9 溢れてくる力
「……原、美琴!!」
耳元に響いてきた大声に美琴はビクリッと肩を震わせた。強い力で体を揺すられている。目の前に心配そうな表情を浮かべた尊がいる。動転するあまり、無意味なことをずっとつぶやいていたような気がする。言葉にさえならない、その声が未だに耳の奥に残っているような気さえした。
「宮乃原、何があった?落ち着いて話して」
ゆっくりとしたテンポの口調に美琴は落ち着いていくのがわかった。小さく息をつく。力の入らなかった体に再び力がこもる。
落ち着け、落ち着け、と何度も心に唱えた。今焦れば事態は余計に悪化する。碌な事にならない。
「……美冬が、いないんです」
「今日は遅くなる、というだけじゃないのか?」
「帰って来た様子もないし……、美冬の気配が……」
美琴はいったん口をつぐんだ。この事実を誰かに話したことはない。姉や両親でさえ知らない事実。その事実が彼の目にどう映るのか、それが怖かった。
尊は口をはさまずに、静かに美琴の言葉を待っている。その力強い目は、絶対に美琴を裏切らないような気がして、おずおずと口を開く。
「私……美冬と会話ができるんです。テレパシーで」
「……呼びかけたのに答えない、か?」
一瞬目を見張った尊はすぐにその表情を消し、考え込んでいるかのような真剣な面持ちで問いかけてくる。余計な事を聞かないでくれるのがとてもありがたかった。
「はい。何度呼びかけても……何も。それに、今までは遠くにいても何となく美冬の気配?を感じることができたんです。でも、今は……」
「それすらもない、と?」
「はい」
「……宮乃原、落ち着いてもう一度妹さんの事を考えて。今、どこにいるのか、何があるのか。呼びかけるのではなく感じてみて。……落ち着けばかすかなものであったとしても見つけられるかもしれない」
噛んで含めるような言葉に美琴は大きく深呼吸をした。どうか、美冬の元に。美冬の居場所を教えてほしい。
誰に祈っているかもわからないまま、美琴は強い思いを込めて彼女の事を思った。
パーーン、頭の片隅で何かがはじけ飛ぶ。記憶の渦がグルグルと駆け巡った。
苦しい、苦しい、助けて。
息もできない苦しみに美琴は懸命にもがいた。小さな手を海面に向けて伸ばす。だが、どこまでも続く水が美琴の体を呑みこんでいく。
何かが手に触れた。それが美冬の手であると、すぐにわかった。いつも隣に、片隅にある手の感触にほっとすると同時に焦った。美琴だけじゃなく、美冬までこの苦しみの中にいる。そんなのは、嫌だ。
《どちらかを一方を助けてやろう。そなたか、妹か、好きな方を選べ》
耳に直接響いてきた声が誰のものなのか考えることさえできない。苦しくて、苦しくて、でも願うのはいつだって一つ。半身であり、大切なもの。彼女を失うくらいなら自分なんていらない。
美冬、美冬、美冬………
意識が暗転していく時、美琴の体がふわり、と浮き上がった。だが、それが何なのか、美琴にはわからない。
尊は目の前の光景に目を見張った。今、自分が見ているものが信じられない。美琴の体が光を帯びている。内側から何かがあふれ出てきているようだ。
徐々に強くなる光に尊はぞっとした。何か、嫌な予感がする。これはまさか精霊の力が暴走しているのだろうか。もし、そうだとすると尊には止められない。美琴の力は彼のものを遥にしのぐ。
だが、ここで手をこまねいて見ているわけにはいかない。このままでは、美琴の力は暴走し、この場所にどんな被害をもたらすのかさえ分からない。
尊はあわてて美琴の肩をつかんだ。美琴の目を覗き込む。自分の精霊の力を美琴の中に注ぎ込み、暴走を抑える。それはとても難しくて簡単にできることではない。
この方法は、精霊と契約したばかりの子供の暴走を抑えるときによく使う。契約が普通の精霊の卵であれば親で十分だ。よほどの事がない限り親の力の方が強い。彼女が精霊との契約を果たしたのがいつなのかは分からないが、問題は彼女の中にいる精霊だ。今まで力を使っていなかったのだから普通に考えれば弱い、が、相手がウンディーネであるならば話は別だ。下手をしたら尊も呑み込まれてもっと大きな惨事を引き起こす可能性もある。
