神々の世界
広大な草原の奥深く、誰も立ち入ることのない、そこに何があるのかを知っている人もほとんどいないその場所に1人の男が立っていた。男の目の前には端の見えない湖がどこまでも広がっている。その先は見えない、のではなく、存在しないのだということを男は知っていた。
その湖の下に広がる世界は男が何万年以上も昔に捨てた土地。そして、男にとっては人が生きる場ではなく、男の手のひらで転がされている箱庭のような場所だ。
「イザナギ」
耳に響いた声に男は振り向いた。静かな足取りでこちらに向かってくるイザナミの姿は若い娘そのものだった。姿形だけを見れば、それが何万年も生きている人のようには見えないだろう。彼らは地に住まう人々が“神”と呼ぶ存在だ。だが、彼らからすれば自分たちが神だとは思わないし、化け物だとも思わない。確かに彼らよりも莫大に強い力と、永遠の命を持っている。でも、不死身なのではないし、無敵でもない。強い圧倒的な力を前に命を落とした同胞もいる。
「……どうかしたのか?」
「それは私のセリフよ。……スサノオに何かあったの?」
呆れたような、どこか冷たい口調の問いかけにもイザナギの表情は変わらない。水の下に広がる世界を冷めた目で睨みつけた。世界を滅ぼすことを望み、人に手をかけようとした彼を、人間界から遠ざけるために、そして人とは違うかけ離れた力を持つ彼らを恐れた人間の手から逃れるためにこの地にやって来た。共に生きることを望んでいた人々が、手のひらを返したように化け物、とののしる。そして、強い力ゆえに神としてまつられる事にもなった。それなのに彼らの中に伝わる神の神話はほとんどが創作で、誰1人真実を知ろうとはしない。そんな世界など壊れてしまえばいい、と何度思ったことだろう。だからこそ、人々が忘れたその時にだれもが恐れ、破壊の神とさえいわれたスサノオを転生させる。先祖がえりとしてではなく、普通の人として、全ての記憶を失って転生したはずのスサノオは毎回必ず何らかの衝撃をあの世界に与える。それに右往左往しているのを見るのが楽しくて、スサノオが転生したのちは、ほとんどの時をこの場所から世界を見て過ごしている。そんなイザナギをイザナミは心配し、様子を見に来る。今日もそんないつもの光景になるはずだった。それが、今でなければ。
「アマテラスは?」
スサノオの半身の名にイザナミの表情が凍りつく。スサノオは世に放たれている時以外はイザナギが管理する空間に魂だけの存在として閉じ込められていて、たとえ誰であろうとも会うことは許されない。その抗議の意味もあるのか、この場所に移ってきてからの長い時をアマテラスは自身に与えられた部屋の中でのみ過ごしている。誰が何をしても、何を言っても決して出てこない。
「まだ、太陽の間にいるわ。あの子が出てくるはずがないもの。……スサノオを普通にここで過ごさせることはできないの?」
「それはあまりに危険すぎる。それに……多分、スサノオは戻ってはこない」
「え?」
きょとん、と首をかしげたイザナミと厳しい表情を浮かべたイザナギの目の前で湖の水が大きく盛り上がった。この水にここまでの大きな変化が訪れた事などただの1度もなかった。ここは湖に見えるが、実際は決して出ることが許されない出入り口なのだ。この場所に何かほんの少しでも変化があるとすれば、それは先祖がえりをこの地に迎えるときに帯びる淡い光くらいだ。だが、今の変化はその比ではない。目を焼くほどの強い光と、何か巨大なものが現れるのではないかというほどの盛り上がり。あまりに予想外の出来事にイザナミも、イザナギもその湖から目を離すことができなかった。
強い光が消えた湖の上に一人の男が浮いていた。若い青年の姿を形どる彼の容姿は下に生きる人とも、そしてこの世界で生きるイザナギたちとも大差ない。違いがあるとすれば東洋人とは異なる、彫の深い目鼻立ちくらいだろう。イザナギが彼の姿を見たのはこの地に移った時が最後だった。もう何万年も昔の事だ。たった1つの湖を介して繋がる、人の世界とは次元を異にしたこの場所に新しい世界を瞬く間に作った彼の力はイザナギ達の比ではない。
「クロ……ノス……」
時の神、と言われ、この世界を、精霊界・人間界・神界の全てを滑る王。イザナギも、イザナミも自然とその場に膝をついていた。頭上から感じる莫大な力に顔を上げることさえ叶わない。
「イザナギ。そんなに人が嫌いか?」
問われた言葉にイザナギは慌てて首を振る。確かに嫌いだ。大嫌いだ。だが、それを彼の前で口にできるほど命知らずではない。
「嫌い、なのだろう。あれだけの事があったのだ。嫌わぬ方がおかしい。だからこそ、今までそなたの行いを見て見ぬふりをしてきた」
「なら、なぜいまさら……」
そう、確かにクロノスの力をもってすれば今回のようにイザナギ達の手の届かない場所にスサノオを封じることができる。否、完全に抹殺することさえできるのだ。それなのに彼はそれをしない。今だって封印はしたがスサノオを消すことはしていない。
「……たとえどんなことをしても、我にとってはイザナギも、スサノオも大切な子どもたちだ。だが、今回はやりすぎた。我にとってはあの地で住まう人も、そして精霊もみな大切な子どもたちだ。この騒動が成功していれば、重なり合う三つの世界全てが姿を消すであろう。そなたも、わかっていただろう?」
イザナギがグッと言葉に詰まった。下の世界だけではなく、精霊の世界も、そしてこの世界も壊れることは予想できた。今回のスサノオはイザナギ達の予想をはるかに上回る程に暴走をしていた。だが、一度放ったスサノオを止める手立てはイザナギ達にはない。
「スサノオは返さぬ。……それを許される時は既に過ぎたのだ。アマテラスにも伝えよ」
その言葉を最後にクロノスの姿が掻き消えた。そこには彼の力の残滓と、静寂のみが残された。イザナギは既にいないクロノスに深く礼をして答える事しかできなかった。




