10 久我家の先祖がえり
夏樹が由良の元を訪れたちょうどそのころ、久崎俊彦は大きな病院の一室にいた。知り合いの医者に頼みこんで美夏を見てもらったのだ。衰弱はしているが命に別状はない、という言葉にほっと息をついた。
「俊……彦……。あの子、達……は?無事?」
ぼんやりと目を開け、未だ朦朧としている美夏が口にした言葉に俊彦はビクリ、と肩を震わせた。
「あの人たち……美琴や美冬に辛くあたってない、かな?今度こそ、守らないと……」
俊彦を認識していたはずの目が再び閉じられる。寝ぼけていたのかもしれない。そんなときにさえ美夏が口にするのは2人の妹の事だった。それは、美夏があの子たちを大切にしている、というだけではなく、昔の負い目も関係があるのだろう。
あの2人が親に迫害され、傷つけられるのが当然だと思っていた美夏。その思考を疑問にさえ思っていなかった彼女を叱り飛ばしたのは俊彦だった。あの二人だって、人間なんだ、と散々怒鳴りつけたのを覚えている。そうやって適当に助けた2人を今度は俊彦が奈落の底に突き落とした。
「お前は、知ったら怒るんだろうな」
自嘲したような笑みを顔に刻む。自分と同じような制約を、そして自分よりももっと苦しく過酷な運命を生きてきた祖父の顔が脳裏に浮かんだ。
「じいさん、あんただったら、どうした?」
ポツリ、と呟いた俊彦の脳裏に未だ若さを保ちながら、それでも老成した雰囲気を持つ祖父の顔が浮かんだ。
あれは、いつだっただろう。はっきりと覚えてはいないが、たしか精霊と契約をしたすぐ後だったと思う。一度はできなかった契約を許されて喜んでいた俊彦の思いが一瞬で地の底に叩きつけられた。
「……なに……それ……」
祖父の言った言葉をすぐには理解できなかった。否、理解したくなかった。理解してしまえば、当たり前だと信じていた日常が一瞬で崩れてしまうような気さえしたのだ。
「嘘でも冗談でもない。お前は先祖がえりだ。そして、精霊と契約をした以上、お前は神隠しにあうこともなく、この場所で永遠の時を生き続けることになる」
決して年をとらない先祖がえり。神隠しは残された人間にとっては絶望でも、先祖がえりにとっては唯一の希望だった。年をとらない化け物はいずれこの世界でまともに生きていくことなどできなくなる。幼かった俊彦にも、そうやって隠れて生きていかなければならない絶望はわかる。息子たちや妻の成長や老化に耐えきれずに山に籠ってしまった由良を見ているからこそ、余計にそれを知っていた。その時から、誰かの心に強く残る事も、誰かを強く想うこともあきらめた。それなのに、出会ってしまった。たった1人、一生かけても愛し続けたいと思う人に。
「俊彦、一つだけ覚えておくんだ。精霊の力はこの国を、そして人を守るためにある。決して逆の使い方をしてはいけない。……時には大切なものを見捨てても、何かを切り捨てても、守らなければならないものが出てくるかもしれない。その時は、泣いても、傷ついても、誰かのために力を使いなさい。そうすることだけが、俺たちが生きていける唯一の道なんだ」
俊彦バッと立ち上がった。今、ここでこの言葉を思い出したことが祖父の答えのような気がした。たとえ、大切なものを失おうとも、何かを守るために立ち上がらなければいけない時、それが今なのだ。……兄を失うことになっても、精霊使いとして、神の末端に籍を連ねる先祖がえりとして、この国を守らなければならない時。そして、この国を守らなければ、美夏を失うことにだってなりかねない。
「美夏、ごめんな。守るよ、全部。たとえ二度とお前と会えなくなったとしても」
そっと美夏の唇に口づけを落とし、俊彦は病室を飛び出した。一刻も早くあの場所に戻らなければいけない。
「廊下は走らない」
すれ違った看護士が振り向いた……が、彼女の目に俊彦は映らなかった。そこにはいつもと変わらない病院の廊下が続いているだけだ。
「兄さん」
バンッと大きな音を立てて飛び込んできた俊彦に徹と俊輔はぽかんと振り向いた。そんな2人を見るとひるんでしまう。何も考えないで、全て運命に委ねてしまいたくなる。でも、今彼らを止められるのは俊彦だけなのだ。俊彦だけがいつでも止めることができた。それなのに、「やめて」と強く口にすることさえできなかった。そんな覚悟のなさが、弱さが今回の事態を招いた。
