二年後、あなたに仕返しを
初投稿です。つたないですがよろしくお願いします。
リディア・アーヴェルが、侯爵家からの縁談を知らされたのは、春の終わりのことだった。
「侯爵様が、お前を望んでおられるそうだ」
父の口から出た言葉を、リディアはしばらく理解できなかった。
「……私を、ですか?」
「ああ。ヴァルター侯爵家だ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう」
もちろん知っている。
王国でも指折りの名門であり、広大な領地と莫大な資産を持つ家。
そして、その当主であるエドガー・ヴァルター侯爵は、若くして爵位を継いだにもかかわらず、気難しく、人を寄せつけない男として知られていた。
リディアより十歳年上の、二十九歳。
社交界では「偏屈侯」などと呼ばれている。
「どうして……私なのでしょう」
「それは知らん」
父はあっさりと答えた。
「だが、向こうからの申し出だ。しかも、結婚すれば我が家への援助も約束してくださるそうだ」
その言葉に、母が目を輝かせた。
アーヴェル子爵家は決して貧しい家ではない。
けれど近年、領地の不作が続いていた。
祖父の代から続く借財もあり、今のままでは数年もしないうちに立ち行かなくなる。
だから両親にとって、この縁談は天から降ってきた救いだった。
「リディア。あなたなら侯爵夫人として申し分ないわ」
「そうだぞ。向こうから望んでくださったのだ。こんな機会は二度とない」
両親の声が遠く聞こえた。
リディアは膝の上で、ぎゅっと手を握った。
脳裏に浮かんだのは、一人の青年の姿だった。
カイル・レイン。
幼馴染で、平民出身の騎士。
身分は低いけれど、文武両道で、努力家で、いつだってリディアのことを大切にしてくれた人。
身分違いの恋だった。
だから、いつか別れなければならない。
頭ではわかっていた。
けれど、いざその時が来ると、胸が引き裂かれるように痛かった。
「……少し、考える時間をください」
そう言ったリディアに、父は申し訳なさそうな顔をした。
「すまない。だが……家のためだ」
その言葉を聞いてしまえば、断ることなどできなかった。
数日後、リディアはカイルと二人きりで会った。
「そうか」
話を聞いたカイルはしばらく黙っていた。
やがて、寂しそうに笑った。
「侯爵夫人か。リディならきっと立派に務められる」
「カイル……」
「泣くなよ」
「泣いてなんかないわ」
「……そうだな」
見ないふりをしてくれたカイルの目も赤かった。
「俺は平民だ。お前を幸せにすると言ってやれない。連れ去る度胸もない」
「そんなこと……」
「でも、リディが望まれて結婚するなら、それでいい」
カイルはリディアの手を取った。
「離れても、お前に恥じないように生きるから。いつでも胸を張って会えるように」
――幸せになれ。
最後にカイルは、そう言った。
その言葉に、リディアはとうとう声をあげて泣いた。
何度もうなずいた。泣きながら何度も。何度も。
そして、その手を離した。
一か月後。
結婚式は驚くほどあっさりと終わった。
夫となるエドガー・ヴァルター侯爵は美しい人だった。輝くような金髪と、澄んだ空のような青い瞳。
けれど、リディアに向けて笑うことは一度もなかった。
「一つ、伝えておく」
「はい」
「私は君を愛することはない」
エドガーは淡々と告げた。
式での態度から予想はしていたけれど、それでも、胸に突き刺さる言葉だった。
「侯爵夫人として必要なものはすべて与える。生活に不自由はさせない。社交の場でも、君の立場を傷つけることはない」
「……はい」
「だが、愛情を求めないでほしい」
物語の中で何度も聞いたような、冷たい宣言。
けれど、今は自分がその言葉を向けられている。
「……わかりました」
なんとか笑おうとした。
「私も、あなたに愛してほしいとは……」
言葉が続かなかった。
エドガーは何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まった瞬間、リディアの目からぽろりと涙が落ちた。
