8 目覚め
森の入口付近に自分ではない、何か別の気配を感じてぼんやりと目を開いた。頭がくらくらする。さすがに眠っていすぎたのかもしれない。だが、たった一人、誰もいないこの森の中で眠り続けていなければ正気を保つことさえできなかっただろう。それだけ由良を取り囲む孤独は恐ろしい。何度も、何度も自らの命を絶つことを望んだ。そのたびに、夢実やシルフに止められた。
この森に籠ってもう、80年は経っている。共に生きることを望んでくれた夢実や彼女との間にできた子供たち。そのそばにいられることが幸せであった時間は短かった。自分だけが成長せず、夢実や息子たちが成長する様を見続けるのは辛いことだった。変わらないが故にひとところにとどまることもできず、最後にいた町では夢実と夫婦に見られることさえなかった。
この森に来てから、真面目に起きていたのは初めの10年ほどだった。それからは、長い時間を眠って過ごしている。時折遊びに来る息子や孫がいるときだけが起きている時になってさえいた。
電子カレンダーへと目を移す。精霊の力を使い動かしている万年カレンダー。その年数は最後に目を覚ましてから二年経過していることを教えてくれた。2年間も眠っていたのは初めてで、少し驚いた。もっともここに来る回数が多かった俊彦でさえ、2年も来てくれなかったらしい。その理由は何となくわかるが。
「じーさん、俺、好きなやつができたんだ。……あいつと生きる未来はもうあきらめてるけど、でも、少しでも長く、あいつの傍にいたい」
自分たちの罪を何の咎もない孫までも背負うことになった事を初めて本気で痛感した瞬間だった。
トントントン
扉が静かにノックされる音で、由良は回想を打ち切った。ここにいるのは孫のだれかではない、が強い精霊の気配を感じる。おそらく自分と同じように精霊王との契約を交わした者だろう。
「どうぞ」
静かに声を出せば、彼はゆっくりと部屋の中に入ってくる。そして、一度だけまみえたことのある彼がそっと床に膝をついた。最敬礼に似た形の礼に、由良の方が驚く。日本で最も尊い血筋の彼らが、由良に示す態度はいつだって不可解だ。由良の父が、そして、由良が起こした事件のことを彼らが責めることさえなかった。それは、いつだって不思議な光景だった。
「……一条、夏樹……だったかな?何か用?」
一度のあいさつ以来、ここに足を運ぶことさえなかった夏樹の登場にとてつもなく嫌な予感を感じる。
この場所に来たのは2度目だ。1度目は数年前、父に連れられて来た。100年前の事件の生き証人であり、唯一の生き残りだと聞かされていたから目の前に現れるのは今にも死にそうな(言い方は悪いが)、ご老人を想定していた。だが、予想外にその人は自分とほとんど年が変わらないように見えた。その時初めて彼が先祖がえりであることを知った。同時にぞっとしたのを覚えている。自分だけが年を取らず、若いままなのに、愛した人たちはみんな少しずつ年をとり、いずれ自分を置いて死んでいく。だからこそ先祖がえりは神隠しにあうのだ。神々の世界に連れて行かれる。その世界がどこにあるのか、どういう場所なのかは知らないが、そういう場所の存在だけは神家に伝わっている。
その神の世界に行くためには精霊との契約は絶対にあってはならないこと。それゆえにどんなに心地よく、強い力を持っていようと精霊王は、先祖がえりとの契約を認めない。それなのに、そんな彼らの思いを無視して無理やり精霊王を付けた当時の九我家当主に怒りさえ感じた。この人は100年という時をどういう想いで生きてきたのだろう。そして、これから永遠に続く終わりない一生をどんな想いで生きていくのだろう。たった1人でいなければならない孤独を、夏樹には想像することさえできない。それゆえに、恐ろしく、ぞっとする。
「突然の来訪、お詫びいたします」
今回は来訪の意を伝えることさえできなかった。そんな時間はない。行方不明者が増え、精霊の動きがおかしくなっている。今は然程大きな問題は起こっていないが、いつ、どんな問題が起こるのかさえ分からない。そして、起きた時、この国を守りきる自信が夏樹にはない。だからこそ、何かが起こる前に犯人グループを捕まえなければならない。九我家の生き残りの存在を忘却していたせいでかなり時間的なロスをとってしまった。
