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二年後、あなたに仕返しを

掲載日:2026/08/18

初投稿です。つたないですがよろしくお願いします。


 リディア・アーヴェルが、侯爵家からの縁談を知らされたのは、春の終わりのことだった。


「侯爵様が、お前を望んでおられるそうだ」


 父の口から出た言葉を、リディアはしばらく理解できなかった。


「……私を、ですか?」

「ああ。ヴァルター侯爵家だ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう」


 もちろん知っている。

 王国でも指折りの名門であり、広大な領地と莫大な資産を持つ家。

 そして、その当主であるエドガー・ヴァルター侯爵は、若くして爵位を継いだにもかかわらず、気難しく、人を寄せつけない男として知られていた。


 リディアより十歳年上の、二十九歳。

 社交界では「偏屈侯」などと呼ばれている。


「どうして……私なのでしょう」

「それは知らん」


 父はあっさりと答えた。


「だが、向こうからの申し出だ。しかも、結婚すれば我が家への援助も約束してくださるそうだ」


 その言葉に、母が目を輝かせた。

 アーヴェル子爵家は決して貧しい家ではない。

 けれど近年、領地の不作が続いていた。

 祖父の代から続く借財もあり、今のままでは数年もしないうちに立ち行かなくなる。

 だから両親にとって、この縁談は天から降ってきた救いだった。


「リディア。あなたなら侯爵夫人として申し分ないわ」

「そうだぞ。向こうから望んでくださったのだ。こんな機会は二度とない」


 両親の声が遠く聞こえた。

 リディアは膝の上で、ぎゅっと手を握った。

 脳裏に浮かんだのは、一人の青年の姿だった。


 カイル・レイン。

 幼馴染で、平民出身の騎士。

 身分は低いけれど、文武両道で、努力家で、いつだってリディアのことを大切にしてくれた人。


 身分違いの恋だった。

 だから、いつか別れなければならない。

 頭ではわかっていた。


 けれど、いざその時が来ると、胸が引き裂かれるように痛かった。


「……少し、考える時間をください」


 そう言ったリディアに、父は申し訳なさそうな顔をした。


「すまない。だが……家のためだ」


 その言葉を聞いてしまえば、断ることなどできなかった。


 数日後、リディアはカイルと二人きりで会った。


「そうか」


 話を聞いたカイルはしばらく黙っていた。

 やがて、寂しそうに笑った。


「侯爵夫人か。リディならきっと立派に務められる」

「カイル……」

「泣くなよ」

「泣いてなんかないわ」

「……そうだな」


 見ないふりをしてくれたカイルの目も赤かった。


「俺は平民だ。お前を幸せにすると言ってやれない。連れ去る度胸もない」

「そんなこと……」

「でも、リディが望まれて結婚するなら、それでいい」


 カイルはリディアの手を取った。


「離れても、お前に恥じないように生きるから。いつでも胸を張って会えるように」


 ――幸せになれ。

 最後にカイルは、そう言った。

 その言葉に、リディアはとうとう声をあげて泣いた。 

 何度もうなずいた。泣きながら何度も。何度も。

 そして、その手を離した。



 一か月後。

 結婚式は驚くほどあっさりと終わった。

 夫となるエドガー・ヴァルター侯爵は美しい人だった。輝くような金髪と、澄んだ空のような青い瞳。

 けれど、リディアに向けて笑うことは一度もなかった。


「一つ、伝えておく」

「はい」

「私は君を愛することはない」


 エドガーは淡々と告げた。

 式での態度から予想はしていたけれど、それでも、胸に突き刺さる言葉だった。


「侯爵夫人として必要なものはすべて与える。生活に不自由はさせない。社交の場でも、君の立場を傷つけることはない」

「……はい」

「だが、愛情を求めないでほしい」


 物語の中で何度も聞いたような、冷たい宣言。

 けれど、今は自分がその言葉を向けられている。


「……わかりました」


 なんとか笑おうとした。


「私も、あなたに愛してほしいとは……」


 言葉が続かなかった。

 エドガーは何も言わず、部屋を出ていった。

 扉が閉まった瞬間、リディアの目からぽろりと涙が落ちた。


「……ひどい人」


 恋人と別れてまで嫁いできたのに。

 家族のためだと自分に言い聞かせて。

 せめて夫婦として穏やかに暮らせるのではないかと、ほんの少しだけ期待していたのに。