「……ひどい人」
恋人と別れてまで嫁いできたのに。
家族のためだと自分に言い聞かせて。
せめて夫婦として穏やかに暮らせるのではないかと、ほんの少しだけ期待していたのに。
「こんなの……あんまりだわ」
その夜、リディアは一人で泣いた。
結婚しなければよかったと。
けれど、現実とは無情なもので、翌朝からリディアは侯爵夫人になった。
泣いていても仕方がない。
夫に愛されないなら、それ以外の役割を果たせばいい。
リディアは侯爵の指示で、領地に住むように言われ、翌日には移動することになった。
領地の屋敷に着くと、家令のセドリックから領地経営や社交について一から教わる。
領地の収支報告や使用人の管理。
商人との契約や社交界での立ち回り。
侯爵夫人としてやることは山ほどあった。
「奥様は覚えが早くて助かります」
「侯爵夫人になるなら、これくらいはできて当然でしょう?」
「……はぁ、奥様の向上心を、旦那様には見習っていただきたいものですね」
「セドリック、今のは聞かなかったことにするわ」
二人で顔を見合わせて笑った。
そんなやり取りを交わしながら、リディアは少しずつ侯爵家に馴染んでいった。
そしてまた一月が経った頃。
初夜から一切顔を見せなかったエドガーが、突然、四歳の男の子を連れてきた。
「……ええと、この子は?」
「私の養子だ。この家を継ぐことになる」
リディアの目が丸くなる。
男の子は不安そうにエドガーの後ろから顔を出した。
金色の髪。空色の瞳。
くりくりとした大きな目に、ぷっくりとした頬。
きゅんと胸のあたりが締め付けられる。
「……か、かわいい」
思わず口から漏れた。
エドガーのミニチュアのようだけれど、全く愛らしさが違う。
「何か言ったか」
「い、いえ、なにも」
「ならいい。これからはお前が母親だ。以前からアルノーには言い聞かせている」
「母親……わかりました」
リディアはしゃがみ込んだ。
「こんにちは。私はリディア。今日からあなたのお母様になる人よ」
「……リディアおかあさま?」
「そうよ」
「ほんとのおかあさま?」
「ええ、ほんとのよ」
男の子はしばらくリディアを見つめていた。
やがて、小さな手を伸ばしてきた。
「……ぼく、アルノー」
「アルノーね。よろしく」
小さな手がきゅっとリディアの手を握った。
その瞬間、リディアの心は完全に陥落した。
「まあ……まあまあ……!」
「どうした」
「なんて可愛いの!」
抱きしめると、アルノーは驚いた顔をした。けれど嫌がらなかった。
リディアの胸に顔を埋めて身を預けてくれる。
ふわふわの金髪を撫でると、エドガーが何とも言えない顔をした。
もしかしたら懐かれたことがないのかしら。
「……何だ」
「何でもありません」
「今、笑っただろう」
「まあ、気のせいでは?」
リディアはアルノーを抱いたまま、見せつけるようににっこり笑った。
アルノーは分家の嫡男で、前々から養子になることが決められていた。
侯爵がリディアを迎えたことで、これからは侯爵家で育てられることになったらしい。
まだ四歳。
知らせていたとはいえ、住み慣れた家から離れたのだから寂しくないはずがない。
リディアはできるだけアルノーと一緒に過ごした。
朝食を食べさせ、庭で遊び、本を読んで、昼寝をさせる。
時には一緒に泥だらけになった。
「おかあさま!」
「どうしたの?」
「見て! ボール作ったの!」
泥を器用に丸く固めたものがたくさん並べられている。
「まあ、上手ね!」
「ぼく、すごい?」
「ええ。とってもすごいわ」
問題なのは、エドガーが時々アルノーの様子を見るために領地に戻ってくることだった。
こういう泥だらけの時を狙って。しかも、わざわざ庭まで回ってくるのだ。
「はぁ、淑女とは程遠いな」
「何ですって?」
「屋敷の中に入るのは、顔の泥を落としてからにしてくれ」
「わ、わかっています! そんなことを言いに来たんですか⁉」
「私の目がないと、随分と気を抜いているようだからな」
「うっ」
浴室を泥だらけにして、アルノーと一緒にメイドへ頭を下げたのはつい先日のことだ。
