4 オペラ歌手 高杉彰
「お姉ちゃん?」
トイレに行って戻ってきた美琴は病室の前に立つパジャマ姿の女性に軽く目を瞬いた。尊から姉の美夏も見つかったと聞いていた。少し衰弱していたためにしばらく入院するということも聞いていたが、あの事件以来初めて会う。
ぼんやりと佇んでいた姉が振り向くと美琴は軽く息を呑んだ。いつも俊彦の傍で幸せそうに笑っていた姉の顔に憔悴しきった表情が浮かんでいた。目を開けて、起きているはずなのに生きているように見えないその様子はぞっとするものがある。
「美琴……俊彦、知らない?」
ガシッと腕を掴まれる。予想外の強い力に思わずひるむ。この細い身体のどこにこれだけの力があるのだろう。
「し……知らない……」
そう答えるのがやっとだった。俊彦は今、刑務所にいる。それも特殊刑務所に。家族でさえ面会するのが難しい状況下の中で、美夏が会えるとは思えなかった。それに、二度と会えないのなら、せめて何も知らないままの方が幸せのような気もした。
「どこ……行っちゃったのかな……」
ポツリ、と呟いた美夏の問いに答えられない。何も、言えない。
「お姉ちゃん、もしわかったら教えるから……だから……病室に戻った方がいいよ。私たちのところに来てるのがわかったらあの人たち、許さないよ」
強い力で掴んでくる手を何とか引き剥がした美琴の言葉に美夏がのろのろと頷く。あまりに力ない様子にどうすればいいのかわからなくなった。黙っているのがいいことなのか、それとも全て話してあげるべきなのか。
ただ、話すにせよ、だますにせよ、全ては美琴が決められる事ではない。
「ごめん、ありがとう」
弱々しい笑みは、美夏が初めて見せる表情だったような気がする。いつも、申し訳なさそうな、どこか後ろめたそうな表情を浮かべている美夏は、美琴たちの前でそれ以外の表情を浮かべたことなんてなかったのに。美琴や美冬に弱いところを見せないというのは美夏が決めていた事だったし、それを破ったのは今回が初めてだった。俊彦が目の前から消えた事は美琴達が思う以上に美夏の心をむしばんでいるのだろう。
ふらふらとした足取りで去っていく美夏に声をかけることはできない。かけたとしても、言えることは何もない。
「どこ行ってたの?」
病室に入るなり聞こえてきた女性の声にビクリ、と肩を震わせる。だが、すぐに見知った声だと知って肩の力を抜いた。病室の窓によりかかってこちらを見ている女性、高野彰は男性的な名前には似合わず、とても綺麗な人だ。40歳は過ぎていると聞いているが、いつ見てもとても若く見える。30代前半か、下手したら20代にさえ見えるかもしれない。オペラ歌手として人前に出ることが多いからなのか、彼女は何年たっても変わらないのではないかとさえ思わされた。永遠に今の姿のままのような気さえした。先祖がえり、顔まけだ。
「高野先生、いらっしゃっていたんですか?事前に連絡をくだされば良かったのに」
「連絡取る方法がなかったのよ。病院だから携帯電話は繋がらないでしょう?病院の方に直接連絡を取る方法もなくはないけれど、そんなことをしたら病院からあなたたちのご両親に連絡が行ってしまうかもしれないじゃない」
彰が軽く顔をしかめる。彼女はほとんど会ったことがない美琴たちの両親が死ぬほど嫌いなのだ。絶対に会いたくないと言い切るほどに。
彰は美冬に声楽を教えてくれているし、その事実を両親も知っているにも関わらず会ったことがないというのもかなり異常な状況だろう。
「……いつからいらしてたんですか?」
「ほんの10分ほど前よ。寝ている美冬はともかく、あなたも入院中でしょう?動き回っていていいの?」
呆れたような咎めるような口調に美琴は力なく笑った。
「明日退院することが決まっているんですから、問題ないですよ」
事実、既に身体のだるさもなく、具合悪くなることもない。ただ、暇なせいか何となく寝ている時間が多いだけだ。それでも美琴は本を読んだりしているし、美冬もふらーーっと姿を消すことが多々ある。しょっちゅう消えるために看護士さんたちに目をつけられているほどだ。
「そう。明日、なの……」
遠くを見ているかのような瞳で呟いた彰はまるで消えてしまいそうなほど弱々しく感じた。
「美冬が起きたら、伝えておいてくれる?練習、サボらないでねって」
スッと美琴の方を見た目はいつもと同じ力強い光が宿っている。さっき一瞬だけ見せたはかない雰囲気は跡形もなく消えていた。まるで、見間違えだったかのように。
「会って、行かないんですか?」
「……今日はやめておくわ。それじゃあ、またね美琴ちゃん」
病室から出ていく彰の姿がかすんで見えたような気がして目を瞬く。何となく、二度と会えないような、そんな予感がした。元々美琴は然程たくさん顔を合わせていたわけではないが、それでも美琴や美冬にとって信じられる数少ない人間なのだ。消えてほしくない、と思う。
そもそも、消えてしまいそうというのも美琴の主観でしかない。本当にいなくなるはずがない。
「美冬、なんで会わなかったの?」
ベッドの上で目を瞑っている美冬の顔を覗き込む。美琴が戻って来た時から美冬が起きていたことは知っている。起きていて、それなのに寝たふりを続けた理由がわからない。
「何となく、今は会いたくなかったから。……美琴、巻き込んで、ごめん」
神妙な様子の美冬の言葉に美琴は軽く首を振った。断ることだってできるのに、その頼みを聞いたのは美琴の意思だ。巻き込まれるのではない。自ら飛び込むのだ。
美琴と美冬は明日、一条夏樹に会いに行く。