「こんなの……あんまりだわ」


 その夜、リディアは一人で泣いた。

 結婚しなければよかったと。


 けれど、現実とは無情なもので、翌朝からリディアは侯爵夫人になった。

 泣いていても仕方がない。

 夫に愛されないなら、それ以外の役割を果たせばいい。


 リディアは侯爵の指示で、領地に住むように言われ、翌日には移動することになった。

 領地の屋敷に着くと、家令のセドリックから領地経営や社交について一から教わる。


 領地の収支報告や使用人の管理。

 商人との契約や社交界での立ち回り。

 侯爵夫人としてやることは山ほどあった。


「奥様は覚えが早くて助かります」

「侯爵夫人になるなら、これくらいはできて当然でしょう?」

「……はぁ、奥様の向上心を、旦那様には見習っていただきたいものですね」

「セドリック、今のは聞かなかったことにするわ」


 二人で顔を見合わせて笑った。

 そんなやり取りを交わしながら、リディアは少しずつ侯爵家に馴染んでいった。


 そしてまた一月が経った頃。

 初夜から一切顔を見せなかったエドガーが、突然、四歳の男の子を連れてきた。


「……ええと、この子は?」

「私の養子だ。この家を継ぐことになる」


 リディアの目が丸くなる。

 男の子は不安そうにエドガーの後ろから顔を出した。


 金色の髪。空色の瞳。

 くりくりとした大きな目に、ぷっくりとした頬。

 きゅんと胸のあたりが締め付けられる。


「……か、かわいい」


 思わず口から漏れた。

 エドガーのミニチュアのようだけれど、全く愛らしさが違う。


「何か言ったか」

「い、いえ、なにも」

「ならいい。これからはお前が母親だ。以前からアルノーには言い聞かせている」

「母親……わかりました」


 リディアはしゃがみ込んだ。


「こんにちは。私はリディア。今日からあなたのお母様になる人よ」

「……リディアおかあさま?」

「そうよ」

「ほんとのおかあさま?」

「ええ、ほんとのよ」


 男の子はしばらくリディアを見つめていた。

 やがて、小さな手を伸ばしてきた。


「……ぼく、アルノー」

「アルノーね。よろしく」


 小さな手がきゅっとリディアの手を握った。

 その瞬間、リディアの心は完全に陥落した。


「まあ……まあまあ……!」

「どうした」

「なんて可愛いの!」


 抱きしめると、アルノーは驚いた顔をした。けれど嫌がらなかった。

 リディアの胸に顔を埋めて身を預けてくれる。

 ふわふわの金髪を撫でると、エドガーが何とも言えない顔をした。

 もしかしたら懐かれたことがないのかしら。


「……何だ」

「何でもありません」

「今、笑っただろう」

「まあ、気のせいでは?」


 リディアはアルノーを抱いたまま、見せつけるようににっこり笑った。


 アルノーは分家の嫡男で、前々から養子になることが決められていた。

 侯爵がリディアを迎えたことで、これからは侯爵家で育てられることになったらしい。


 まだ四歳。

 知らせていたとはいえ、住み慣れた家から離れたのだから寂しくないはずがない。

 リディアはできるだけアルノーと一緒に過ごした。


 朝食を食べさせ、庭で遊び、本を読んで、昼寝をさせる。

 時には一緒に泥だらけになった。


「おかあさま!」

「どうしたの?」

「見て! ボール作ったの!」


 泥を器用に丸く固めたものがたくさん並べられている。


「まあ、上手ね!」

「ぼく、すごい?」

「ええ。とってもすごいわ」


 問題なのは、エドガーが時々アルノーの様子を見るために領地に戻ってくることだった。

 こういう泥だらけの時を狙って。しかも、わざわざ庭まで回ってくるのだ。


「はぁ、淑女とは程遠いな」

「何ですって?」

「屋敷の中に入るのは、顔の泥を落としてからにしてくれ」

「わ、わかっています! そんなことを言いに来たんですか⁉」

「私の目がないと、随分と気を抜いているようだからな」

「うっ」


 浴室を泥だらけにして、アルノーと一緒にメイドへ頭を下げたのはつい先日のことだ。

 知られていたなんて。

 エドガーはふっと鼻で笑うと庭から去っていった。


「……もう! もうもう! あいつ、本当にむかつくわ!」

「おかあさま、むかつくってなあに?」

「んんっ、知らなくていい言葉よ!」


 アルノーの頬をつつく。

 ぷに。


「はぁ、かわいい」

「えへへ」


 アルノーが天使のような笑顔を浮かべる。

 エドガーへの怒りなど、すぐに消えてしまった。

 