知られていたなんて。
エドガーはふっと鼻で笑うと庭から去っていった。
「……もう! もうもう! あいつ、本当にむかつくわ!」
「おかあさま、むかつくってなあに?」
「んんっ、知らなくていい言葉よ!」
アルノーの頬をつつく。
ぷに。
「はぁ、かわいい」
「えへへ」
アルノーが天使のような笑顔を浮かべる。
エドガーへの怒りなど、すぐに消えてしまった。
エドガーが領地を訪れた日は、父子水入らずで出かけることが決まっていて、エドガーが侯爵邸に長く居座ることはない。
顔を合わせても嫌味や皮肉しか並べないエドガーに腹は立っていたけれど、月に数回我慢すればいいだけのことだった。
そんな、アルノーとの楽しい生活を始めてしばらくした頃、一通の手紙が届いた。
差出人を見た瞬間、リディアの胸が大きく高鳴った。
カイル・レイン。
リディアは震える手で封を開けた。
『元気にしているだろうか』
その一言から始まる手紙には、王都から遠く離れた領地で暮らすリディアを気遣う言葉が、いくつも綴られていた。
『侯爵夫人としての暮らしにはもう慣れただろうか。食事はきちんととっているか。無理をしてはいないか。お前は昔から、自分のことを後回しにするところがあったから心配している』
思わず、リディアは小さく笑った。
別れる前と、何も変わっていない。
いつだってカイルはリディアのことを気にかけてくれる。
『侯爵様はお忙しい方だと聞いている。夫人として大変なこともあるだろうが、困ったことがあれば、遠慮なく誰かを頼るんだ。一人で抱え込まないように』
そして、最後のほうになってようやく、彼自身の近況が書かれていた。
『ありがたいことに、ある貴族家の従者として雇ってもらえることになった』
正確には秘書兼護衛ということらしく、給金も大幅に上がるという。
リディアは嬉しくなった。
彼の努力が認められたのだ。
平民でありながら騎士になり、さらに貴族の従者にまでなるなんて。
「カイル……」
きっと、今も頑張っている。
いつか本当に、身分など関係なく胸を張って生きられる男になるのだろう。
リディアは喜びの返事を書いた。
ただし、自分の結婚生活については何も書かなかった。
夫に愛されていない。
そんなことを、元恋人に知らせるわけにはいかない。だから、
『私も元気です。侯爵夫人として毎日忙しくしています』
とだけ書いて封を閉じた。
二年経ち、アルノーは六歳になった。
侯爵家の後継ぎというものを理解してきて、街を見たいと時々視察についてくることもあった。
でも、まだまだ遊びたい盛り。
「おかあさま!」
「はぁい」
「今日は絵を描いたの!」
「絵を? 見せてもらってもいいの?」
「うん、これだよ!」
紙いっぱいに描かれているのは、四人の人間だった。
四人?
首を傾げていると、これがぼくね、とアルノーが説明してくれる。
「こっちがおかあさま」
「まあ、お母様のこと、とってもかわいらしく描いてくれたのね。ありがとう」
「えへへ」
照れながらもじもじするアルノーは本当に愛らしい。
「それでね、これがとうさまだよ」
「ふふ、アルノーと同じ髪の色だものね」
「うん! とうさまと同じ!」
そして最後の一人。
「これは?」
アルノーは嬉しそうに笑った。
「おじさんだよ」
「え? おじさん?」
「うん、とうさまと一緒に遊んでくれるの」
エドガーと一緒にアルノーと遊ぶおじさん。
エドガーの兄弟なのだろうか。
一度も紹介されたことがないけれど、アルノーが絵に描くほどだから慕っているのだろう。
「私もその『おじさん』に会ってみたいわ」
夫人という立場にいながらも、一人だけ蚊帳の外にいるように感じる。
いつまで、この関係が続くのだろう。
不意に未来に影が差した気がした。
結婚して二年経つころには、リディアは侯爵夫人として十分な経験を積んでいた。
けれど、胸を覆っていたものが晴れることはなかった。
「三年、白い結婚が続けば、離婚できるのよね」
その頃にはアーヴェル家も立て直されているだろう。
そうしたら、私は自由になれる?
