閑話3 高野彰と久我家の当主
ガシャッ
耳障りな音が石造りの部屋の中に響いた。ガチャガチャと引っ張ってみるがびくともしない。五畳程しかない広さの部屋なのに、物が何もないからか嫌に広く感じる。壁につながれ、手首を拘束している鎖が長く伸びないため動き回れる場所が限られてしまっているからそう感じるのかもしれない。
ガチャ、ガチャ、ガチャ
腕を動かすたびに耳障りな音が響く。どんなに力を込めてもびくともせず、何度精霊に呼びかけても答えをくれない。
軽く舌打ちをする。こんな場所とっとと抜け出すつもりだったのに、これでは逃げることもできない。弟たちがどういう状況なのかは知らないが、自分だけなら抜け出せる自信があったのに、どうやら神家は思ったよりもずっと俊輔の事を警戒しているらしい。
カタン。石の地面を踏み締める音が聞こえてくる。俊輔がここに入れられてから今日で約一週間。食事と届けに来る以外で人が来ることはなかった。
「久しぶり、俊輔君」
ふっと笑みを浮かべ鉄格子の向こう側に立った高野彰に俊輔は驚いたように目を瞬いた。彼女は俊輔達九我家が支援している声楽家で、いくら彼女が九我家と血縁的つながりがなかったとしても、相応に近い位置に立っている彼女と俊輔の接触を神家が許可するとは思えなかった。それも、彼女一人でここまで来ることを許すなんて、絶対にあり得ない。
「何を……」
ギ――-と鉄のきしむ音が聞こえ、何の抵抗もなく鉄格子の扉が開く。何が起こっているのか俊輔には理解出来なかった。ただ一つだけわかることは、彼女の登場が俊輔にとって予想外に素晴らしいことだということだけだ。
彼女は俊輔の前に立つと呆れたような表情で彼を見下ろした。
「バカなことをしたものね。あなたのおかげで九我家は本当に取りつぶしになるわよ?妻子も二度と表には出れないでしょうね」
彼女の声はいつもと同じように落ち着き払っていた。ずっと父が面倒を見ていた彰は俊輔達3兄弟にとっては姉のようなものだった。だが人づきあいが然程好きではないのか、彰は必要以上に俊輔の家族に近づこうとはしなかった。名前すら知らないんじゃないかと思う。そんな彼女の口から2人の話が出たことが意外だった。
「私には関係のないことだ。向こうが望んだから結婚して、子供を作った。後は知ったことではない」
それは嘘偽りない正直な思いだった。たぶん彰以上に俊輔は自分の家族に興味がない。
「言うと思った。……俊輔君のお義父様が言っていたわ。俊輔は怖い。何を考えているのかわからない、とね。さすがは親。よく見ているわね。さて、と。時間がないから本題に入るわ」
彰がしゃがみ込み、俊輔をつないでいる鎖を手に取った。その手には針金も握られていて、その針金であの鉄格子のかぎを開けたのかと思うと、信じられない。彼女は一体全体何者なのだろうか。
「条件は一つ。後、3日は捕まっているふりをして。それを守れる、というのならこの鎖を解いてあげる」
鎖に手をかけた彰が答えを待つように俊輔の方へ眼をやった。その3日という約束に何があるのか、俊輔にはわからないし、知りたいとも思わない。だが、協力をしてくれる以上、たった一つの条件くらいは聞いてやろうかと思う。
軽く頷くと、ものの数秒で俊輔を拘束していた鎖が外れる。それと共に精霊の気配を身体の奥に感じる事ができた。精霊の力を抑える仕掛けは鎖にだけ施してあるらしい。
「扉の鍵は閉めておくけど、構わないでしょう?」
「ああ」
精霊の力が戻れば開けられる。
「それなら、いい。3日間は動かないで。約束よ?」
カチャンと鍵がかかる音が聞こえる。俊彦は軽く頷いた。だが、どうしても気になることがあって、俊輔は鉄格子の向こう側にいる彰に声をかけた。
「彰、何を考えている?」
こんなことがばれればただではすまない。その危険を冒すだけの理由が彼女にあるとは思えなかった。彼女が九我家にそれだけの思い入れがあるとも思えない。
「私が助けるのは1度だけ。2度目はないよ。……あなたたちには大した恩はないけど、あなた達のお義父様には世話になってるからね。息子を1度だけ助ける。私ができるたった一つだけの恩返しよ」
「ということは、徹や俊彦は?」
「助けるのは3人に対して一回だけ。後は知らないわ」
ようは、俊輔だけだと言いたいらしい。何を考えているのかさっぱり分からない。だが、深く追求する事はやめておくことにした。へそを曲げられて、再び拘束されたらたまったものではない。
美琴と美冬が入院している病院の外は目を見張る程の快晴だ。今日という転機の時にふさわしい。彰は大きく息をついた。嫌な汗が手のひらを濡らしている。その足で向かうのは彼女が住む家ではなく、神家が管理している土地の一角にある山。一歩進むごとに確実に薄暗くなっていく。世界から隔絶されているかのよな錯覚さえ感じた。自分が草を踏み締める音が響いてくる。自分が向かっている場所がどこなのか、何となくわかった。道を覚えているわけではないのに、まるで呼ばれているかのように一点に向かって歩いていく。
深い、深い山の奥に1本の大きな木があった。その周りには他に木が立っておらず、そこだけがぽっかりと開いた空間になっている。
その巨木に向かって彰は手を合わせた。目を瞑ると、瞼の奥に豪快に笑う男性の姿が映っては消えていく。
「おじさん、約束通り、1度だけ、俊輔を助けたよ」
ふっと彰が軽く笑った。たった一度だけ。俊輔を助けてほしい、と頼まれたのは真っ白い病室の中でだった。後、どのくらい生きられるかわからないと告げられたその日、彼は彰に頭を下げた。いつも豪快で、勝手に命令をして人を巻き込んでいく彼が、たった1度だけ見せた弱みだったように思う。
なぜ俊輔だけなのか、という問いにも、なぜ一度だけなのか、という問いにも彼は答えてはくれなかった。いつだって、彼が彰の質問に答えてくれた事はない。もしかしたら彼はこんな日が来ることを予測していたのかもしれない。これが許されない行為だということは知っている。それでも彰は、恩人である彼の頼みを聞いた。どんな無茶な状況であったとしても、1度だけ俊輔を助ける、という頼みを。
彰の口から静かなメロディーが溢れる。彰が、あの日、彼が亡くなったあの日に作った曲。彼を送るためだけに作ったその曲を人前で歌う日は来ない。それどころか、彰が歌うのは今日で最後。
歌い終わった時、ふっと身体の力が抜けた。あの人が本当に逝ってしまったような気がして、初めてきちんと送り出せたような気がして、彰はその場に座り込んだ。彼女の目に、涙が浮かぶ。大の大人が、それも40を過ぎた大人が泣くなんて、人に見せられる姿ではない。でも、ここには誰もいない。誰も来ない。だからこそ、思う存分泣くことができる。
その日、高野彰は姿を消した。どこに行ったのか、何をしているのか、誰も知らない。有名人の失踪に世間はしばらくの間騒然としていた。




