22話 「双子の距離」
ヒナカミという地が持つ特殊な環境、通称“律の不毛の地”。
アイクは当初、それを戦士から翼を奪う残酷な制約だと考えていた。
しかし、数多の死線を潜り、鬼神グエンという絶望的な壁を前にした今、彼はその認識を根底から改めていた。
この地では、どんなスキルも発現しない。
力の権能たるアイクのスキル《至高の法典》の裁定も、万象を見通すヤマトのスキル《記憶階梯》の解析も、この絶対的な「静寂」の前では無になってしまう。
十歳でスキルが発現するまで、彼らにとってこの状態は日常だった。
しかし、一度スキルの万能さを知った身体にとって、それは翼を奪われたも同然の不自由さだった。
これまで意識せずとも肉体を補完していた反射の加速、筋力の底上げ、空間の把握。それらすべての“鎧”を剥ぎ取られたとき、アイクは再び、剥き出しの肉体と向き合うことを強いられた。
(……スキルが使えないなら、俺はただの人間だ。だが、それでいい。この経験によって、もっと強くなれるなら)
アイクは意識を自らの内側、細胞の隅々にまで浸透させた。
これまでの彼は”剛”という言葉を”大きな力で叩き潰すこと”だと解釈していた。しかし、スキルという補助輪を失ったことで、その”大きな力”をどう生み出すかという根本的な課題にぶち当たった。
彼は模索した。身体の使い方を、基礎の段階から再構築する。
水月流が説く”柔”と”剛”の循環。それを身体だけで再現するにはどうすればいいか。
彼がたどり着いた答えはシンプルだった。
“ただ一歩の踏み込み”を、純粋な武器に変えること。
通常の人間が行う”踏み込み”には、あまりにも無駄が多い。地面を蹴る際の膝の余計な沈み込み、上体の前傾による重心のズレ、そして力を伝えるまでの時間差。
だが、アイクが求めたのは、それらすべてを削ぎ落とした最短・最速の爆発だ。
膝を曲げて”溜める”のではない。足裏が地面に触れた瞬間に、自分の体重すべてを真下へ叩きつける。
逃げ場を失った衝撃が地面から跳ね返り、自らの肉体を弾丸のように前方へと“射出”する。
それはスキルによる魔法のような加速ではない。
自らの肉体を、ただ最短距離で、最大出力でぶつける。
肉体という名の弾丸が、そのまま敵を粉砕する「破壊の塊」へと化した瞬間だった。
「どうした小僧! その程度の覚悟で、俺の筋肉が貫けると思うな!」
グエンの怒号が闘技場を揺らす。
丸太のような腕から繰り出される拳は、防ぐことさえ許されない暴風となってアイクの視界を塞いだ。
だが、アイクの瞳は驚くほど静かだった。
彼はただ、沈み込んだ。
ドォォン!!
次の瞬間、アイクの足元の石畳が、爆撃を受けたかのように放射状に砕け散った。
グエンの目が驚愕に見開かれる。
加速の予兆がない。アイクの姿が、一瞬にして視界から“消失”したのだ。それは残像すら残さない、物理法則をあざ笑うような位置の転換。
「――なっ!?」
グエンが反応するより早く、アイクは最短距離で懐へと滑り込んでいた。
銀白の刃が、夕陽の残光を吸い込んで冷たく輝く。
アイクは水月流の”型”すらも捨て去っていた。今の彼にあるのは、ただ”斬る”という意志と、それを具現化するための絶対的な出力のみ。
白銀の刃が、グエンの交差された両腕に激突した。
ガギィィィィィィィィィン!!