カイルと会えるかもしれない。
そんな未来を、ほんの少しだけ夢見るようになっていた。
「奥様!」
ある朝、血相を変えて駆け込んで家令のセドリックが継げた言葉を、リディアは一瞬理解できなかった。
「侯爵様が……倒れられました」
「……え?」
「すぐに参りましょう」
セドリックに追い立てられるように、リディアはその日のうちに王都へ向かった。
結婚式以降、足を踏み入れたことのない王都の侯爵邸。
案内された寝室には、エドガーがいた。
けれど、そこにいたのは別人のようだった。
「……エドガー様?」
顔は蒼白。
唇から血の気が失せている。
いつもなら皮肉げに歪んでいる口元も、今は力なく閉じられていた。
「どうして……こいつを呼んだ」
エドガーが苦々しそうに言う。
それに対して、セドリックが睨みつける。
「まだそんなことを言って」
「私は呼べと言っていない」
「どうして向き合わないのですか!」
「…………」
「奥様にすべて説明してください。あなたがどれだけ馬鹿なことをしてきたのかも!」
「セドリック、うるさい」
「あなたにだけは言われたくありません!」
二人は幼馴染なのだと、聞いたことがあった。
幼い頃から侯爵家で共に育ったと。
だからこそ、セドリックは遠慮がなかった。
リディアは混乱したまま二人を見つめた。
「いったい、何が……」
リディアの視線から逃げるように、エドガーは目を伏せた。
「私は……病に侵されている」
「病……?」
「二年前に、医師から余命を告げられた」
リディアの呼吸が止まる。
「長くても……あと二年だと」
「……それは……」
「そろそろということだ。だから、私は準備をしていた」
「準備?」
「そうだ。お前も含めてな」
「私も……?」
全く事情が掴めない。
言葉数が少なすぎる。
セドリックに助けを求めると、ふぅとため息を吐いてから口を開いた。
「旦那様は、アルノー様が侯爵位を継げる年齢になるまで、侯爵家を維持できるよう中継ぎ役を育てておいででした」
「中継ぎ……? セドリックではなく?」
「ええ。私ではありません」
「私がお会いしたことはないですよね?」
「侯爵様がそのようにされていましたから」
「どうして?」
「……侯爵様」
セドリックが扉へ向かう。
「もう隠す意味はありませんね?」
そして、扉が開かれた。
そこに立っていた人物を見て、リディアは言葉を失った。
「……カイル?」
懐かしい顔だった。
二年ぶりに見る恋人。
けれど、以前よりずっと大人びていた。
騎士服ではない。
侯爵家の従者としての正装。
「……リディア」
カイルが気まずそうに笑った。
「久しぶりだな」
「あなた……」
何も考えられなかった。
「あなたが……侯爵家の中継ぎに?」
「ああ、旦那様に機会をいただいたんだ。もちろんセドリック殿と共同で行うが」
「どうして……」
リディアの目に涙が浮かんだ。
「どうして、言ってくれなかったの? 手紙で……ずっと、あなたが貴族に仕えることになったって……」
「嘘はついていない」
「そうだとしても! 私に一度も貴族の名前を教えてくれなかった!」
「すまない、侯爵様に口止めされていたんだ」
「そんなの……」
「そう、責めてやるな。私の命令だったのだから」
「では、あなたが答えてください!」
リディアの涙ぐんだ目を見て、エドガーが観念したように肩を落とした。
「お前が未亡人になれば……」
「え?」
「身分違いでも夫を選べるだろう」
リディアは脈絡のない話に瞬きをした。
「孤児院で……お前を見たんだ。服が汚れることも気にせず、子供たちと遊んでいた」
「…………」
「その姿を見て……お前なら、義理の親子であってもアルノーを大切にしてくれると思った」
リディアの胸が詰まる。
「実際、その通りだった」
エドガーは少しだけ笑った。
「だからこれは、私からの礼だ」
「礼……」
「カイルは優秀だ。忠誠心もある。アルノーのことも大切にしてくれる。セドリックとも問題なくやっている」
カイルが苦笑した。
「最初、俺は侯爵様を恨んでいましたが」
「そうだろうな」
「でも、二年間そばで仕えてきてわかったんです。……この方は、とんでもない世話焼きだって」
「余計なことを言うな」
「余計なことなんかじゃありませんよ。本当に、自分がいなくなった後のことばかり考えて。アルノー様のこと。侯爵家のこと。そして……奥様のことも」
