25話 「神の座を奪る黄金の眼」
第2章の始まりになります。
帝都ヴァルメリアの中央に、世界の静謐を監視するようにそびえ立つ八角形の白銀巨塔――《封律塔》。
この塔は帝国の秩序そのものであり、その最上階、遥か成層圏の虚空には、巨大な完全球体《断律球》が沈黙を保ちながら鎮座している。
この球体内部へ至る道は、物理的な通路ではない。塔の八角形の頂点に設置された転送陣に、選ばれし強者が立つとき、肉体は一時的に情報の奔流へと分解され、内部へと再構成されるのだ。
転送された先に広がっていたのは、地上の理を完全に排除した異様な隔離世界であった。
そこは、物理法則が整然と並ぶ場所ではない。むしろその正反対――かつて世界を崩壊の淵へと追いやった“龍の残滓”が、逃げ場を失い、濃密な律となって渦巻く閉鎖空間である。
さらにこの空間は、外の世界の理とは完全に断絶された特異点でもある。序列一位や二位といった、文字通り“天災”に匹敵する力を持つ怪物たちが全力で衝突しても、下層の帝都に一欠片の瓦礫すら落とさないための、絶対的な隔離空間としての役割も果たしているのだ。
壁面は夜空を切り取ったかのように深い闇に包まれ、無数の律の結晶が星々のように瞬いている。大気に満ちる過剰なエネルギーと“龍“の狂気的な圧は、並の術者であれば精神を瞬時に摩滅させ、肉体を内側から損壊させる。
ここは事実上、《断罪の十環》をはじめとする、常軌を逸した器を持つ怪物たちのみが生存を許される“聖域”という名の檻であった。
その隔離空間の端、一段高い立会人席には、一人の女性が優雅に腰を下ろしていた。
序列二位、ベアトリクス・クロムウェル。
彼女は退屈そうに指先で長い髪を弄びながら、闘技場の中央を見下ろしている。その瞳には、序列一位グラヴィスの絶対的な勝利を疑わぬ、強者特有の余裕が湛えられていた。
(……だけど気に入らないわ。強さこそがこの国の法。それは理解しているわ。けれど、グラヴィス。貴方は一体何を考えているの?)
彼女の手元にある極秘調査資料には、目の前の少年の凄惨な出自が記されていた。
五年前、帝国による熾烈な掃討作戦によって“粛清”されたゼラントス家の生き残り。
そして、もう一人の生き残りである双子の片割れ、ヤマトの存在までを彼女は把握している。
ベアトリクスを苛立たせているのは、彼の若さではない。このシアリーにおいて、強さは全ての免罪符だ。
だが、その強さを証明するための順序が、根底から破壊されていることへの嫌悪だった。
(十位から積み上げ、九人を踏み越えて辿り着くのが序列一位の座。それを、どこの誰とも知れない部外者がいきなりこの場に立つなんて。この『跳躍』を認めたということは、グラヴィス……貴方は、私たち九人の存在を無価値だと断じたも同然よ)
本来、この序列入れ替え戦である《序列入替戦》は極めて厳格な法理の下で行われる。
序列十位のみは候補生やその他の圧倒的強者からの挑戦を許されているが、それ以外の席次は、十環に名を連ねる怪物同士が互いの「律」を削り合うことでしか変動しない。
ましてや、司法局に正式な登録すらされていない部外者が、序列の頂点、不動の一位――【グラヴィス・レーン】に直接挑むなど、帝国の歴史上、ただの一度も許されたことのない暴挙であり、異例中の異例であった。
その「異例」の当事者として中心に立つ十五歳の青年、アイクは、退屈そうに首を鳴らした。 「……期待以上だ。ヒナカミの“無律の地”とは真逆だな。これほど『龍』の気配が濃いと、呼吸するだけで力が湧いてくる」
不敵な笑みを浮かべるアイクの姿は、五年前の面影を残しつつも、劇的な進化を遂げていた。
幼かった頬の線は剃刀のように鋭く削ぎ落とされ、精悍な顔立ちには戦士としての冷徹な色気が宿っている。
漆黒の戦闘衣の下には、過酷な研鑽によって無駄を極限まで削ぎ落とされた、鋼のような密度を誇る肉体が躍動していた。
ただそこに居るだけで、周囲の“律”を物理的に押し広げるようなその圧に、ベアトリクスは無意識に指先を震わせた。
対峙する最強の男、グラヴィス・レーンは、漆黒の外套を沈黙させ、鋭い眼光をアイクに突き立てた。
