2 身代わりデート
「すずらんさん?」
すーーっと大きく深呼吸をした美琴の耳に若い男の声が聞こえてきた。すずらんは美冬がバイト中に使っている源氏名のようなものだ。待ち合わせ場所に来てからずっと、その音を探していたから体はすぐに反応した。美冬がいつも浮かべている表情を浮かべる。
鬘の下に長い髪を無理やり押し込んでいるからか、酷く蒸れて、嫌な気分になる。
「はい」
振り向いて背後の男を見た瞬間美琴の笑顔が凍りついた。目の前に立っている男は二十代前半くらいに見え、若々しく、人目を惹く容姿をしている。決してデート倶楽部で一時の楽しみを望むタイプには見えない。彼がその気になればデートしたいという女の子は後をたたないだろう。デート倶楽部にでも入れば相当モテルはずだ。
だが、美琴が驚いたのはそんな彼の容姿でも、年齢でもなかった。彼そのものだ。彼の顔には見覚えがあった。学校でほぼ毎日見ている。美琴の学校の教師であり、部活の副顧問でもある。美琴に気がつくとは思えないが、余りここで関わりを持ちたくはない。そもそも教師がこんな所を利用してもいいのだろうか?
「すずらん、さん?」
不思議そうに覗き込んできた彼、篠原尊に美琴はビクリ、と肩を震わせた。全く知らない教師であれば構わない。ばれない自信もある。だが、彼は違う。殆ど誰とも会話をしない美琴にしても篠原とは何度か言葉を交わした事がある。
「宮乃原さん?美琴っていうんだ。俺と同じ名前」
初めて部活に行った日に言われた言葉が頭の隅をよぎる。ちがう、と。さっきの返事は間違えたのだと、そう口にしてしまえばいい。美冬に怒られるかもしれないが、篠原に今、ここに立っているすずらんが宮乃原美琴であるとばれるよりはずっといい。
「……すみません、予想外に格好のいい人だったのでビックリしちゃったんです。……莉炎さん、ですか?」
震える声で、美琴が告げたのはそんなひと言だった。もう、後戻りは出来ない。これは完璧に宮乃原美冬を演じてばれないようにするしかなくなってしまった。
莉炎は、美冬から聞いていた、今日のお客様の名だ。こういうところだからなのか、客の素性をデート嬢が知る事は無い。本名もまた、しかり。大抵は偽名を使っている。だからこそ、事前に気がつく事が出来なかったのだ。事前に知っていたら今回のこと、絶対に引き受けなかったのに。
「はー、楽しかった!!」
大きなぬいぐるみを抱えた美琴はクスクスと笑みを零している篠原の方へ視線を転じた。遊園地で遊んだ後、買い物をして食事をして、そろそろ時間切れだ。ここまでの間ばれている様子は無い。美琴自身も思いのほか苦もなく美冬の姿を演じる事が出来たと思う。素で楽しかったのは事実だ。一日一緒にいてもばれていないのだから今後も大丈夫だろう。そう思うと、肩の荷が下りて余計に安心した。
「ぬいぐるみの方が、大きいんじゃないか?」
うさぎのぬいぐるみは幼稚園に通っているような子供程の大きさがあり、抱えていると美琴の顔が半分は隠れてしまう。
「……な!!どう考えたって私の方が大きいです!!」
キッとむきになって怒鳴ると篠原は余計に楽しそうに笑った。それから困ったような顔になり空を見上げる。
「そろそろ時間だな」
「はい。ご利用ありがとうございます」
落ち着いた、デート嬢の口調で挨拶をすると篠原も軽く頭を下げた。
「ああ、こちらこそありがとう。……それにしてもすずらんは一匹狼タイプ?」
篠原が軽く首をかしげる。彼はデート嬢に興味があるらしく、ほかにどんな人がいるのか、としつこく聞かれた。だが、美琴は何一つ答えることなんて出来なかった。当たり前だ。美琴がデート嬢として仕事をしたのは今日が初めてなのだから。
「そんなんじゃないですよ~~。ただ、次、他の人を指名されたら嫌じゃないですか。ライバルの情報なんて教えませんよ」
ニッコリと笑ってやると篠原は困ったように頭をかいた。