「俊彦……?何をしに来た?もう恋人は返しただろう?」
スッと冷たい視線に思わずひるみそうになった。兄が何のために俊彦を巻き込もうとしているのか、はっきりしたところはわからないが、おそらくは最後の時、決して無関係を通せないように、だと思っている。兄、特に俊輔にとって兄弟や家族は道具でしかないのだから。
「兄さん、もう、終わりに……」
異変が起こったのはその時だった。真っ先にその異変に気がついたのはこの中で最も探知能力に優れている徹だ。次いで俊彦や俊輔にも異変の正体がわかった。
強い、それでいて嫌な雰囲気ではない力が溢れてくる。彼らは同時に床に目をやった。正確には床下に広がっている地下牢に、だが。そこから強い力が溢れてくる。
「徹、ここまでの強い力を持つ能力者がいたか?」
「いなかったはずだ。……強いて言うなら宮乃原美冬かな?彼女だけは力があることが分かってはいたけど、どれほどのものかわからなかったから」
「ふーん、これだけあれば1人でも事足りるな。少し早いが実行しよう」
ククク、と喉の奥で笑った俊輔の姿に俊彦はビクリと震えた。元々人間味の薄い人間だった。人として大切なものをどこかに落としてきたかのようだ。祖父はよく、祖母や自分がそんなあの子を作ってしまったと嘆いていたが、兄が結婚し、子供が生まれた時には本当に喜んでいた。これで俊輔も少しは人として大切なものを手に入れてくれるのではないだろうか、と願ってさえいた。だが、兄の嫁は兄のそんな性質に気づくことさえなかった。それでも、兄は人間なのだと思っていた。今、このときまでは。
だが、今の兄はどうしても人には見えない。兄は、この世界が、多くの人間が滅ぶ事が楽しくて仕方がないのだと、その表情で語っている。
兄が今回の事を起こした動機は「祖父や祖母を追い出した神家への復讐」なのだと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
「兄貴……?」
ポツリ、と呟いた徹の表情も蒼白になっている。俊輔とは異なり、本気で祖母や祖父を慕っていた徹の目的は純粋に復讐だ。その復讐に日本全土を、否、下手したら世界中の人間を巻き込むことに多少の躊躇もあったはずだ。それを説き伏せたのは俊輔だった。俊輔の事も慕っていた徹は彼に従ってはいる、が、決して国を滅ぼすことを楽しんでいるわけではない。
「さぁ、楽しいゲームの始まりだ」
楽しげに、くつくつと笑う俊輔は既に俊彦や徹の事が目に入っていないようだった。地下に続く階段に進む俊輔を止めなければいけない。それはわかっているのに、俊彦も、そして徹もまるで金縛りにあったかのようにその場から動くことができなかった。
「兄さん、俊輔兄は俺たちごと滅ぼすつもりなんじゃ……」
今まで考えたことさえなかった。いや、もしかしたら気付いていたが考えないようにしてきたのかもしれない。だが、誰が考えても明白ではないか。日本が、世界が滅んだあとに生きていけるだけの力なんて俊彦たちにはない。俊輔は、そんなことは承知済みのはずだ。
「……止めないと……。兄貴、今すぐ実行するつもりだ」
徹が震える手で示した先では、ついさっきまであったものが消えていた。
「徹兄。……実行したら、止められる?」
「無理だ。俺は、止めることを考えてなかった。神家だけが、滅べばそれでよかったんだ。そして、他の人間は巻き込まれる可能性を考えはした、が、兄貴が俺たちだけは守ってくれる、と思ってた」
自分勝手な思考。許されることではない。もちろんそれは徹だけではなく俊彦も。自分たち以外が、そして、約束をした美夏以外の人間が滅ぶ可能性を多少なりとも考えていながらそれを無視した。自分たちのために。今の状況が、その罪によるものならば、俊輔の事は俊彦たちが止めなければならない。それが、俊彦たちが犯した罪を償う唯一の方法だ。たとえ無理であったとしても、その方法を考えなければならない。