「……その気配。単なる技術の向上ではないな。この世界の『律』が届かぬ場所、あの忌まわしき“無律の地”の臭いがする」
「へえ、わかるのか。あんた、意外と鼻が利くんだな」
「ゼラントス家を襲撃した際、貴様の資質には目をつけていたが……。まさか、海の向こうからこれほどの『不確定要素』となって戻ってくるとはな。始めよう、《序列審判》を。序列一位の座、私から奪えると思うならな」
開戦の合図はない。
刹那、アイクの姿が掻き消えた。それはスキルによる加速ではない。ヒナカミで影神ヌイから盗み取った、予備動作を完全にゼロにする肉体操作術だ。
瞬間、グラヴィスの指先が動く。
アイクの足元の重力が爆発し、不可視の重力槍がその胸を狙う。
だが、アイクは動かなかった。動く必要がなかった。
僅かに上体を逸らし、その重力槍を間一髪で回避。着地の衝撃を次の一歩の爆発力へと変換し、グラヴィスの懐へと肉薄する。喉元を狙った、神速の一閃。
だが。
グラヴィスの周囲わずか数センチの空間で、アイクの剣が物理的な壁に当たったかのように、ピタリと停止した。
「……何?」
「これが私の『法』だ。私の周囲において、動体はすべて静止の律に従う」
グラヴィスが指先を僅かに跳ね上げる。アイクの肉体へ、天地を逆転させるほどの重圧が垂直に叩きつけられた。
《重力圧殺》
ドォン、と大気が物理的な質量を持ってアイクを床に叩き伏せようとする。グラヴィスが不動の一位に君臨し続けてきた所以――それは、近づくことすら許さない「静止」と「圧殺」の絶対支配。並のランカーであれば、この一撃で認識する間もなく肉の塊へと変じている。
しかし、アイクは不敵に笑い飛ばした。鋼のように引き締まったその全身が、重力の壁を物理的に押し返しているかのようだった。
重力の牢獄――《重力の牢獄》
さらにグラヴィスが掌を握り込む。アイクの周囲、八方の空間に立方体の重力壁が出現した。内部の重力は数万倍に膨れ上がり、アイクの足元の床が耐えきれず粉々に砕け散る。
「……さすがに、スキル無しじゃこれ以上は遊べねえか。……見せてやるよ、俺の研鑽を」
アイクの全身から、眩いばかりの光が噴き出した。圧倒的な《星幽容量》の奔流だ。
《至高の法典》――
彼は力を溜める動作すらなく、ただ剣を一閃させた。
「《裂空》!」
空間を断ち切る絶対的な一撃。グラヴィスが展開した重力の檻は、物理的な布のように真っ二つに切り裂かれ、その重力場は音を立てて霧散した。
「重力の『事象』を斬り裂くか。ならば――」
グラヴィスは冷徹に次なる律を重ねスキルを即座に発動する。手のひらから凝縮された重力の槍を放ち、さらには空間そのものを円形に圧縮する波状攻撃を展開した。
「《重力槍》! 《空間圧壊》!」
だが、アイクが静かに告げる。
《星幽零式》
槍がアイクに届く直前、まるで最初から存在しなかったかのように「無」へと解体され、空間の圧縮すらも、アイクに触れる端から無効化されていく。
(これだ……五年前、私が律の行使を阻害された原因は……!)
グラヴィスは確信した。あの日、ゼラントス家で幼い双子が放った正体不明の違和感。自らの絶対的な重力が届かなかったあの瞬間の空白。それが、目の前の青年が展開するこの「虚無」の領域であると。
「……私のあらゆる干渉を『虚無』に呑み込ませるか。だが、これならどうだ」
グラヴィスは即座に戦術を切り替えた。今度はアイク本体ではなく、闘技場の周囲に漂う「龍の残滓」を含んだ大気そのものに重力を付加し、物理的な衝撃波として叩きつける。 「《重力崩壊波》!」
再びアイクを襲う衝撃。だが、アイクはそれを《星幽零式》の出力を上げることで、文字通り消滅させてみせた。
「面白い……。あらゆる事象、あらゆる律の干渉を無に帰す力か。だが――」
グラヴィスは、アイクが攻撃を無効化するプロセスを冷静に観察し続けていた。
彼はあえて、アイク本人ではなく、砕けた床の「岩の破片」に重力を付加し、物理的慣性によって超速で弾き飛ばした。
「らあっ!」
アイクは再び《星幽零式》を展開し、飛来する礫を迎撃する。
礫に付与されていた重力加速度は、確かに消滅した。
だが、それまでに与えられていた“速度”と“質量”までは消えず、アイクの領域を抜けて突き進む。
ズサァッ!!