それでも、やらなければいけない。
尊は意を決すると、目に自分の精霊の力を集め、美琴の目をまっすぐと見つめる。強い力を彼女の中に注ぎ込み、相殺しようとした。
尊の持つ限界の力を遥にしのぐ圧力を感じる。鋭い目の痛みに悲鳴を上げそうになる。逃げるわけにはいかない。尊はたとえ末端であったとしても神家に関わるもの。自分の意思で、本来なら許されない精霊と契約をしてしまった。その罪をすすぐためにも、そして、美琴を見つけてしまった責任をとるためにも、今ここで止めなければならない。
頭が割れそうに痛い。体が壊れそうだ。自分の中の精霊が、莉炎の悲鳴が頭の奥に響いてくる。
《おね……がい……。がんばって……》
莉炎に語りかけるのと、体が後ろに惹かれるのはほぼ同時だった。圧力が弱まったのに、自分の体を襲う痛みも、苦しみも消えない。
*** 精霊の暴走 ***
「別荘……ですか?」
告げられた言葉に夏樹はぱちくりと目を瞬いた。九我家に別荘があるなんて聞いたことがない。そもそも見逃していたとはいえ逃亡者一族にそれだけの大きなものが存在するとは思ってもいなかった。
「元々は夢実が持っていたものだったんだ。私も、彼女も結局神家のお情けで生きていたようなものだからね。元々はそこにいた。といっても、そこで暮らしたのはほんの二、三年だけで、後はほとんど足を踏み入れてはいない。ただ、夢実は晩年をそこで過ごしていたらしいから孫たちはその存在も場所も知っている」
「そこに……他の精霊使いたちも?」
一縷の望みをかけた問いかけに対して由良は軽く首を振った。申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「ウンディーネに呑まれてわからない。……急いだ方が……」
由良の言葉が不自然に途切れた。夏樹にもその理由はすぐにわかった。強い、強い力の奔流を感じた。二つの力がぶつかり合っている。暴走を止めようとしているのだろう。それ自体はよくある光景だ……が、この力は……
「ウンディーネ……?」
夏樹にも感じるほどの強い力は由良が告げていたのとは別の場所から響いてくる。そして、ウンディーネの暴走を止めようとしている力の方が明らかに弱い。
「……まずい、な。夏樹、二手に分かれよう。夏樹は別荘の方へ。あっちは私が止める」
すっと一瞬で由良の姿が消える。精霊を使った瞬間移動は難しいものではない。だが、それには準備が必要であり、多少の時間がかかる。もちろん普通の手段を使うよりはよほど早く着くだろうが。それを止める間もなく発動した由良の力の強さに夏樹は恐怖さえ感じた。由良が敵でなくてよかった、と心から思う。
「夏樹様」
由良と入れ違いに招集をかけていた人々が集い始めた。残っている能力者数名と力はないが精霊の存在を知っている神家の人間、そして同じく力はなくとも精霊の存在を知る警察特殊部隊の部下たち。総勢二、三十人ほどであろうか。
「夏樹様。あれは放っておいても?」
一人がウンディーネの力を感じる方に視線を飛ばす。これだけの力だ、少しでも力のある人間であればこの力の存在に気づくだろう。
「……あちらには一人送った。私よりよほど力のある人間だ。気にする必要はない。……それより、今は集中してくれ」
「……居場所が分かった、とは?」
「九我家の生き残りが持つ別宅だ。……手をつないで、何も考えずに力だけを私に預けろ」
今の状況でこれが一番早く到達する道だ。誰一人疑問をはさむことなく輪となり力を放出する。力のない人間は能力者に挟まれて手をつないだ。その全ての人間の力を集め、一つにし、移動魔法に変換するのが夏樹の役目だ。
強い力がはじけ、光が夏樹たちを取り巻く。その光はただ人には見えない、でも能力者の目を焼くほどの強い光の渦だった。