 エドガーが領地を訪れた日は、父子水入らずで出かけることが決まっていて、エドガーが侯爵邸に長く居座ることはない。

 顔を合わせても嫌味や皮肉しか並べないエドガーに腹は立っていたけれど、月に数回我慢すればいいだけのことだった。


 そんな、アルノーとの楽しい生活を始めてしばらくした頃、一通の手紙が届いた。

 差出人を見た瞬間、リディアの胸が大きく高鳴った。


 カイル・レイン。

 リディアは震える手で封を開けた。


『元気にしているだろうか』


 その一言から始まる手紙には、王都から遠く離れた領地で暮らすリディアを気遣う言葉が、いくつも綴られていた。


『侯爵夫人としての暮らしにはもう慣れただろうか。食事はきちんととっているか。無理をしてはいないか。お前は昔から、自分のことを後回しにするところがあったから心配している』


 思わず、リディアは小さく笑った。

 別れる前と、何も変わっていない。

 いつだってカイルはリディアのことを気にかけてくれる。


『侯爵様はお忙しい方だと聞いている。夫人として大変なこともあるだろうが、困ったことがあれば、遠慮なく誰かを頼るんだ。一人で抱え込まないように』


 そして、最後のほうになってようやく、彼自身の近況が書かれていた。


『ありがたいことに、ある貴族家の従者として雇ってもらえることになった』


 正確には秘書兼護衛ということらしく、給金も大幅に上がるという。

 リディアは嬉しくなった。

 彼の努力が認められたのだ。

 平民でありながら騎士になり、さらに貴族の従者にまでなるなんて。


「カイル……」


 きっと、今も頑張っている。

 いつか本当に、身分など関係なく胸を張って生きられる男になるのだろう。


 リディアは喜びの返事を書いた。


 ただし、自分の結婚生活については何も書かなかった。

 夫に愛されていない。

 そんなことを、元恋人に知らせるわけにはいかない。だから、


『私も元気です。侯爵夫人として毎日忙しくしています』


 とだけ書いて封を閉じた。


 

 二年経ち、アルノーは六歳になった。

 侯爵家の後継ぎというものを理解してきて、街を見たいと時々視察についてくることもあった。

 でも、まだまだ遊びたい盛り。


「おかあさま!」

「はぁい」

「今日は絵を描いたの!」

「絵を? 見せてもらってもいいの?」

「うん、これだよ!」


 紙いっぱいに描かれているのは、四人の人間だった。

 四人?

 首を傾げていると、これがぼくね、とアルノーが説明してくれる。


「こっちがおかあさま」

「まあ、お母様のこと、とってもかわいらしく描いてくれたのね。ありがとう」

「えへへ」


 照れながらもじもじするアルノーは本当に愛らしい。


「それでね、これがとうさまだよ」

「ふふ、アルノーと同じ髪の色だものね」

「うん! とうさまと同じ!」


 そして最後の一人。


「これは?」


 アルノーは嬉しそうに笑った。


「おじさんだよ」

「え? おじさん?」

「うん、とうさまと一緒に遊んでくれるの」


 エドガーと一緒にアルノーと遊ぶおじさん。

 エドガーの兄弟なのだろうか。

 一度も紹介されたことがないけれど、アルノーが絵に描くほどだから慕っているのだろう。


「私もその『おじさん』に会ってみたいわ」


 夫人という立場にいながらも、一人だけ蚊帳の外にいるように感じる。

 いつまで、この関係が続くのだろう。

 不意に未来に影が差した気がした。



 結婚して二年経つころには、リディアは侯爵夫人として十分な経験を積んでいた。

 けれど、胸を覆っていたものが晴れることはなかった。

 

「三年、白い結婚が続けば、離婚できるのよね」


 その頃にはアーヴェル家も立て直されているだろう。

 そうしたら、私は自由になれる?


