第1話 完璧な日常と、理不尽な幕切れ
第1話 完璧な日常と、理不尽な幕切れ
神代 透は、完璧だった。
少なくとも、傍目にはそう映っていた。
身長178cm。無駄のないしなやかな筋肉に覆われた体躯。涼しげな目元と整った鼻梁を持つ顔立ちは、異性からの好意的な視線を常に集めていた。
東京都内の進学校に通う高校二年生。彼の日常は、寸分の狂いもない精密機械のように構築されていた。
朝5時。まだ薄暗い中、透は自室で木刀の素振りを始める。剣道部の朝練が始まるのは7時からだが、彼にとってそれは「準備運動」に過ぎない。本当の鍛錬は、誰の目にも触れないこの時間に行われる。
ヒュッ、と空気を切り裂く音が、規則正しく繰り返される。一振り一振りに全神経を集中させ、剣先が寸分違わず同じ軌道を描くように。幼い頃から叩き込まれた剣の基礎。それは彼にとって呼吸と同じ、当たり前の行為だった。
「よし」
千本目の素振りを終え、汗を拭う。時計は6時半を指していた。シャワーを浴びて制服に着替え、家族と共に朝食をとる。
「透、今日の模試、自信はどう?」
母親の問いに、透は「普通にやるだけだよ」と淡々と答える。
その「普通」が、普通でないことを家族は知っている。しかし、透がその努力を表に出すことは決してない。
学校では、「文武両道の天才」として知られていた。
剣道部では二年にしてエースの座を不動のものとし、関東大会を制覇。個人戦では全国大会出場を確実なものとしていた。顧問教師は彼のことを「百年の一度の逸材」と評し、その隙のない構えと、相手の動きを完璧に読み切る「先読み」の剣に舌を巻いていた。
一方、学業。昨日返却された全国模試の結果は、全国で7位。理系科目においては満点。教師たちは彼が国内最難関の大学を選ぶことを疑わなかった。
「神代くん、また学年トップだろ? どうやったらそんな点数取れんだよ」
休み時間、クラスメイトが無邪気に尋ねる。
「授業をちゃんと聞いて、予習復習してるだけだよ」
透は笑顔で返す。
嘘ではない。ただ、その「ちゃんと」のレベルが常軌を逸しているだけだ。
透の勉強は、帰宅後の深夜1時から始まる。部活動の自主練を終え、夕食と入浴を済ませ、仮眠をとった後。家族も寝静まった静寂の中、彼は前世の知識――否、この世界の知識と、彼が独自に構築した学習理論を組み合わせていた。
そう、彼には「前世の記憶」があった。
とはいえ、それは異世界ファンタジーなどではなく、ごくありふれた「現代日本のサラリーマン」としての記憶だった。過労で倒れ、薄れゆく意識の中で「もっと効率よく、もっと完璧に生きてみたかった」と願った、ありふれた男の記憶。
その記憶が、神代透という二度目の人生の「OS」となっていた。
一度目の人生の反省。それは、才能の欠如でも、環境の不運でもない。ただ純粋な「努力の非効率性」だった。
だからこそ、二度目の人生では徹底的に効率を追求した。
剣道は、相手の重心、視線、呼吸、筋肉の微細な動きを読み解く「観察眼」を徹底的に鍛えた。何千、何万という試合の映像を分析し、人間の反応パターンをデータベース化した。
勉強は、教科書を丸暗記するのではなく、その学問が成り立つ「根本原理」を理解することに努めた。物理法則、数学の公理、化学の元素周期。それらを理解すれば、個別の問題など「応用」に過ぎなかった。
周囲が彼を「天才」と呼ぶたび、透は内心で静かに首を振っていた。
(違う。俺は天才じゃない。ただ、誰よりも効率的に努力を積み重ねているだけだ)
表では涼しい顔で、完璧な結果を出す。その裏で、血の滲むような、あるいは機械的とさえ言えるほどの膨大な時間を「努力」に費やす。
それが神代透の生き方であり、プライドだった。
その日。
夏のインターハイ予選、決勝戦。
透は圧倒的な強さで相手をねじ伏せ、東京都代表の座を掴んだ。
「神代、おめでとう! 全国でも頼むぞ!」
部活の仲間たちにもみくちゃにされながら、透は穏やかに微笑んでいた。
帰り道。時刻は夕暮れ時。
まだ高揚感が残る中、透はいつものように今日の試合の反省点を頭の中で反芻していた。
(決勝のあの一本。踏み込みが0.2秒遅れた。あの場面、相手は間違いなく「引き面」を狙っていた。反応はできていたが、体が追いつかなかった。明日の朝練の課題だな)
思考に没頭していた。それが油断だった。
けたたましいブレーキ音。大型トラックが、赤信号を無視して交差点に突っ込んできていた。運転手は居眠りをしているのか、ぐったりとハンドルに突っ伏している。
(まずい)
反射的に体は動いた。歩道にいた小学生の女の子を突き飛ばす。
直後、全身を強烈な衝撃が襲った。
鉄が軋む音。骨が砕ける感触。
