1 消えた容疑者
美琴はかばんの中に入っている、ずっしりと重い物体に重々しいため息をついた。これは、美琴の仕業だとわかったらただじゃすまないだろう。逃げ切れるだろうか、と不安には思うが、やるしかない。
《美冬、行くよ》
《了解》
緊張した声が返ってくると同時に美琴はかばんの中に入っていた物体を取り出して次々に放り投げた。一条家の前に大小様々な爆竹がはじける。騒然となったと同時に家の方からバタバタと駆け出してくる音が聞こえ、美琴はあわててその場から離れた。運動が得意というわけではないが逃げ切らなければならない。その間、走りながら爆竹をばらまくのを止めない。この辺りは民家が少ない代わりに、騒ぎが起こった時、事態の収束に乗り出すのは神家にかかわりのある人間だけだ。それゆえに、次々に騒ぎを起こせば神家の守りが手薄になる……はずだった。
《美琴、ありがとう。入ったから、いいよ》
聞こえてきた声に小さく頷き、美琴は最後の爆竹をばらまくと、今度こそ神家の前から逃げた。できるだけ遠くに逃げたところで、その場に座り込む。
暑苦しいウィッグと、黒いパーカーをかばんに詰める。温かいこの時期にさっきの恰好は目立つはずだ、が、今の恰好であれば容易に溶け込めるだろう。現に今この公園には似たような格好の若者が結構いる。
ふーーっとため息をついた美琴の頭上に影が差す。美冬が来たにしてはあまりに早すぎる。やはり適当な計画は簡単にばれてしまうのだろうか。
クイッと顔をあげた美琴は見覚えのない男の顔を見上げ、軽く首をかしげた。
「……久しぶりだな、宮乃原美冬」
ニヤリ、と嗤った男の手が伸びてきて、美琴の腕をつかんだ。とっさに身体を引いたが、既に強い力で掴まれていて動くことができない。
男が、ニヤリと笑った。その顔を最後に美琴の意識は闇に吸いこまれていった。何が起こったのか、理解する暇さえなかった。
一条家に忍び込んでまず思ったのは成功したという事実に対する不信感だった。美琴と共にたてた計画は、「美琴が外で騒ぎを起こして、それに乗じて美冬が忍び込む」というものだ。失敗は覚悟の上だった。というより、失敗するだろうと思っていた。そんな適当な計画で忍び込めるような場所ではないはずだ。だが、何の手ごたえもなくすんなりと入りこめた。それ自体が罠なのでは……?と思いたくなるほどのあっけなさだった。
「ありえない、仮にも天皇家なのに……」
現状、天皇も皇太子もここにはいない。天皇はかつての首都、東京にいるはずだし、皇太子は外交で忙しいはずだ。だからといって彼らの実家に美冬みたいなただの女子高生が簡単に入りこめるはずがない。というより、美冬たちが簡単に入りこめる天皇家なんてテロのいい餌食だろう。
しきりに首をかしげつつ適当な方向に歩く。できる限り物陰に隠れるようにしながら夏樹がいる場所を探した。入った後は適当に歩き回って探すという誰が聞いても呆れるほどの無計画さだ。いっそ捕まえてほしいとさえ思っていた。そうすれば夏樹に会えるかもしれない、と。事実どちらが捕まっても2人の目的は変わらない。
グイッと腕を引っ張られ後ろに倒れこむ。慌てて体制を立て直そうとした美冬の頭上から呆れたようなため息が聞こえた。
「誰が入ったかと思えば……こんなところで何をしている、宮乃原美冬」
覗き込んできた一条夏樹の顔に思わず悲鳴をあげそうになった。捕まえてほしいと思ってはいたが、まさか夏樹本人が出てくるなんて夢にも思っていなかった。
「この、くそ忙しい時に」
ちっと舌打ちした夏樹の顔がひどく歪んでいる。よほどイライラしているのだろう。そして、美冬はとんでもない時に入りこんでしまったらしい。
「外の騒ぎも君か?」
「……美琴が」
「まあ、いい。ここで何をしている?」
「あなたに、お願いがあって」
ちらり、とこちらを見た夏樹の顔から感情を読み取ることはできない。ただ、ものすごく腹を立てていることだけはわかった。
「今は君に構っている暇はない」
夏樹は美冬の腕を乱暴に掴み、近くにいる男に預けた。そういえば、ひどく屋敷中が騒がしい気がする。美琴たちの起こした騒ぎとは関係なしに、何かとんでもない事態が起こっているのかもしれない。
夏樹が耳打ちすると男はあからさまに驚いた表情を浮かべた。
「よろしいのですか?」
「構わない。ただし、外から鍵をかけて出られないようにしておけ」
夏樹に美冬を引き渡された男は、夏樹とは異なり丁寧な動作で美冬を引っ張って行った。男に連れられて来たのはひと際大きな屋敷だ。たぶん、夏樹達が住まう場所だろう。何を考えているのかさっぱりわからないが。
「あの、何かあったんですか?」
「あなたには関わりのないことです。夏樹様が戻られるまでこちらでお待ち下さい」