 カイルと会えるかもしれない。

 そんな未来を、ほんの少しだけ夢見るようになっていた。


「奥様!」


 ある朝、血相を変えて駆け込んで家令のセドリックが継げた言葉を、リディアは一瞬理解できなかった。


「侯爵様が……倒れられました」

「……え?」

「すぐに参りましょう」


 セドリックに追い立てられるように、リディアはその日のうちに王都へ向かった。

 結婚式以降、足を踏み入れたことのない王都の侯爵邸。

 案内された寝室には、エドガーがいた。


 けれど、そこにいたのは別人のようだった。


「……エドガー様?」


 顔は蒼白。

 唇から血の気が失せている。

 いつもなら皮肉げに歪んでいる口元も、今は力なく閉じられていた。


「どうして……こいつを呼んだ」


 エドガーが苦々しそうに言う。

 それに対して、セドリックが睨みつける。


「まだそんなことを言って」

「私は呼べと言っていない」

「どうして向き合わないのですか!」

「…………」

「奥様にすべて説明してください。あなたがどれだけ馬鹿なことをしてきたのかも!」

「セドリック、うるさい」

「あなたにだけは言われたくありません!」


 二人は幼馴染なのだと、聞いたことがあった。

 幼い頃から侯爵家で共に育ったと。

 だからこそ、セドリックは遠慮がなかった。

 リディアは混乱したまま二人を見つめた。


「いったい、何が……」


 リディアの視線から逃げるように、エドガーは目を伏せた。


「私は……病に侵されている」

「病……?」

「二年前に、医師から余命を告げられた」


 リディアの呼吸が止まる。


「長くても……あと二年だと」

「……それは……」

「そろそろということだ。だから、私は準備をしていた」

「準備?」

「そうだ。お前も含めてな」

「私も……?」


 全く事情が掴めない。

 言葉数が少なすぎる。

 セドリックに助けを求めると、ふぅとため息を吐いてから口を開いた。


「旦那様は、アルノー様が侯爵位を継げる年齢になるまで、侯爵家を維持できるよう中継ぎ役を育てておいででした」

「中継ぎ……? セドリックではなく?」

「ええ。私ではありません」

「私がお会いしたことはないですよね?」

「侯爵様がそのようにされていましたから」

「どうして?」

「……侯爵様」


 セドリックが扉へ向かう。


「もう隠す意味はありませんね?」


 そして、扉が開かれた。

 そこに立っていた人物を見て、リディアは言葉を失った。


「……カイル?」


 懐かしい顔だった。

 二年ぶりに見る恋人。

 けれど、以前よりずっと大人びていた。


 騎士服ではない。

 侯爵家の従者としての正装。


「……リディア」


 カイルが気まずそうに笑った。


「久しぶりだな」

「あなた……」


 何も考えられなかった。


「あなたが……侯爵家の中継ぎに?」

「ああ、旦那様に機会をいただいたんだ。もちろんセドリック殿と共同で行うが」

「どうして……」


 リディアの目に涙が浮かんだ。


「どうして、言ってくれなかったの? 手紙で……ずっと、あなたが貴族に仕えることになったって……」

「嘘はついていない」

「そうだとしても! 私に一度も貴族の名前を教えてくれなかった!」

「すまない、侯爵様に口止めされていたんだ」

「そんなの……」

「そう、責めてやるな。私の命令だったのだから」

「では、あなたが答えてください!」


 リディアの涙ぐんだ目を見て、エドガーが観念したように肩を落とした。


「お前が未亡人になれば……」

「え?」

「身分違いでも夫を選べるだろう」


 リディアは脈絡のない話に瞬きをした。


「孤児院で……お前を見たんだ。服が汚れることも気にせず、子供たちと遊んでいた」

「…………」

「その姿を見て……お前なら、義理の親子であってもアルノーを大切にしてくれると思った」


 リディアの胸が詰まる。


「実際、その通りだった」


 エドガーは少しだけ笑った。


「だからこれは、私からの礼だ」

「礼……」

「カイルは優秀だ。忠誠心もある。アルノーのことも大切にしてくれる。セドリックとも問題なくやっている」


 カイルが苦笑した。


「最初、俺は侯爵様を恨んでいましたが」

「そうだろうな」

「でも、二年間そばで仕えてきてわかったんです。……この方は、とんでもない世話焼きだって」

「余計なことを言うな」

「余計なことなんかじゃありませんよ。本当に、自分がいなくなった後のことばかり考えて。アルノー様のこと。侯爵家のこと。そして……奥様のことも」


 リディアは息を呑んだ。


「奥様を遠ざけている理由を知ってからは、この人が自分のやるべきことを終えようとしているなら、俺も最後まで付き合おうと。最後まで、この人のそばにいようと思ったんです」