(あ……あ)
視界が急速に赤黒く染まっていく。
鍛え上げたはずの体は、巨大な鉄の塊の前ではあまりにも無力だった。
(こんな……終わりか? 俺の……二度目の人生も……)
完璧を目指したはずの日常が、こんなにも理不尽に、あっけなく終わる。
(努力……したんだけどな……。まだ、足りなかったか……)
意識が途切れる寸前、彼は自嘲するように、そう思った。
次に透が目を開けた時、そこは純白の空間だった。
見渡す限り、どこまでも続く白。上も下も、右も左もわからない。
「――見事な生き様でした」
凛とした、それでいて包み込むような優しい声が響いた。
声の方を向くと、そこに一人の女性が立っていた。
言葉を失うほどの美貌。
金糸のように輝く長い髪。慈愛に満ちた蒼い瞳。純白のドレスを身にまとったその姿は、神々しいとしか表現しようがなかった。
「あなたは……?」
透が尋ねると、女性は微笑んだ。
「私は、世界を管理する者。あなたたちの言葉で言えば『神』にあたる存在です」
「神……。では、俺は死んだんですね」
「はい。残念ながら、肉体的には」
淡々と事実を受け入れる透に、女神は少し驚いたように目を丸くした。
「取り乱さないのですね。あなたは、まだ18歳にもなっていなかったというのに」
「取り乱したところで、結果は変わりませんから。それより、あの女の子は……俺が突き飛ばした子は、無事だったんでしょうか」
「ええ。あなたのおかげで、無傷でした」
「……そうですか。良かった」
その言葉に嘘がないことを、女神は透の魂の輝きから読み取った。
「あなたは、本当に稀有な魂の持ち主です」
女神がそっと手をかざすと、透自身の姿がぼんやりと光り輝いた。
「これが……俺?」
「あなたの魂の形です。通常、人の魂は様々な感情や経験によって、多少なりとも歪みや濁りを生じます。しかし、あなたの魂は……まるで研磨された水晶のように、一点の曇りもなく、純粋な『努力』の光で輝いている」
女神はうっとりと、その魂を見つめた。
「あなたは、二度の人生において、ただひたすらに高みを目指し、努力を続けた。他者を妬まず、環境に絶望せず、ただ己を磨き続けた。その魂の輝きは、私が見てきた幾億の魂の中でも、類を見ないほど美しいものです」
「そんな大したものじゃありません。俺はただ、完璧でありたかっただけです」
「その『だけ』が、どれほど困難なことか」
女神は慈しむように透に歩み寄った。
「神代透さん。あなたのその美しい魂が、不慮の事故によって失われるのは、世界にとっての損失です」
「……どういう意味です?」
「あなたに、三度目の人生を歩む機会を差し上げたいのです」
透は目を見開いた。
「三度目……?」
「ええ。ただし、あなたがいた世界とは異なる世界です。剣と魔法が存在し、魔物と呼ばれる異形の者たちが跋扈する……あなたたちの言葉で言う『ファンタジー』の世界、『アストレア』です」
剣と、魔法。
その言葉に、透の心の奥底が微かに疼いた。
一度目も、二度目も、物理法則という絶対のルールの下で生きてきた。もし、そこに「魔法」という新たなパラメータが加わったら?
(俺の追求してきた「効率」と「努力」は、どこまで通用するんだろうか)
「もちろん、特典を差し上げます」と女神は続けた。
「あなたのその『神代透』としての記憶と経験。そして、類まれなる努力を支えた精神力。それらを持ったまま、新しい世界に転生させてあげましょう。さらに、私の祝福として、その世界の理である『魔力』への高い適性もお付けします」
記憶を持ったまま、新しい世界へ。
しかも、今度は「魔法」という未知の要素がある。
透の口元に、二度目の人生では見せなかった笑みが浮かんだ。それは、新たな挑戦を前にした武者震いにも似た、純粋な歓喜の笑みだった。
「その話、受けさせていただきます」
「よろしいのですか?」
「はい。俺は……まだ、努力し足りないみたいなので」
その答えを聞き、女神は心から嬉しそうに微笑んだ。
「承知いたしました。あなたの新たな門出を祝福します。……ああ、そうだ。その世界では、私は『創造神アストレア』として信仰されています。もし困ったことがあれば、私に祈りを捧げてください。まぁ、あなたほどの魂なら、私の助けなど不要でしょうけれど」
「ありがとうございます。アストレア様」
透が頭を下げると、女神の体がまばゆい光を放ち始めた。
「さあ、お行きなさい。あなたの三度目の研鑽の場所へ。今度こそ、あなたの望む『完璧』に届くことを祈っています」
光が透の体を包み込む。
意識が再び遠のいていく。
(剣と、魔法。そして、俺の努力。――面白い)
神代透の魂は、新たな世界へと旅立っていった。