金属同士が噛み合ったような、嫌な音が闘技場に響き渡る。
グエンの鋼の筋肉と、アイクの白銀の刃。互いの質量が限界を超えて衝突した境界線で、眩い火花が爆ぜた。
グエンの腕は、数多の修羅場を越えて鍛え上げられた金剛不壊の盾だ。
通常の剣士であれば、この反動だけで手首を砕かれ、武器を弾き飛ばされていただろう。
グエン自身も、この瞬間に勝利を確信していた。
「甘いッ! 止まれば貴様の負けだ!」
グエンが腕を弾き返そうとした、その時だった。アイクの瞳の奥で、蒼い焔が爆ぜた。
「……押してダメなら、押し抜け!!」
アイクは刃を引かなかった。それどころか、地面を砕いた垂直圧の残響をそのまま背骨を通じて剣先へと流し込み、全身の質量を一点に集中させて、グエンの腕ごと「押し潰し」にかかった。
「……ぐ、おぉぉぉぉっ!?」
グエンの巨躯が、アイクの“重圧”に耐えかねて浮き上がる。
次の瞬間、アイクが放ったのは、技の名前すら持たない純粋な破壊の奔流だった。
ドォォォォォォォォン!!
空気が、舞台が、そしてヒナカミの静寂が爆ぜた。
アイクの放った“押し”は、グエンの防御を粉砕し、その巨大な身体を砲弾のごとく後方へと弾き飛ばした。
猛烈な衝撃波を伴って吹き飛んだグエンの巨躯は、闘技場を囲む石壁を紙細工のように突き破り、そのまま裏手に位置する待機所の外壁をも粉々に粉砕した。
静寂が、闘技場を支配した。
舞い上がる粉塵が夕陽に照らされ、金色の砂のように宙を舞う。その中心で、アイクは静かに剣を垂直に立て、切っ先を地面へと向けた。
それは水月流における“納刀の前の一礼”であり、同時に、この戦いの終結を告げる無言の宣告でもあった。
舞台の端で、そのすべてを音もなく見届けていた立会人――剣神カゲツが、ゆっくりと歩み寄る。
その双眸には、驚愕と、それを上回る深い感銘が宿っていた。
カゲツは粉塵の向こう、壁に埋まり意識を失ったグエンを一瞥し、そしてアイクの前に立った。
「……見事だ。大陸出身者がこの地の『スキルが使えない』という絶対的なルールを、己の肉体一つでねじ伏せおったか」
カゲツの声は、静かだが闘技場全体に染み渡るような威厳に満ちていた。
「通常、剣を振るえば衝撃は逃げる。だが貴殿は、地面を蹴った反発力を一滴も漏らさず、自らの骨格を通じて剣先へと伝導させた。それをスキルという補助輪なしに、生身の肉体だけで完遂させるとはな」
カゲツは、アイクが踏みしめ、爆発的に砕けた石畳を愛おしむように見つめた。
「スキルは世界から借り受けた力に過ぎぬ。ゆえに、この地の『道具の使用を禁ずるルール』には誰も逆らえん。だが、アイクが今放ったのは、己の血肉が紡ぎ出した純粋な『個の力』だ。神に頼らず、己を極限まで研ぎ澄ませた者だけが到達できる、武の原初。……グエンよ、不覚と思うな。
お前は今、新しい時代の怪物の誕生に立ち会ったのだ」
アイクはカゲツの言葉を静かに聞き届け、剣を引いた。その瞳には、すでに戦いの熱は残っていない。
「……勝者、アイク!!」
立会人の剣神カゲツによるその宣告は、審判の裁定よりも重く、絶対的な「勝利」として場を支配した。
「な……っ!?」
その頃。
待機所の暗い通路で、ヤマトは壁に背を預け、静かに目を閉じ、次なる戦いに向けて意識を極限まで研ぎ澄ませていた。アイクの戦いについて、心配はしていない。
アイクはアイクで、己の強さを貫き通すだろう。それを信頼しているからこそ、ヤマトは一切の雑念を捨て、自分の役割を果たすためだけに集中していた。
(……予選会場で感じた、あの影神ヌイのような異質な気配。もし、あのような『影』を操る者が相手なら、まともな打ち合いにはならないはずだ)
ヤマトはこれまでの経験と知識を総動員し、脳内で幾つものシミュレーションを走らせる。
(例えば視覚を奪われた暗闇での戦いになったら…。あるいは、死角から音もなく放たれる一撃。……大事なのは、固定された戦術じゃない。相手の初動、わずかな空気の揺らぎを観て、即座に最適解を導き出す柔軟さだ。)
それは対等な相棒としての自負だった。
一人が武を、一人が知を担う。知略という刃を研ぎ澄ませることが、アイクの剣と同じ重みを持つ武器になると、ヤマトは疑っていなかった。
だが、その自負は、突如として訪れた“理不尽”を見ることによって無惨に引き裂かれる。
――カッ!!