リディアは息を呑んだ。
「奥様を遠ざけている理由を知ってからは、この人が自分のやるべきことを終えようとしているなら、俺も最後まで付き合おうと。最後まで、この人のそばにいようと思ったんです」
エドガーは何も言わなかった。
ただ、わずかに顔を背けた。
その横顔を見つめながら、リディアは胸の奥が痛くなるのを感じていた。
そうか、この人は。
この人は嫌われようとしていたのだ。
自分が死んだ後、リディアが悲しまないように。
愛されなかったと思わせておけば、悲しみに暮れることはない。
自分を責めずにも済む。
そして、愛している人と結ばれる道まで残して……
「……なんて不器用な人なの……!」
涙が頬を伝う。
リディアは地団太を踏むように寝台の脇へ歩み寄った。
「お、おい……」
「旦那様!」
エドガーが目を見開く。
「二年間!」
「…………」
「二年間、よくも冷遇してくれましたね!」
「いや、それは……」
「嫌味も皮肉も、散々言ってくださって!」
「…………」
「おかげで何度、心の中で『キーッ、あの男むかつく!』と思ったことか!」
カイルが吹き出した。
「笑わないで!」
「すまない」
リディアは涙を拭った。
それから、にっこりと笑った。
「仕返しして差し上げます」
「……は?」
「覚悟していてください、旦那様」
エドガーは、心底嫌そうな顔をした。
それから侯爵邸の寝室は、以前とはまったく違う場所になった。
「はーい、お薬ですよー」
薬の入った匙を差し出すと、エドガーはふいと顔を逸らす。
「子供じゃないんだから自分で飲める」
「はぁ、三十にもなってお薬一つでそんなにむきになるなんて。まるで子供みたいですね」
「……お前な」
一向に素直になろうとしないエドガーとそんなやり取りをしながら、リディアは容赦なく世話を焼いた。
食事を用意し、薬を飲ませ、清拭まで手伝った。
エドガーは露骨に嫌そうな顔をしていたが。
そして、甲斐甲斐しく世話をするのはリディアだけではなく、カイルもだった。
「侯爵様、そろそろお休みください」
「まだだ」
「ですが、先ほどからずっと目を閉じていらっしゃいますよ」
「目を閉じて考えていただけだ」
「そうでしたか、小一時間も考え事を」
「カイル。少しは口を慎め」
「では、先ほど奥様が『いい加減、素直に頼めばいいのに』と愚痴っておられましたことだけお伝えしておきます」
「……あの女は」
「奥様をあの女呼ばわりとは、穏やかではありませんね」
「お前は私の従者だろう。誰の味方をしている」
「残念ながら、奥様の、ですね」
「本当に、この家には裏切り者ばかりのようだな!」
エドガーが不貞腐れたように横になると、カイルは涼しい顔で毛布を掛け直した。
そんな会話を扉越しに聞きながら、リディアは笑っていた。
やがてアルノーも王都へ呼ばれた。
「とうさま!」
「アルノー……」
久しぶりに会った息子を、エドガーはぎこちなく抱きしめた。
「とうさま、病気なの?」
「少しな」
「早く元気になってね」
「ああ」
「おかあさまと、カイルおじさんと、ずっと一緒にいようね」
エドガーは一瞬、目を伏せた。
「……そうだな」
その声は、いつもの冷たさとは違っていた。
四人で過ごす時間は、穏やかだった。
朝食の席ではアルノーが昨日見つけた虫の話をする。
昼にはリディアが本を読み聞かせる。
カイルがそれを聞きながら仕事をする。
エドガーは寝台からそんな光景を眺める。
「……本当に騒がしいな」
「窓を閉めますか?」
「いや、このままでいい」
セドリックの問いかけに、エドガーはゆるく首を振った。
それから、窓の下で駆け回る母子の姿を眺めた。
「私には、もったいない妻だな」
「最初からお気づきだったでしょうに」
「……うるさい。しみじみ感じているだけだ」
「私もそう感じています。カイルも同じでしょうね」
「それも気に入らない」
「では、もっと早く素直になればよかったのですよ」
エドガーは返事をせず、小さく笑っただけだった。
二か月が過ぎた夏の終わり。
エドガーの身体は、日に日に弱っていた。
少し前までは自分で起き上がることもできたのに、今では寝台から離れることさえ難しい。
食事の量も減り、会話の途中で疲れて目を閉じてしまうことも増えた。