 エドガーは何も言わなかった。

 ただ、わずかに顔を背けた。

 その横顔を見つめながら、リディアは胸の奥が痛くなるのを感じていた。


 そうか、この人は。

 この人は嫌われようとしていたのだ。

 自分が死んだ後、リディアが悲しまないように。


 愛されなかったと思わせておけば、悲しみに暮れることはない。

 自分を責めずにも済む。

 そして、愛している人と結ばれる道まで残して……


「……なんて不器用な人なの……!」


 涙が頬を伝う。

 リディアは地団太を踏むように寝台の脇へ歩み寄った。


「お、おい……」

「旦那様!」


 エドガーが目を見開く。


「二年間!」

「…………」

「二年間、よくも冷遇してくれましたね!」

「いや、それは……」

「嫌味も皮肉も、散々言ってくださって!」

「…………」

「おかげで何度、心の中で『キーッ、あの男むかつく!』と思ったことか!」


 カイルが吹き出した。


「笑わないで!」

「すまない」


 リディアは涙を拭った。

 それから、にっこりと笑った。


「仕返しして差し上げます」

「……は?」

「覚悟していてください、旦那様」


 エドガーは、心底嫌そうな顔をした。



 それから侯爵邸の寝室は、以前とはまったく違う場所になった。


「はーい、お薬ですよー」


 薬の入った匙を差し出すと、エドガーはふいと顔を逸らす。


「子供じゃないんだから自分で飲める」

「はぁ、三十にもなってお薬一つでそんなにむきになるなんて。まるで子供みたいですね」

「……お前な」


 一向に素直になろうとしないエドガーとそんなやり取りをしながら、リディアは容赦なく世話を焼いた。

 食事を用意し、薬を飲ませ、清拭まで手伝った。

 エドガーは露骨に嫌そうな顔をしていたが。


 そして、甲斐甲斐しく世話をするのはリディアだけではなく、カイルもだった。


「侯爵様、そろそろお休みください」

「まだだ」

「ですが、先ほどからずっと目を閉じていらっしゃいますよ」

「目を閉じて考えていただけだ」

「そうでしたか、小一時間も考え事を」

「カイル。少しは口を慎め」

「では、先ほど奥様が『いい加減、素直に頼めばいいのに』と愚痴っておられましたことだけお伝えしておきます」

「……あの女は」

「奥様をあの女呼ばわりとは、穏やかではありませんね」

「お前は私の従者だろう。誰の味方をしている」

「残念ながら、奥様の、ですね」

「本当に、この家には裏切り者ばかりのようだな!」


 エドガーが不貞腐れたように横になると、カイルは涼しい顔で毛布を掛け直した。

 そんな会話を扉越しに聞きながら、リディアは笑っていた。

 やがてアルノーも王都へ呼ばれた。


「とうさま!」

「アルノー……」


 久しぶりに会った息子を、エドガーはぎこちなく抱きしめた。


「とうさま、病気なの?」

「少しな」

「早く元気になってね」

「ああ」

「おかあさまと、カイルおじさんと、ずっと一緒にいようね」


 エドガーは一瞬、目を伏せた。


「……そうだな」


 その声は、いつもの冷たさとは違っていた。

 四人で過ごす時間は、穏やかだった。

 朝食の席ではアルノーが昨日見つけた虫の話をする。

 昼にはリディアが本を読み聞かせる。

 カイルがそれを聞きながら仕事をする。

 エドガーは寝台からそんな光景を眺める。


「……本当に騒がしいな」

「窓を閉めますか?」

「いや、このままでいい」


 セドリックの問いかけに、エドガーはゆるく首を振った。

 それから、窓の下で駆け回る母子の姿を眺めた。


「私には、もったいない妻だな」

「最初からお気づきだったでしょうに」

「……うるさい。しみじみ感じているだけだ」

「私もそう感じています。カイルも同じでしょうね」

「それも気に入らない」

「では、もっと早く素直になればよかったのですよ」


 エドガーは返事をせず、小さく笑っただけだった。



 二か月が過ぎた夏の終わり。

 エドガーの身体は、日に日に弱っていた。

 少し前までは自分で起き上がることもできたのに、今では寝台から離れることさえ難しい。

 食事の量も減り、会話の途中で疲れて目を閉じてしまうことも増えた。


 それでも、アルノーが部屋に来れば、エドガーはできる限り身体を起こした。


「アルノー。強い男になれ。お母様を大切にするんだぞ」

「うん……」


 アルノーも気づいていた。

 頭を撫でるエドガーの手がひどく力を失っていることを。

 

