1 神家
いまや日本の中心地となっている長野県軽井沢市。自然が多く、古民家の目立つ町並みに沢山の木々が生い茂る大きな森がある。森の周りは大きな塀がめぐらされており、その中に入るには頑丈な鉄の門を通るしかない。その門のところには『一条』と書かれている。一条家、天皇が持つ苗字。現在天皇陛下は過去、八百年ほど前まで日本の首都だった東京にある別宅で養生していて、政の中心は彼の息子、現皇太子にある。
篠原尊はその現実離れしたほど大きな門の前で深く深呼吸をした。神家に連なる八夜家の人間であったとしても一条の屋敷に招かれる事はそうはない。それくらい同じ神家の中でも一条家は別格なのだ。いくら八夜に属するとはいえ、直系でもなく、本来本家に関わる事さえ殆どないであろうはずの尊にとっては余計にありえない状況だった。それも彼を一条家に呼び出したのは皇太子の子息、後に皇太子となりゆくゆくは天皇にまでなる事を約束された人物なのだから緊張も大きい。
余りに緊迫した様子で門の前に立ち尽くす尊に呆れたのか、それともシビレを切らしたのか従兄の八夜瑠衣が呼び出し音を鳴らした。尊達の耳には聞こえてこないが屋敷の中には聞こえているはずだ。
「な……瑠衣……おまえ、勝手に押すなよ」
顔を顰めると、後の八夜家当主は小ばかにするように尊を見た。尊も、瑠衣も幼い頃から兄弟のように育っているからかお互いに遠慮がない。
「おまえな、いつまでこうしてるつもりだよ。一条家の前に佇む怪しい人間なんて即効で刑務所行きだ」
「だって、おまえ、相手は一条夏樹だぞ?やり手で恐ろしいと評判の」
尊自身は夏樹に会った事はない。当然だ、夏樹がトップに立っている警察組織の特殊部隊に入っているか、若しくは各家の当主・次期当主でなければ早々会える相手ではない。一教師に過ぎない尊にとっては雲の上の存在だ。
「やり手である事は事実だけどな、そんなに怖い相手ではないぞ。他人嫌いの面はあるが、身内は大切にする。お前は仮にも八夜の人間なんだから他人扱いされる事もないし、今日はあの方から直々の呼び出し。そうそう変な事にはならない(……多分、な)」
緊張している尊の耳にポツリと聞こえてきた声に尊はギョッと目を見張った。冗談にしてはたちが悪すぎる。
「な……多分……って……」
「ほんと、やばい用件では……」
【はい】
瑠衣の言葉を遮るようにインターホンから若い女性の声が聞こえてきた。
「八夜瑠衣と篠原尊です。夏樹様に呼ばれて来ました」
【今お迎えをよこします。お入りになりお待ち下さい】
スーーっと音もなく鉄の門が左右に開いた。その先に伸びる一本の道。その左右に生い茂っている木々のお陰で薄暗く感じるその道に先は見えない。一条家の屋敷がどこにあるのか、尊達の位置からは見えなかった。
中に入るとすぐ脇に小さな小屋が建っている。大きさは小さいが小奇麗な作りで、どこか好感を持てる雰囲気だ。
「迎え?」
「お前ここから歩いていったら日が暮れるぞ?」
予想以上に大きな敷地に尊は今度こそ絶句した。
「君が篠原尊?」
目の前に立つ男は笑みを浮かべることなく、ジロジロと尊の姿を眺める。まるで観察されてでもいるかのような嫌な空気に尊の表情が軽く凍りつく。彼、一条夏樹から発せられる空気は、過去尊が触れた事がないほどに冷たい。
「お初にお目にかかります、篠原尊と申します」
深く頭を下げた尊に夏樹がクツクツと笑みを零す。だが、尊を見る目は決して笑ってはいない。
「君が、ね。尊が契約をした時には問題になったらしいけど、私はその頃はまだ子供だったから然程詳しくは知らない」
ゆっくりと近づいてきた夏樹の手が伸びてきて尊の眼鏡をそっと取る。尊は目の前に広がった光景に思わず息を呑んだ。
神家が日本で神とあがめられるのはそれだけの力があるからだ。政治力や経済力だけではなく、もっと根本的な力。もちろんそれを知る人は殆どいないが、それでもその力の存在をどこかで感じ取っているのだろう。
この世界を、自然を育む精霊との契約、それを許されたのが神家の人間だ。日本人であれば誰でも契約をするだけの力はあるが、契約は面倒で、そして精霊王に認められなければならないという制約が多いこと、そして強い力ゆえに完全な管理を必要とする事から神家、それも本家近くの限られた家以外には認められていない。
尊と瑠衣は炎の精霊と契約を交わしている。その上で尊はほかとは違う力を持っていた。他人が契約した精霊の存在を見る力。とても珍しく、そして世界が様々な色に彩られるためとても生きにくい力だ。それを押えるためにつけていた眼鏡を奪われた尊の目の前に強い赤が広がる。赤は炎の精霊の色、そしてその濃さは精霊の力の強さだ。尊はここまでの強い力を見た事は殆どなかった。たった、一度だけ。精霊王と契約のためにまみえたあの時だけだ。
「炎の……精霊王?」
強い赤の色の中に、薄い影が見える。サラマンダー。炎の精霊王があの時と全く同じ姿で夏樹の側にある。
「そこまで見えるのか……。八夜が自慢するだけはあるな。……そんなお前にやってもらいたい事がある」
そっと眼鏡を戻してくれた夏樹から冷たい色は消えていた。だが、こちらを見る真剣な表情に尊の顔は余計に凍りつく。なんとなく聞きたくない、と思ってしまった。尊にとって、否、他の誰にとっても楽しい話ではないだろう。