凄まじい白光。直後、ヤマトの目の前が爆音と共に弾け飛んだ。
轟音を立てて壁が消失し、もうもうと立ち込める粉塵の中から、血を流し意識を失ったグエンの巨躯が転がり込んでくる。
壁があったはずの場所には、巨大な風穴が開いていた。
「……っ!?」
ヤマトは息を呑み、その穴の向こう――遠く離れた闘技場の中心に立つ人影を見つめた。
逆光の中に浮かび上がるアイクのシルエット。
闘技場から待機所までを一直線に貫いた、圧倒的な力の痕跡。
ヤマトの脳は、その光景を理解しようとして、そして拒絶した。
自分がどれほど相手の出方を読み、どれほど柔軟な対応力を磨こうとも、双子であり、自分と対等に歩んできたと思っていたアイク。
そのアイクが放ったこの一撃は、それらすべてを“関係ない”と切り捨ててしまうだろう。
対応する隙すら与えない。
技術や策を弄する余地など微塵もない。ただの物理現象としての“最強”が、そこには立っていた。
(……なんだよ、これ。アイク、お前は……そんなところまで行ってしまったのか)
穴の向こうで、アイクがゆっくりと剣を引く。
その瞬間、二人の視線が、砕けた瓦礫と粉塵越しに重なった。
アイクの瞳には、かつてヤマトが支えあいたいと願った“弱さ”は微塵もなかった。
そこにあるのは、ただ圧倒的な「力をもった者」としての光。
ヤマトがどんなに策を練っても、決して届かない場所へ突き抜けてしまった怪物の貌だった。
アイクは一瞬だけヤマトに視線を向けたが、すぐに倒れたグエンへと歩み寄った。
かつてのアイクなら、わかっていながらもすぐに駆け寄り「大丈夫か」と声をかけただろう。だが今のアイクに、そんな甘さは残っていない。
ヤマトは震える手で、足元に転がった瓦礫を掴んだ。
物理的な壁を壊したのはアイクだが、ヤマトにとっては、それ以上に高く、分厚い「絶望という名の壁」が二人の間に聳え立った瞬間だった。
(……置いていかれる。今のままじゃ、すぐにはあんな怪物の隣には立てない)
ヤマトの瞳から、温かな輝きが消える。代わりに宿ったのは、暗く、澱んだ、だが猛烈な熱を帯びた執念だった。
アイクは今後間違いなく個としての最強へと突き抜けていくだろう。
自分は武を鍛えながらもそれ以外の力を手に入れる必要がある。
組織を、システムを、世界を味方につけてでも、あの背中をもう一度捕まえ、自らの足で対等の隣に立ち並んでやる。
(待っていろよ、アイク。どんな手段を使っても、俺はお前に追いついてみせる。使えるものは何だって使ってやる。)
西の空から完全に陽が消え、深い闇が訪れた。
一人は、孤独な高みへと至る“最強”の道を。
もう一人は、その背中を捕らえんと、人知れず深淵へと足を踏み入れる道を。
双子の絆が、互いを想いながらも少しずつ、しかし違う方向へと向き始めた。
その先に待つカレンとの再会が、二人をどんな形で対峙させるのか、今はまだ誰も知らない。