男は美冬を部屋の中に放り込むと美冬の返事を待たずに部屋を出て行った。そこはシンプルな部屋だった。ただ、置いてある調度品の全てが高級品であることが美冬にもわかる。
「ここ……何?」
少なくとも、牢屋ではないだろう。こんな牢屋なんてありえない。
冷たい水の感触に美琴はバッと飛び起きた。それと同時に地面が大きく揺れる。
「落ちるつもりか?」
冷たい、冷めた声が耳を打つ。見覚えのない男が美琴を見ていた。たぶん美琴が知らない相手なのだろう。彼は美冬の名前を呼んでいた。美琴の存在を知らない可能性もある。
その男の後ろには広大な海が広がっている。美琴は小さなボートに乗せられているみたいだ。ぐらぐらと揺れる感触が嫌だ。5歳の時に溺れてから、美琴にとっても美冬にとっても水は恐怖の対象で、水泳の授業なんて受けたことがなかった。当然、泳げない。今落ちたらひとたまりもないだろう。
「あなた、誰?」
できるだけ男から離れようと身体をのけぞらせたが、元々狭いボートの上。たいして距離を取ることができなかった。男もそれがわかっているのか、美琴が多少動いても気にも留めない。
「九我俊輔」
告げられた名に大きく目を見開く。今回の神家の能力者一斉誘拐事件(命名、美冬)の犯人の一人。それも首謀者の名前が九我俊輔だ。表向き久崎を名乗っている、俊彦の兄。彼らは強い警戒態勢の中、精霊使いとしての力を封じられて神家に囚われていると聞いている。
「九……九我……俊輔は……捕まっているはずよ」
「そこから抜け出すことなど造作もない。日本中の精霊を狂わす計画は失敗に終わったが、今度は成功させる。……これだけ大きな海の中で水の精霊王の力が暴走したらどうなるであろうな」
くつくつくつと笑う表情にぞっとした。そして、彼が告げた言葉にも震えあがる。こんなところで力の暴走なんて冗談じゃない。海の中だが、すぐ傍に岸が見えるし、その向こうには人の住む町がある。こんなところでウンディーネの力の暴走なんて冗談じゃない。
「暴走なんて、させない」
ふんっと俊輔が鼻で笑う。今の美琴たちに暴走を止めるすべなんてないことを彼は知っている。たしかに、美琴にも美冬にもそんな力はない。だが、方法がないわけではない。暴走するまえに水の精霊王との契約を解除すればいい。
《美冬》
俊輔を睨みつけながら美冬を呼ぶ。彼が精霊と契約をしていてもこの力は、美琴と美冬だけのものだ。感知されるはずもない。由良の話ではおそらく2人の間をつないでいるのは共に契約をしているウンディーネだという話だ。もしそれが真実ならば、2人が会話をできることさえこの男は気付いていないはずだ。
《美琴。ごめん、捕まっちゃった》
あっけらかんと返ってきた声に、当初の予定通りに事が運んでいることがわかった。まったくの焦りが見えない雰囲気から、牢屋にも入れられてはいないのだろう。
《美冬、ごめん、私も捕まった……九我俊輔に》
告げると同時に俊輔の顔を睨みつける。目に焼き付けることで美冬の意識に俊輔の顔を送ることができる。
軽く息を呑む音が頭に響いた。
《……あの男よ。なんで、捕まってるはず……一条夏樹様が、今は私に構っている暇はない、と。脱走したから?》
《……美冬。ごめん》
《美琴、何を考えているの?》
緊張した声音の美冬には美琴の考えが手に取るようにわかるのだろう。そして、美琴もまた美冬の答えがわかった。
《……私、日本に大切な人ができた》
頭に浮かぶのはたった一人の人。そして、美冬や美琴を助けるために奔走してくれた人たち。嫌な人も、嫌いな人もたくさんいたけど、優しくて、いい人もたくさんいることを今の美琴は知っている。少し前だったら、こんな国どうなろうと知ったことではないと思っていたが、今は、どうしても見捨てる気になれない。
《……私も。神家の人たちとか、先生とか、他にも大切な人がいる。少ないけど、守りたい人たちが。……美琴、合図を出すから》
にやりと笑ってこちらを見る俊輔に焦る様子はない。計画の成功を信じて疑っていないのだろう。だからこそ、チャンスは今しかない。
《一、二の三》
美冬の声が頭に響くとほぼ同時に美琴は俊輔の傍に置いてあるかばんを手にとって海の中に飛び込んだ。
「あ…待て……」
予想外の行動に驚いたように腰を浮かせた俊輔の顔が目に映るが、美琴はその時にはすでにかばんから取り出したナイフを心臓に振りおろしていた。
鋭い痛みが身体を走る。できればすぐに消えてくれることを願う。そして、美冬とタイミングがずれていないことを。
痛みと息のできない息苦しさを感じる。既に水の中に入ったはずなのに、冷たい温度を感じることはなかった。