それでも、アルノーが部屋に来れば、エドガーはできる限り身体を起こした。
「アルノー。強い男になれ。お母様を大切にするんだぞ」
「うん……」
アルノーも気づいていた。
頭を撫でるエドガーの手がひどく力を失っていることを。
「旦那様、横になられてください」
アルノーを抱えるのさえ苦しそうなエドガーにカイルが手を貸す。
その手をエドガーが掴んだ。
「カイル」
「はい」
「……どうかリディアを頼む」
「ええ、あなたの意志を継いで、必ず幸せにします」
カイルはしっかりと頷いた。
エドガーは満足そうに目を細めた。
そして、安心したように肩の力を抜いた。
リディアは二人を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
――嫌だ。
こんな会話をしてほしくない。
まるで、明日が来ないことを知っているかのようで。
だからリディアは、いつものように笑っていた。
その夜。
アルノーを寝かしつけ、カイルも一度部屋を出たあと、寝室にはリディアとエドガーの二人だけが残っていた。
窓の外には、静謐な闇が広がっている。
昼間よりもずっと静かで、かえってエドガーの浅い呼吸がはっきりと聞こえた。
リディアは寝台の脇に椅子を置き、その手を握った。
以前は大きく、温かかった手。
今は驚くほど細くなっていた。
「リディア」
「はい」
「幸せになれ」
「……はい」
「アルノーを……頼む」
「もちろんです」
「カイルと……」
「もう、わかっています。だから、安心して眠ってください」
エドガーは、ほんの少しだけ笑った。
「……仕返しは、もう十分したか?」
「いいえ」
リディアは涙をこぼしながら言った。
「まだ足りません」
「そうか」
「だから……また明日、仕返しします」
「ああ」
それが、最後の言葉になった。
その朝。
エドガー・ヴァルター侯爵は、眠るように息を引き取った。
「旦那様……?」
リディアはその手を握った。
冷たくなっていく。
「嫌です……」
涙が止まらなかった。
「こんなの……こんなの……」
カイルもまた、拳を震わせて俯いていた。
アルノーが声を上げて泣いて、エドガーにしがみついた。
それをきっかけに、リディアとカイルもエドガーの亡骸に縋りついた。
「旦那様……!」
「エドガー……!」
声を上げて泣いた。
セドリックも顔を背けて、静かに涙を拭った。
葬儀を終えたあと、主のいなくなった部屋でリディアは窓辺に立っていた。
「……この家を、この家を必ず守りますから」
リディアは、もういない夫に向かって誓った。
「アルノーが立派な侯爵になるまで。私が、ちゃんと守ります」
隣に立つカイルが頷いた。
「俺も力を貸す」
「お願いね」
「もちろん」
アルノーが二人の手を握った。
「ぼくも頑張る。とうさまみたいになるんだ、絶対に」
「まあ」
リディアの頬を涙が伝った。
「頼もしいわね」
その時。
セドリックが一枚の絵を持ってきた。
「奥様。こちらを」
「これは……」
アルノーが描いた絵だった。
四人の人間が、ぎゅっと寄り添っている。
「そう、このおじさんはカイルだったのね」
お父様。
お母様。
カイル。
そして、自分。
そこには確かに、家族がいた。
「……飾りましょう。家族だけが集まる、この居間に」
絵は額に入れて飾られた。
何年経っても、誰もその絵を外そうとはしなかった。
やがてアルノーは成長し、侯爵家を継ぐ。
リディアは侯爵夫人として、その傍に立ち続けた。
カイルはその二人を愛で包み、支えた。
そして時折、あの絵を見上げる。
四人で暮らした、短い夏を思い出すために。
リディアは今でも思う。
あの人は、本当に不器用だった。
愛していないと言って、冷たくして。嫌われようとして。
けれど最後には、自分の死後に残される人たちの幸せまで、すべて用意してくれていた。
「……旦那様」
絵の中のエドガーへ、リディアは静かに笑いかける。
「あなたがくれたものを、私は大切にします」
その隣に立つカイルの手を、そっと握った。
もう一人ではない。
守るべき家族がいる。
愛してくれる人がいる。
不器用な夫が遺してくれた、かけがえのない家がある。
壁に飾られた四人の絵は、今日も変わらない。
寄り添うように描かれた四人の姿を見ながら。
リディアは、幸せそうに微笑んだ。