「そんなことしないよ。君の事は気に入ったからね」
今日見る彼は予想外すぎる。これが教師では無い彼の姿なのだろうか。不意に目があった。今日一日、できるだけ目が合わないように少し視線をずらしていたのに、最後の最後で油断した。まっすぐで、強い色の瞳には全てを見透かされているようで、なんとなく落ち着かなかった。
「じゃあ、篠……莉炎さん、今日はご利用ありがとうございました」
本当に最後の最後で油断した。つい彼の本名を口にしようとしてしまった。篠原は不思議そうに目を瞬いてはいたが、何も気づかなかったのが言及することなく軽く頭を下げた。
「こっちこそ、ありがとう」
これで最後。篠原が見えなくなるまで見送った美琴は顔に貼り付けていた笑顔を消した。何の感情も浮かんでいない表情で篠原が消えた方向を見続けている。
「随分と楽しそうね~、あの子が居なくなったというのに、あなた達は……」
ねっとりとまとわりついてくるような声音に美琴の体がビクリ、と震えた。振り返らなくても分かる。背後にいるあの女は鬼のような形相を浮かべているはずだ。それ以外の表情を美琴たちは一度も見た事がなかった。
美琴はギュッとぬいぐるみを握り締めた。
カツ、カツ、カツ。足音が背後から回り込んでくる。
美琴の前に立った彼女は、予想通りの表情を浮かべていた。パッと振り上げた手を目にした美琴はギュッと目を瞑る。できるだけその被害から逃れようとするかのように。だが、そんなもので防げるはずもなく、鋭い痛みが頬に走る。
「ただいま」
地面に落ちて砂のついたぬいぐるみを抱えて家に帰った美琴に美冬が驚いたように目を見張った。
「美琴!?どうしたの?」
思わず起き上がった美冬が痛みに呻くのに美琴は慌てて駆け寄る。
「起きないでよ。まだ、歩けないでしょう?」
「そんなことより、それ?もしかして今日の相手……」
「違うよ。……帰りにあの女に会った」
美冬が目を見張る。ほかに怪我が無いかを確認するかのように美琴の全身を眺めた。その様子に美琴は小さく首を振る。殴られたのは一度だけ。頬が赤くなった程度だ。
「大丈夫だよ。公衆の面前だったし、一発だけ」
「なら……いいけど……」
本来ならよくないのかもしれないが、美琴たちにとって一発だけですんだのは奇跡に近い。下手をしたら救急車で運ばれているところだ。それはそれで、困るのだが。
「今日は何か変わったことあった?」
ぬいぐるみを床に置いて座った美琴の問に美冬がケラケラと笑った。
「あのね、あるわけないでしょう?一日中ベッドの上にいたのよ?」
ごもっとも、今の美冬は動くことさえ出来ないのだから、そうそう変わった事があるはずもない。
「たしかに」
「アンタは?今日の相手、どうだったの?それ、買ってもらったんでしょ?」
ぬいぐるみを見る美冬に美琴は小さく頷いた。
「そ。……やさしい人だったよ。しかも格好いい。まずい相手、ではあるけど」
「まずい相手?」
「うちの学校の先生。美冬の振りしてたし、普段の私とは似ても似つかないから気づかないとは思うけどね」
「……学校の先生って、そんな人がデート倶楽部なんて利用してもいいわけ?」
「それもまずいかもしれないけど、私がデート倶楽部でアルバイトしてるのもまずいよ」
弱みとしては半々。気づかなければ美琴から何らかの行動を起こすつもりはないが、もし、ばれてしまったら、その時は美冬だった事を強調しよう。美冬の学校ならデート倶楽部でのアルバイトも問題にはならない。
「本来は美琴じゃないけど……たしかにいい状況ではないよね」
美冬と美琴は顔を見合わせ、同時に溜息をついた。新学期が始まるまで一週間もない。その日が来るのがひどく憂鬱だった。反面、何でもないとすぐに知りたいような気もする。気がつかなかったのだと。……気づいてもらえないのも悲しくはあるが。