「構わないよ。今、僕が自由にあるだけで不思議なんだから。それで、何か用かな?」
「今、あなたの御子息方はどこにいらっしゃいますか?」
由良が軽く目を見張る。予想外の質問だったのだろう。考え込むように眉をしかめていた由良が突然立ち上がった。その目には驚愕の色が溢れている。
「精霊の動きが……おかしい……。まさか、これをあの子たちが?」
「確証はありません。ですが、他に手掛かりがないのです」
じっと何かを考え込んでいた由良は、そっと夏樹の目の前に立つ。伸ばされた手が夏樹の首筋に触れた。その手の冷たさにぞっとした。生きている人間を相手にしているはずなのに、まるえ死体に触られているかのような気さえする。
「君の力を借りるよ。少し、我慢して」
目を見張った夏樹の体から強い力が流れていく。普通であればこんな力を他人から搾り取るなんてできるはずがない。精霊の力は精霊使い以外には扱えない。契約している精霊じゃないうえに夏樹が契約しているのは精霊王だ。いくら風の精霊王との契約者であってもそう簡単に扱える力であるはずがないのに、由良はその顔に苦痛一つ浮かべることなく夏樹の力を引き出した。
炎の精霊王と風の精霊王の力が混じり合い、力の渦が解き放たれる。
由良の手が離れてもすぐには今の状況を認識することができなかった。ぐったりと倒れこんだ夏樹を由良がそっと支える。
「無事か?」
「……今の……は……?」
「君の力を借りた。これができるのは世界中で私だけだろうがね。伊達に長く生きているわけではない、ということだ。……ただ、あの子たちはこの力を見たことがある。もし何らかの形でこれを可能にしていたら……。特に徹は精霊の力を機械に応用する方法を研究していた。これがその一例だけど」
示された時計は何の変哲もない時計にしか見えなかった。
「これは僕の精霊、シルフの力で動いてるんだ。徹が作った。こういうものを作って一族内で使っている分には問題はないけど……もし、行方不明の精霊使いの力をどこかに保存して使うことに成功していたら……」
由良の説明にぎょっと目を見張る。由良に行方不明者の話まではしていなかったはずだが。
「ああ、君の力を使った時に記憶が流れてきたんだよ。……それより、急がないとね」
「由良、様?」
「……協力をするよ」
突然の協力宣言に今度こそ仰天した。由良にとっては大切な子供や孫のはずだ。彼らを捕まえる手助けをする、というのだろうか。
「だから、あの子たちを止めてほしい。精霊の力は国を滅ぼすために使うものじゃないからね。……あの子たちの居場所は大体わかったから、今から行こうか」
「わかった、って、もう、ですか?」
「……あの子たちが捕まえた子の中にウンディーネの使い手がいるでしょう?ウンディーネの力は強いからね感知しやすかったんだ。……人を集めて向かおう。……夏樹、君に頼みがある」
ウンディーネという言葉に夏樹は小さく息を呑んだ。ウンディーネの契約者に関してはつい先ほど留衣から報告があったばかりで夏樹自身まったく把握していない。
聞きたいことはたくさんある。特にウンディーネとの契約者の存在について。だが、今はそんな時間はない。
真剣な面持ちで夏樹を見る由良に夏樹は小さく頷いた。今は、彼の協力は必要不可欠だ。そのためなら多少の無理も聞くつもりでいる。
「あの子たちが生きていくことを許してほしい。監視も、拘束も、構わない。あの子たちが子孫を残すことができなくても構わない。ただ、生きてほしい」
父として、そして祖父としての願い。その思いの深さはわかる。だが、夏樹は頷くことができなかった。夏樹が一条夏樹でなければ、この事件がここまで大ごとでなければそれも可能だっただろう。だが、それが許される状況はとうに超えている。一般人は何も知らなくても、たくさんの神家を巻き込んでしまっている。見逃すことをどの家の当主も許しはしないだろう。もし許される可能性があるとすれば……。
「約束はできません。ただ、これ以上大ごとになる前に事を納められればある程度の譲歩は認められる可能性もあります」
それが、今の夏樹に答えられる精いっぱいの返答だった。