「旦那様、横になられてください」


 アルノーを抱えるのさえ苦しそうなエドガーにカイルが手を貸す。

 その手をエドガーが掴んだ。


「カイル」

「はい」

「……どうかリディアを頼む」

「ええ、あなたの意志を継いで、必ず幸せにします」


 カイルはしっかりと頷いた。

 エドガーは満足そうに目を細めた。

 そして、安心したように肩の力を抜いた。

 

 リディアは二人を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。

 ――嫌だ。

 こんな会話をしてほしくない。

 まるで、明日が来ないことを知っているかのようで。


 だからリディアは、いつものように笑っていた。


 その夜。

 アルノーを寝かしつけ、カイルも一度部屋を出たあと、寝室にはリディアとエドガーの二人だけが残っていた。

 窓の外には、静謐な闇が広がっている。


 昼間よりもずっと静かで、かえってエドガーの浅い呼吸がはっきりと聞こえた。

 リディアは寝台の脇に椅子を置き、その手を握った。

 以前は大きく、温かかった手。

 今は驚くほど細くなっていた。


「リディア」

「はい」

「幸せになれ」

「……はい」

「アルノーを……頼む」

「もちろんです」

「カイルと……」

「もう、わかっています。だから、安心して眠ってください」


 エドガーは、ほんの少しだけ笑った。


「……仕返しは、もう十分したか?」

「いいえ」


 リディアは涙をこぼしながら言った。


「まだ足りません」

「そうか」

「だから……また明日、仕返しします」

「ああ」


 それが、最後の言葉になった。


 その朝。

 エドガー・ヴァルター侯爵は、眠るように息を引き取った。


「旦那様……?」


 リディアはその手を握った。

 冷たくなっていく。


「嫌です……」


 涙が止まらなかった。


「こんなの……こんなの……」


 カイルもまた、拳を震わせて俯いていた。

 アルノーが声を上げて泣いて、エドガーにしがみついた。

 それをきっかけに、リディアとカイルもエドガーの亡骸に縋りついた。


「旦那様……!」

「エドガー……!」


 声を上げて泣いた。

 セドリックも顔を背けて、静かに涙を拭った。


 葬儀を終えたあと、主のいなくなった部屋でリディアは窓辺に立っていた。


「……この家を、この家を必ず守りますから」


 リディアは、もういない夫に向かって誓った。


「アルノーが立派な侯爵になるまで。私が、ちゃんと守ります」


 隣に立つカイルが頷いた。


「俺も力を貸す」

「お願いね」

「もちろん」


 アルノーが二人の手を握った。


「ぼくも頑張る。とうさまみたいになるんだ、絶対に」

「まあ」


 リディアの頬を涙が伝った。


「頼もしいわね」


 その時。

 セドリックが一枚の絵を持ってきた。


「奥様。こちらを」

「これは……」


 アルノーが描いた絵だった。

 四人の人間が、ぎゅっと寄り添っている。

 

「そう、このおじさんはカイルだったのね」


 お父様。

 お母様。

 カイル。

 そして、自分。


 そこには確かに、家族がいた。


「……飾りましょう。家族だけが集まる、この居間に」


 絵は額に入れて飾られた。

 何年経っても、誰もその絵を外そうとはしなかった。


 やがてアルノーは成長し、侯爵家を継ぐ。

 リディアは侯爵夫人として、その傍に立ち続けた。

 カイルはその二人を愛で包み、支えた。


 そして時折、あの絵を見上げる。

 四人で暮らした、短い夏を思い出すために。


 リディアは今でも思う。

 あの人は、本当に不器用だった。

 愛していないと言って、冷たくして。嫌われようとして。


 けれど最後には、自分の死後に残される人たちの幸せまで、すべて用意してくれていた。


「……旦那様」


 絵の中のエドガーへ、リディアは静かに笑いかける。


「あなたがくれたものを、私は大切にします」


 その隣に立つカイルの手を、そっと握った。

 もう一人ではない。

 守るべき家族がいる。

 愛してくれる人がいる。


 不器用な夫が遺してくれた、かけがえのない家がある。

 壁に飾られた四人の絵は、今日も変わらない。


 寄り添うように描かれた四人の姿を見ながら。


 リディアは、幸せそうに微笑んだ。


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