赤ん坊を抱いて、母乳が出ていた母親を見たことがある。僕は、そういうものは生まれてくるまでにホルモンとかそういうものが関係して、母親になっていくのだと思っていたため、この番組を見たときは衝撃を受けた。その点、父親とは楽なものだ。人間を生むとは、簡単なことではないはずが、何にもしなくても、産まれてきて、育てなくても勝手に育っていく。きっと、僕の父親もそういう人だったんだろう。僕の小さいときに死んだため、母は父親の話はめったにしない。墓参りに年に一回行く程度の付き合いだ。

「これ、食べるかわからないけど。」

風呂上がりのXに対し、猫まんまのような混ぜ物を出してきた。あり合わせのご飯のようだが、今この家にはドッグフードはない。仕方ない、あとで買ってこよう。体を拭き終わると、Xは一瞬のうちにそれを食べ、しっぽを振り、舌なめずりをした。

「美味しかったのかしら。まあこんなものでよければ、いくらでも。」

やはり、犬は人に懐く。そもそも人馴れしているようだし、探せばきっと本来の主人も見つかるだろう。もしかしたら、明日には本当の主人が名乗り出て、お別れになるかもしれない。そう思うと、すでに少し心が痛む。やはり、これが母性か。Xに毛布で即席の布団を拵え、水を側に置いてやった。

 次の日、学校に行く前に、Xの頭を撫でてやった。正式には、朝起きたときから撫でているが、去り際につい犬の頭を撫でてしまう。目に入れても痛くない、というほどではないが可愛がっているのは事実だろう。

 学校に着いても、ふとXのことを考えていた。今頃何をしているのだろう、ご飯は食べただろうか、昼寝でもしているのだろうか、母と一対一で大丈夫だろうか、など授業の声は右から左、犬のことを考えていた。今日に限って、斜め前の彼女は視界に入っても気にならない。これほどまでに、僕の生活が侵食されようとは驚きだ。気が付くと、僕はノートの片隅に犬の絵を書いていた。

 「あなた、犬を拾ったんでしょう。」

 突然、真上から声が降ってきた。顔を上げると、そこには女の人が立っていた。

 「君、誰」

「誰って言われると傷つくんだけど。私は斎藤梨華。ちなみに私はあなたと同じクラスだし、もう同じクラスになって1か月以上も経つわ。」

  ちなみに言うと、クラスの女子は頭にいれていない。顔は好みだが、女子の顔をじっくり観察したことはないため、僕の目は泳いだ。

 「で、犬拾ったんでしょう。」

彼女は少し低めの声で話してきた。

「拾った。君の家の犬?」

「正確には家の犬ではないのだけれど、私の犬よ。返してもらう。今日の放課後、君の家に行くわね。」

彼女はにこりともせずに、爽やかな口調でそう言うと斜め前の席に座った。見間違いではない、僕の学校生活の清涼剤が犬の飼い主だったようだ。綺麗な長い髪が揺れる背中は、間違いなくいつもの彼女だった。彼女の正体は、魅惑のシンデレラではなく、犬の飼い主だったのだ。ところで、どうして犬を拾ったことを知っているのだろう。昨日の一連の行動を、見ていたのだろうか。しかし、それなら、すぐに自分の犬であることを主張すれば良かったのだ。一晩、僕の家で泊まる必要はなかっただろう。したがって、僕を見張っていたとは考えにくい。僕は今日学校に来るまでも、来てからも犬の話題には触れていない。自分から、犬の要素が溢れ出たとしたら、この落書きだけだ。それとも、今日一日、彼女はあらゆる人に犬を拾ったかを聞いていて、僕がその答えを持っていただけなのか。隠すことではなかったが、今日の放課後にはXとの別れが来るのかと思うと、手放したくないという思いも少なからず湧いた。

放課後のチャイムが鳴り、彼女はかばんを持って僕のところにやってきた。

「行きましょう。」

彼女は僕を引っ張るようにして、教室を出た。僕は聞きたいことがあった。

「斎藤は、何で犬のこと分かったんだ」

僕は直球に聞いた。

「昨日犬が消えて、今日あなたが犬の絵を描いていたからよ。落書きにしても、全く似ていなかったけれど、いつものあなたは本を広げてぼんやり空を見ているだけなのに今日に限っては絵を描いていたから聞いただけよ。」

「いつものって、僕を知っているのか」

「知ってるわよ。」

彼女はふふっと笑うと足を速めた。僕も足を速めて後ろから彼女を追いかけた。彼女はどこかミステリアスで不思議な雰囲気だった。今までは、斜め後ろから背中を見るだけの存在だったが、今では放課後一緒に帰る仲にまで発展している。これは、大いなる進歩と言えるだろう。しかし、仲が良くなった、あるいは友達になったというのとは少し違う。彼女のことをもっと知りたい。生い立ちや、好きなこと、趣味、思い出の場所など知らないことが多すぎる。そもそも、犬は家で飼ってないと言っていたが、どういうことだろう?僕は犬種に詳しくないが、あれはゴールデンレトリーバーのような大型犬だと思われる。そんな大型犬を、家じゃないところで飼っているとはどういうことなのだろう。しかし、彼女は質問を許さない態度をとっている。つまりは、僕に背中を見せている。

