4 青い瞳
「美冬!?起き上がって大丈夫なの?」
家に帰るなりキッチンに立つ美冬を見た美琴の目がまん丸に見開かれる。今朝、起き上がるのが辛いから、と風邪という事にして学校を休んだはずの美冬が、パジャマ姿とはいえキッチンに立ち、料理をしている。
「このくらい大丈夫だって。大体何日もコンビニ弁当じゃ体に悪いじゃん。嫌ならまともに料理してよ」
グッと言葉に詰まる。それを言われてしまえば美琴は何も言えなくなってしまう。面倒な事が嫌いで、自分の興味の無いことには淡白(別名適当という)な美琴とは異なり美冬は家の事をするのが好きらしく、家の家事は大抵美冬が担っている。二人で暮らし始めた当初、料理も掃除も当番性で交代にやっていたのだが、料理は面倒くさいという理由でコンビニ弁当。掃除は嫌いとおざなりにやるだけ。そんな美琴にシビレを切らした美冬が「自分がやる」宣言をしたのだ。そんな彼女にとって美琴がする家事はイライラするものだったのかもしれない。とうとう我慢できなくなったのだろう。
「……今日も買ってきたけど……」
「明日の朝にしようよ、せめてさ。私明日からは普通に行けそうだから。……で、どうだったの?」
美冬が言いたい事はすぐにわかった。篠原の反応が美冬も気になっていたのだろう。お弁当と一緒に買って来たお菓子とお茶をテーブルに並べた美琴の側に、美冬も寄ってきた。
「話はしたけど、ばれてはいなさそう。何も言われなかったし」
「この髪形が悪いんじゃない?」
伸ばし放題に伸ばし、一応纏めてはいるが、前髪はほぼそのまま。顔の半分を隠してしまっている。
そんな美琴の前髪を書き上げた美冬が困ったように笑った。美冬は美琴が顔を隠し続ける事を嫌っている。
「顔、見られたくないから。それに、このお陰でばれなかったんだし」
パッと美冬の手を振り払う。美冬や美夏、その美夏の彼氏にあたる久崎俊彦の前では前髪を後ろの髪と一緒に綺麗に束ねているが、普段は殆ど顔をさらさない。美琴はなれない人間に顔をさらすのが嫌いなのだ。自分の存在を示す事さえ余り好きではない。同じように生き、生活してきたはずの美冬は、堂々と前を向いて歩いている。もちろん素直で前向きな可愛い女の子、とは程遠いが。
「ばーか、ばーか」
鼻で笑うような美冬を半眼で睨みつける。人間嫌いな面は美琴も美冬も良く似ている。それでも違うのは二人が目指す場所なのかもしれない。美冬のようになりたいと思った事はない。例え思ったとしても美琴には無理だ。でも、今のままでいいと思っているわけでもない。どうすればいいのか、美琴自身わかっていない。
「うるさいな、美冬だって人の事言えないでしょう?私とあんたの違いは隠し方の違いだけ。顔を隠して人と関わらない私と、笑顔を浮かべながら絶対に他人を内側に入れないあんたと、何が違うのよ」
呆れたような言葉に美冬は小さく息をついた。表情が苦し気に歪む。
「……私たち、いつまでこうなんだろ……」
「一生、このままじゃない?」
答えた美琴の表情も辛そうに歪んでいる。二人ともこのままではいけない、と分かってはいるのだ。それでも、一歩を踏み出す方法を二人は知らない。そんな勇気もない。
ガチャン。
いつも通り朝一で部室に入ろうとすると鍵にひっかかる音が聞こえてきた。静かな図書室に響く大きな音に思わずビクリ、と肩が震える。現在朝八時。授業が始まる三十分前。いつもならこの時間には部長か副部長が来ているはずなのに、今日はいないらしい。
文芸部の部室には貴重な文献も多々揃っている。そういうモノは図書室にはおかず、文芸部員でなければ借りる事は出来ない。そんな部室だからか戸締りは厳重で、中に誰もいない時には鍵をかける決まりになっている。鍵は二年生に進級した時に渡されるカードキーだ。無駄にお金が掛かっている。最も文芸部だけではなく他の部活も大抵似たようなものだ。この学校にはどれだけお金があるのだろう……?神家系列だという噂もあるがあながち嘘ではないだろう。
美琴はお財布に入れたまま一度も出した事の無い鍵を取り出した。これを使うのは渡された時に練習で何回か開け閉めした時以来だ。
カチャリ、と鍵が開く音がする。さっきほど大きな音で響かなかった事にホッと胸を撫で下ろした。この時間殆ど人がいないとはいえ、図書室で大きな音を立てるのはできるだけ避けたい。
「ああ、おはよう」
「……おはよう……ございます……?」
部室に鍵が掛かっていた以上誰もいないと思っていた部室の中から聞こえた声に美琴は唖然と目を見張った。とっさの事にどう反応していいかわからず、その場に立ち尽くした。薄暗い部屋の奥から出てくる人物は影になっていて、顔を見る事は出来ない。それでも声だけでそれが誰なのかわかった。
「何?幽霊でも見たような顔をして」
不思議そうに問いかける篠原の意図がわからない。普通鍵の掛かった真っ暗な部屋の中に人がいるなんて思わない。彼はこんな場所で何をしていたのだろう?
「せ……先生……何を……?」
余りに予想外な状況に頭がついてこない。パクパクと口を開閉するが、まともな言葉は出てこない。
「ん?ちょっと気になる事があってね」
スッと篠原が右手を上げて美琴の前髪を書き上げた。髪の毛というフィルターを外した世界を久しぶりに見たような気がする。驚いたように目を見張る美琴の目の前で篠原が小さく笑みを零した。
「ああ、やっぱり。すずらん、でしょう?」
やはりばれていたのだ。軽く深呼吸をして何とか頭の回転を取り戻す。
「……何の話ですか?」
「デート倶楽部」
「……私は知りません。妹が……」
篠原はジッと美琴の顔を見つめてくる。美琴の話は聞いていないようだ。不思議そうに目を瞬いていた彼がそっと美琴の目元に触れる。ごろごろと目の中でコンタクトレンズが揺れた。
「カラコン?……目、青いの?それも、片目だけ」
不思議そうに覗き込んでくる篠原の目に奇異も、蔑みも無い。だが、美琴の顔色が変わる。驚愕の表情で篠原を見るその目に、篠原は映っていないように見えた。
「宮乃原さん?」
「……気持ちの悪い子。何であんたたちみたいなのが生まれたのよ。美夏は普通なのに」
「生意気な目」
美琴の耳に聞こえるはずの無い声が聞こえてきた。何度も、何度も反芻するかのように声が響いてくる。
「宮乃原さん!!」
聞こえてくる声の中に、普段とは違う声が聞こえる。だが、美琴がその事を認識する前に美琴の意識は闇に沈んでいった。もう、何も考える事が出来ない。




