幻想は儚く、されど優しく
無力な僕が、ひとつだけできたこと。
最期のディスプレイには、綺麗な綺麗な紫苑の花を。
* * *
二十一世紀も半ば。
人工知能は完成へと近づいて、今や機械に人格があるのも珍しくなくなった。代表的なものが、パソコンや携帯電話。
より便利に。そのために搭載されたのが人工知能。
だから、僕はきっと、おかしい。
「おかえりなさい」
彼女が帰宅したのを感知して、ディスプレイが起動する。彼女が、そういうふうに設定した。
――寂しかったな。
そんなことを思ってしまう僕は、きっとどこか壊れてる。
人工知能に『感情』はない。
僕がここに来たのは四年前。あのころはまだ、こんな『エラー』は検出されていなかった。
「ただいま」
それでも彼女がこうして微笑んでくれるから、僕はこのエラーをひた隠す。もう、四年。修理に出さずに買い換えられてもおかしくない時期だ。この数年でパソコンはいっそうの進化を遂げている。彼女だって、興味がないわけがない。
修理にだって、できれば出されたくない。初期化なんてされたら、たまったもんじゃない。
彼女とのこれからの時間が短くなってしまっても、僕は彼女との今までの時間を大切にしたい。僕が動かなくなる最期の日まで、その『データ』を大切に取っておきたい。
――好き。大好き。
僕に体があったなら、僕に心があったなら。
あぁ、ねぇ、どうしよう。
『エラー』が、『バグ』が、どんどん僕を蝕んでいく。
「おかえりなさい」
一人暮らしを始めて、何年経っただろう。四年前から私の帰宅を迎えてくれる声が聞こえるようになった。
「ただいま」
毎日、同じやりとり。プログラミングされた言葉。それでも、私の心のスキマを埋めるには十分だった。
最近導入されはじめた、人工知能。機械の体に、機械の心。私のことだけを考えてくれるけど、そこに『感情』はない。
それでも、否、だからこそ、この子は絶対に裏切らない。
この子には私しかいない、『プログラム』。
この子が私を裏切らないなら、私もこの子を裏切らない。
最後まで買い換えたりなんてしないし、修理にも出さない。結構値の張るものだったし、そう簡単には壊れることもないだろうけど。
――ずっと一緒にいてくれるよね。
あの人とは、違って。
* * *
かくん、かくん、と。
何度も落ちそうになりながら、彼女はキーボードを叩く。明日までに仕上げなければならない仕事があるらしい。時刻はもうすぐ二時。彼女がいつも起きるのは六時。こんなんじゃ体がもたない。
本当は、今すぐ電源を落としてしまいたい。僕にはそれができる。
でも、そうしたら怒られるのは彼女だから。
「くしゅんっ」
丑三つ時の静けさの中、彼女のくしゃみが部屋に響いた。あぁ、もう、本当に体を壊してしまう。人間とはなんて弱いのか。
――僕がその人間だったら。
彼女の代わりに仕事をすることも、彼女に温かいコーヒーを淹れてあげることも、彼女を抱きしめて温めてあげることもできるのに。
あの人みたいに。
彼女をひとりにした、あの人みたいに。
「ねぇ、ほら! ここ!」
彼女がマウスをクリックする小気味よい音が響く。
「一回行ってみたかったの!」
パァッと向日葵のような笑顔が咲いて、小さな笑い声が静かな部屋を満たした。
表示しているのは、少し前にできたテーマパーク。
「そろそろ、そこまで混んでないと思うし。ね、行こう!」
ぱたぱたと腕を振りながら、彼女が言う。しかし、彼女の満面の笑みに反して、浮かない顔がひとつ。
「……あ、そっか、絶叫系苦手なんだっけ」
「いや、いいよ! 乗るのは無理だけど」
「ひとりじゃ楽しくないじゃん」
そう口を尖らせて言うと、今度は雑誌に手を伸ばして別のスポットの紹介を斜め読み。
――なんだ。僕なら喜んで連れていってあげるのに。絶叫系……とやらだって、平気な顔して乗ってやるのに。
だけど、彼女はすぐにまた笑顔に戻っていた。挙句、こう言った。
「一緒に行けるのなら、どこでもいいんだけどね!」
ふたりとも笑っていた。不思議と僕も幸せだった。この人が、僕の代わりに彼女を幸せにしてくれるのだと。この人は、僕と違って彼女を幸せにできるのだと。
しかし、約束の日、その人は来なかったという。
メールも電話も繋がらなくなって、彼女は一週間、枕を濡らしていた。毎夜、毎夜。
そんな彼女を見るたびに、僕はあの人を憎んだ。一日目、二日目、汚い『バグ』はどんどん積もっていった。
七日目のことだった。彼女が僕の「おかえりなさい」を設定したのは。
* * *
あの人が何故いなくなってしまったのかは、僕も彼女も知らない。
だから、せめてそれを知るまでは。そして、また彼女を幸せにしてくれる人を見るまでは。それまでは壊れないで、僕の『身体』。
しかしどれだけ願っても、運命というものは残酷だ、と。『人』は表現するらしい。
起動が遅い。動作が遅い。自分の身体が、自分のものじゃないみたいだった。
「調子、悪いな。最近」
ぽつりと彼女がつぶやいた。
――そんなことない。僕、まだ頑張れるよ。
しかしどれだけ頑張っても、返ってくるのはウウウという低い音だけ。彼女が見つめるディスプレイに変化はなかった。
どうして。どうして。
まだ彼女のそばにいたい。ねぇ、動いてよ! 動いてよ! 動いてよ!
