4 2人の少女1
「まだ、見てるのか?」
あのデートの日からまた、尊はすずらんの写真をまじまじと眺めていた。何度見ても誰なのかわからない。喉元まで出掛かっているのにわからない状況が余計に気になる。後ろに書いてある名前にも覚えはなかった。
「宮乃原美冬……」
呟いてみるも、やはり知り合いにはいない。
「どこでだったかな?」
眉を顰める尊の手から、瑠衣が写真を取り上げる。
「明日から新学期だろ?あんまり夜更かしするなよ」
「どこかで見た気がするんだ。一度気になると、気になって、気になって……」
「……本人じゃない、とか?」
余りに尊がしつこいからか、瑠衣が眉をひそめてその写真に見入る。
「どういう意味だ?」
「だから、さ。お前が知ってるの本人じゃなくて、この子に似てる誰かじゃないのか?似ているからなんとなく知っている気がする。でも本人じゃないからはっきりとわからない。人の顔を覚えるのが得意なお前がわからないとなると本人じゃない可能性のほうが高いだろ?」
確かにそうだ。尊は大抵の人間の顔はすぐに覚える。2、3回会っただけの人間でもわかるし、10年ぶりに会った人間でもわかる。たとえ物凄い変わっていたとしても、なんとなく感じるのだ。だが、本人に会ってもはっきりとわからないのは、知っているのが本人ではないから、の可能性はかなり高い。そして本人でないのなら名前も宮乃原美冬ではないだろう。
「たしかに、な。この名前は知らないし……そのうちわかるか」
「おう。だから今日は寝た方がいいんじゃないか?俺もそろそろ帰るぞ?」
「ああ、悪いな。おばさんにもお礼、言っといてくれよ」
尊は瑠衣が持ってきた弁当にチラリと視線をやる。
尊は幼い頃から両親と引き離され、瑠衣の両親に育てられた。だから尊にとっては瑠衣の両親が親のようなものだ。もちろん、実の親の事も嫌いではないが、瑠衣の家族に対するほどの情を持つ事が出来ないのも事実。そして、彼等も尊の事を瑠衣同様に自分たちの子供として扱ってくれていて、一人暮らしをはじめて三年以上たつ今でもチョクチョクと尋ねてきては何くれと世話をやいてくれる。男の一人暮らしだと料理は適当になってしまうからそれはかなりありがたい。……お使いに使われている瑠衣が不憫だと思わなくもないが。
新学期に入ってすぐの仕事は副顧問をしている文芸部の部員が書いた原稿の最終確認だ。文化祭までに部誌という形に持っていかなければならないので、今日がボーダーラインになる。一度添削した原稿を夏休み前には生徒に渡している。それを彼等が夏休み中に修正し、昨日の始業式までにデータと原稿を共に部長の手に渡しているはずだ。今後の作業の能率化のために、必ずテキスト文書を用意する決まりとなっている。家にパソコンがない生徒は夏休み中に学校に来て学校のPCルームで作業をしている。大抵の生徒は登校日や部長か副部長が学校に来る事になっている日(その日は提出日として部室に部長か副部長か顧問が来る決まりとなっていた)に提出済みで残り数人だったのだから今日は全て揃った状態で渡されるはずだ。
「先生、呼びました?」
軽いノックの音と共に30代前半くらいの女性が姿を現した。健康そうな容姿と強い眼差しは見る者を魅了する。規則やら、勉強に関してはとても厳しく、怖いと評判の先生なのに何故か生徒に人気があるのはこの雰囲気のせいだろう。
「茅野先生。もうそろそろ部長の高橋が部誌の原稿を持ってくるはずですから最終確認くらい手伝ってください」
そもそも尊は副顧問であり、実際の顧問は彼女のはずだ。何故すべての仕事を尊がこなさなければならないのだろう。
「え、何言ってるんですか、それは篠原先生の仕事でしょう?」
堂々と言ってのける茅野に唖然と目を見張る。この先生は本気だろうか?生徒にアレだけ厳しいのに先生自身がこんなんでいいのか?
「先生、それじゃあ生徒にしめしが……」
「あら、私は顧問と言っても単なるお飾り。大体文芸部の顧問が社会の先生なんて普通におかしいじゃないですか」
「それは……」
再びノックの音が響く。高橋が来たのだろうと返事をしたが、入って来たのは別の生徒だった。顔の大半を長い前髪で隠していて、俯いている。文芸部員の宮乃原美琴はいつもそんな雰囲気だった。
尊以外の人間の存在に驚いたのか美琴がたじろぐ。そして、美琴が誰なのかわからなかったらしい茅野も目を瞬いていた。
「あら……?えっと……」
首をかしげる茅野に心底呆れた。美琴はこういう雰囲気だからある意味では目立っている。そして文芸部員だ。部員の顔と名前くらい覚えておいて欲しいものだと思う。仮にも顧問なのだから。
「文芸部の2年生ですよ。宮乃原美琴さん。先生、顧問なんですから部員くらい覚えておいた方がいいのでは?」
罰の悪そうな顔で茅野が尊をにらみつけた。
「ですから、サポートはします、とおっしゃっているでしょう?顧問と副顧問、入れ替えてください。そもそも本来は篠原先生がすべきでしょう」
「顧問なんてごめん被ります。先生のほうが教師歴は長いでしょう?」
冗談じゃない。これでも小さな仕事はともかく、学校側との連絡やら何やらとややこしいことは一応彼女がやってくれているのに。これ以上仕事が増えてたまるものか。
「……人を年寄りみたいに言わないでください。2、3年しか違わないでしょう。……それで、宮乃原さん?どうかしたの?篠原先生に用事?」
「はい。でも、茅野先生でもいいとおもいますけど、部長からです。リストと原稿とデータ。後はよろしくお願いします、だそうです」
「よろしくと言っても、後はもうパソコン部に渡して日程を整えるだけだからな……そのくらいは茅野先生がやってくださいませんか?」
「嫌です。私は専門ではありませんし、残業が増えるじゃない。ただでさえこの頃忙しくて旦那とまともに話せていないのよ。篠原先生は、独身でしょう?……宮乃原さんも先生がすべきだと思わない?」
それを生徒に聞く教師がどこにいるというのだろう。
「生徒に変な事聞かないで下さい。答えづらいでしょう。……宮乃原さん、君はもう戻っていいよ」
「ありがとうございます。失礼します」
慌てて出て行こうとした美琴を呼び止める。
「宮乃原さん」
「はい?」
「君の話、面白かったよ」
何故こんな事を口にしたのかわからない。なんとなくいうべきだと頭の片隅で聞こえたのだ。それを聞いた美琴の雰囲気が変わった。見かけ上は然程変わらないが、かもし出す雰囲気が柔らかくなったのだ。その姿が、不意にすずらんのすがたと重なった。一度重なるとそうとしか見えなくなる。確かにすずらんと似ている。
「ありがとう……ございます」
今日、再び彼女と会って確認してみようかと、思う。