鮮血がアイクの肩を掠めて舞った。
「……なるほど、見えたぞ。貴様のその力、消せるのは『律による現象』だけだな」
グラヴィスの声に、冷徹な確信が宿る。
「一度放たれ、慣性を持った『実体』の質量までは消せん。……これならばどうだ」
グラヴィスは、アイクが展開する領域の外にある巨大な瓦礫を次々と操り、物理的な質量による全方位射撃を開始した。
アイクは次々と襲いかかる岩片を剣で弾き、時に回避するが、防戦一方に追い込まれる。領域が消せない“物理法則”の暴力が、彼の肉体を着実に削っていく。
「はっ……ようやく掠ったか。やっぱり、あんたは一筋縄じゃいかねえな」
アイクは口角から流れる血を拭い、不敵に笑った。
「だがな、グラヴィス。その穴を埋めるために……俺は『これ』を手に入れたんだ。あんたがどんなに世界を読み解いても、届かない場所にある力をな」
アイクの瞳の奥で、異様な脈動が始まった。
「俺も, これ以上は遊んでやれない」
深い深淵の底から、鋼の針を擦り合わせるような、耳鳴りに似た高周波が響き渡る。
「――リーーーン」
アイクが自身の魂のさらに奥底、世界の理と繋がる「第三階層」へと強制接続した。
刹那、彼の両目が真紅に染まり、縦に裂けた瞳孔がグラヴィスを射抜いた。
――龍眼の覚醒。
その眼に見つめられた瞬間、断律球内に渦巻いていた“龍の残滓”が、まるで王を前に平伏するかのように、一斉に静まり返った。
「何……あれ。私の瞳が……視ることを拒絶している……!? あれはスキルじゃない、世界そのものを支配する『上位の法』よ……!」
それまで優雅に眺めていたベアトリクスは、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がっていた。相手のスキルを鏡のようにコピーする《万象模写》の持ち主である彼女の瞳が、アイクから放たれる圧倒的な熱量を捉えきれず、激しく明滅し、涙を流す。
アイクの口から、感情を削ぎ落とした、絶対者の言葉が溢れる。
「起動完了。……これより、本件を『違法』と断定する。執行――」
《零式執行》
それは、生命そのものを狙った一撃ではなかった。
アイクが剣を振るった瞬間、彼へと牙を剥いていた“質量”のすべてがその意味を喪失した。飛来する巨大な岩石、それらを加速させていた重力、そして、それらを支える物理的な慣性法則――アイクの視界に入り、彼への「攻撃」として定義されたすべてのエネルギーが、この世界の法理から瞬時に抹消された。
ヒュン、という短い音と共に、数万トンの岩塊が粉塵すら残さず“無”へと還る。
グラヴィスが維持していた一位としての権能。その根幹である“重力の行使”という暴力そのものが、アイクという名の“法”によって否定され、書き換えられた。
「……馬鹿な……。俺の、スキルそのものが……」
グラヴィスが膝を突き、断律球の床に崩れ落ちた。傷一つないはずの彼の肉体は、しかしもはや指一つ動かすことすら許されない。自らの放った暴力が、アイクによって“存在してはならないもの”として断罪され、その反動が、彼自身の力を行使する資格そのものを凍結させたのだ。
完全なる敗北。順序を全て無視して序列一位の“暴力”を法的に消去したその瞬間、シアリーの歴史は根底から覆された。
闘技場に立つアイクは、荒い息を吐きながら、真紅に染まった瞳で虚空を見上げた。
「なぁヤマト。……次は、カレンを救い出す番だ」
その光景を、塔の下層にある極秘監視室で、ヤマトは静かに見届けていた。今のヤマトの胸に去来したのは、歓喜ではなく、胃の底に澱のように溜まる重い『劣等感」だった。
(……ああ。そうだ。俺には、その力は手に入らない)
ヤマトはこれからアカデミーへ入り、自らの才を証明していくつもりだった。だが、画面越しに伝わるアイクの“絶対的な個”の力は、ヤマトの想定を遥かに超えていた。質量も慣性も、この世界のあらゆる理を“暴力”と断じて消し去る。
その神速の裁定に、自分は一生かかっても届かない。
残酷な実力差が、ヤマトの鋭い知性を鋭利な刃となって突き刺した。
その絶望の淵で、ヤマトの脳裏に“前世の記憶”が激しく明滅する。
魔法も、スキルも、龍の力もない世界。
そこでは、どれほど卓越した個の英雄であっても、最後には、精緻に組み上げられた国家という名の組織と、冷徹な数の暴力の前に膝を屈してきた。
歴史を動かすのは一人の英雄ではなく、物流を支配し、法を操り、万の兵を一つの意志で動かすシステムなのだと、彼は知っていた。
(……お前が太陽なら、俺はそれすらも内包する『空』になる。一対一では勝てなくても、万の意志を束ねて未来を制御する。それが俺にしかできない、別の強さだ)
ヤマトは静かに監視モニターから背を向けた。
机の上には、一通の志願書が置かれていた。 《ヴァルメリア帝国司法養成院》。
帝国の次代を担うエリートが集う場所。生徒たちの間では、司法の象徴であり、入る者の価値を厳酷に測る場所として、畏敬を込めてこう呼ばれている。
「――《天秤》か」
ヤマトはその名前を口の中で転がした。
今の彼には、まだ手足となる仲間も、世界を動かす組織もない。
だが、この場所なら作れるはずだ。巨大な秩序の形を。
ヤマトの瞳に宿ったのは、復讐でも、支配への欲望でもない。
ただ、大切なものを守り抜くために、自分なりの“最強”を掴み取ろうとする、静かな、しかし決して折れることのない闘志だった。
孤独な天頂へと駆け上がったアイク。
そして、組織という名の秩序を築くために歩き出したヤマト。
二人の道は今、真の意味で分かたれ、そして新たな物語がここから動き出す。