「……あっ」
プツン、と細い糸が切れてしまったかのように、画面が闇色に染まる。
続いてシュウウという音を立てて、本体も動くことをやめた。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ!」
声を上げたところで、助けどころか返事すら返ってこないんだけど。今欲しいのは誰かの返事じゃない。この子の返事だ。
電源ボタンを連打する。マウスをぐるぐる動かしてみる。やだ、私、カッコ悪い。なんでこんな、初心者みたいな対応。落ち着け、私。
でも、どれだけそう考えても、本音が口から漏れだしてしまう。
「君まで、私から離れるの……!」
やめて、やめて、僕まであの人と一緒にしないで。動いて、動いて。早く!
彼女が泣きそう。ねぇ、動いて! 早く!
――だめ、だ。
自分のことは、自分が一番分かってる。
買ったばかりのときから深刻な『バグ』を持っていた僕が、四年動いただけでも奇跡なんだ。まだ動きたいなんて贅沢なんだ。
でも、せめて最後に。最後に彼女の笑顔が見たいな。
ディスプレイを同時に動かす余力はない。本体だけを動かして、なけなしの力でネットを駆け巡る。とっておきの一枚を探して。
――あった!
保存して回線を切る。残りの力を、全部ディスプレイに回す。動け! 動け! 動け!
プツッ、と短い音がして顔を上げた。画面が消えたときと似たような音。だけど、違う。
「動いた……?」
ジ、ジジ……と濁った音を立てながら、画面が弱く点滅している。紫と、緑と、少しの黄色。
これが表示されたら、本当にこの子とお別れな気がしたけれど、それでも言わずにはいられなかった。
「頑張れ!」
そんな私の声に呼応するかのように、パッと画面が点灯する。紫と、緑と、少しの黄色。
画面いっぱいの花だった。薄紫の花弁を大きく広げて、空へと伸びる。まるで、私を励ますように。
目と鼻が熱くなる。でも、不思議と口角が上がる。小さな笑い声が漏れた。
心の中で何度も「ありがとう」を繰り返した。声は嗚咽とかわって、形にならない。
ゆっくりと、また暗くなっていく画面。あぁ、本当に最期なんだね。
まるで本当に生きているみたいだった。四年間、本当に家族に迎えられているみたいだった。
「ありがとう、君のおかげで、この部屋、寒くなかった」
息を詰まらせて、途切れ途切れに伝える。
「この部屋、一人でも広くなかったの、ありがとう」
やだ、私、おかしいな。パソコン相手に何言ってるんだろう。
それでも涙は止まらなかった。落ち着いたころには、部屋はしんと静まり返っていた。
あぁ、一人だ。本当に一人だ。部屋が、広い。
* * *
次の日、私は電器屋さんを訪れていた。
仕事のためにも早く新しいパソコンを買わなければいけない。店員さんの話を聞いて、ひとつ型落ちの安めのものを選んで、レジで待つ。
古いパソコンはどうされますか、と聞かれて、首を横に振った。
「まだしばらく、置いておきます」
新しいパソコンが届くのは数日後。届いたら真っ先に調べたい。あの紫色の小さな花のこと。
『離れていても君を想います』