「あなたの家、どっちに行くの?」

突然彼女は話しかけてきた。

「えっと、このまま堀北通りを抜けて、右に曲がるんだ。それでちょっと進んだら左手に家がある。」

「ここの商店街って昔、事件があったの。知ってる?」

「事件?知らないけど、いつの話?」

彼女は歩きながら、振り返って話し始めた。

「今から十年位前の話。商店街に住む、70代の老夫婦が殺されたの。犯人はその夫婦の息子夫婦だった。介護疲れってやつだったのかしらね。老夫婦と息子夫婦は一緒に住んでいて、家の二階に老夫婦の遺体があったそうなの。二人とも包丁で首を切られて布団の上に数週間放置されていた。腐敗臭がするという住民の通報で事件が発覚して、息子夫婦は逮捕された。当時は、こんな田舎の商店街に殺人事件が起きたとすごく話題になったものよ。」

「そんな事件があったのか。知らなかった。」

十年前と言えば、僕が七歳の頃の話だ。その頃は確か、両親が離婚したところにあたる。あの頃は、家の中が荒んでいて、外の事件のことはよく覚えていない。その後、父は突然、家を出て行った。離婚したということだったみたいだが、離婚理由は教えてくれないが、父は短気でよく母に怒鳴り、物を壊したりしていた。父とはそれ以来会うことはなく、その後、母から死んだと告げられた。

昔のことに思いを馳せていると、いつのまにか自分の家についていた。彼女は、歩くのをやめ、僕の家を見上げた。

「立派な家ね。」

立派な家ではない。お世辞でも言ってくれるのは嬉しいが、実際は普通の家というのが、妥当なところだろう。大きくはないし、家自体は建売の中古を買ったのだと聞いた。まあ、母と二人で暮らすには広いのだが。

僕は彼女を連れて家に入ると、玄関にはすでにXが待ち構えていた。

「やっぱりここにいたのね。」

彼女は女の子らしい可愛い声をあげて、Xに駆け寄った。Xもしっぽを激しく振り、御主人との再会を喜んでいた。

「ところで、この子の名前なんていうんだ?」僕は聞いた。

「あら、ここに書いてあるじゃない。『テン』よ。」

「テン?」

「そのままよ。ローマ数字で10、英語でten」

そういうことか。ローマ数字は使う機会がないから、エックスだと思っていた。幸い、エックスともなんとも呼んでなかったから良かったものの、エックスだと思っていたことは内緒にしておこう。

「智幸、お友達?」

母が台所から出てきた。友達を連れてきたことがなかったからか、母は随分驚いた顏をしている。友達を連れてきたと思ったら、女の子で、しかもそこそこ可愛い子だからだろう。

「こちら、犬の飼い主の斎藤梨華さん。偶然、同じクラスの子が飼い主だったんだ。だから帰りに寄ってもらった。」

「そう。梨華ちゃん、どうぞ上がって。ゆっくりしていってね。和室にお茶を持って行くわ。」

僕の家には、応接間というか、客間は無い。もともと、お客なんて来る家ではないし必要ないから無かったのだ。普段は、台所で事足りるので、僕も用事がなければ和室に入ることはない。和室には机と和ダンスが置いてあり、写真や掛け軸もない殺風景な部屋だ。彼女はXを連れて、和室に入り、僕が敷いた座布団の上に座った。するとXが彼女の横に座り、ワンワンと二回吠えた。

「テン、大丈夫よ。ありがとう。」

彼女がXの頭を撫でると、伏せの格好で大人しくなった。

「テンは、昨日拾ってから一度も鳴かなかったよ。それに、そういえば、粗相もないし、ちゃんと躾されているんだな。」

「ふふっ。ありがとう。テンは私が飼った犬の中で一番優秀なの。他にもいろんなことができるのよ。」

「なんか芸ができるのか?」

犬は教えればいろんなことができるらしい。お座りや伏せなど、メジャーなものはもちろん、賢い犬は、新聞を取りに行ったり、踊ったり。忠犬というだけあって、犬はどこまでも人に忠実なのだそう。人はそこまで他人に忠実になれるだろうか。

そこへ母がお茶とお菓子を持って部屋へ入ってきた。母は、少し緊張した面持ちだ。思えば、今、女子と部屋に二人っきりなのだ。母にはクラスの子という紹介をしたが、もしかしたら交際相手だと勘違いしている可能性がある。

「芸は基本的なことはできるわ。でも新聞を取りに行ったりはできないの。朝、新聞を取りに行ってくれたらとっても楽になるのに。」

「優秀なんだったら教えたらいいんじゃないか。」

彼女はふふっと笑うと、お茶を飲んだ。彼女はきちんと正座をして、佇まいも美しい。きっと、敷居は踏まないとかそういうことも知っているんだろう。僕はマナーなんて分からないし、知っても披露する機会がない。

「ところで、智幸くん。お父さんはいらっしゃるの?」

彼女は唐突に聞いてきた。

「うちは小さいときに離婚してその後死んだらしい。だから、今は母さんしかいない。僕は兄弟もいないんだ。」

「そう。」

言いにくいことを聞かれたが、彼女は全く悪びれる様子もなく、テンを撫でながら部屋を見渡していた。

「お父さんいなくて寂しくないの?」

「寂しいってことはない。僕には母さんがいるし、父さんとはあまりいい思い出はない。記憶にある限り、楽しかったことはないから今のままでいいと思っている。」

「そうなの。じゃあ、今日はテンも返してもらったし、帰るわね。また来ていいかしら。」

彼女はお茶を飲むと、立ち上がった。

「あぁ。いいけど。」

彼女はまた、ふふっと笑うと言った。

「あなたはきっと幸せなのね。」


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