21話 「剛の頂、破壊の鬼神」
石造りの舞台が、悲鳴を上げている。
アイクの視界は、己の額から流れる鮮血によって不気味な赤に染まっていた。
圧倒的――。
その三文字以外に、目の前の光景を説明する術をアイクは持たなかった。
鬼神グエン。武器を一切携えず、ただその巨大な肉体を晒して立つ男。
その拳が空気を切り裂くたびに、舞台上には真空の断層が生じ、爆鳴が鼓膜を無慈悲に打ち抜く。
アイクがこれまで死に物狂いで積み上げてきた水月流の“柔”――相手の力を利用し、柳のごとく受け流す技術のすべてが、グエンの放つ純粋な暴力の前では紙細工のように無力化されていた。
「……はぁ、……はぁっ!」
防戦一方。アイクは辛うじて致命傷だけを避けてはいるが、防壁として差し出した両腕の感覚はとうに麻痺し、骨の軋む不快な振動が脳の芯まで響き渡っていた。
このヒナカミという特殊な地域では、あらゆるスキルの発動が封じられる。
本来ならば、あらゆる戦闘・空間・存在に対して“裁定”を下し、対象の行動や能力を“違法”と認定して無効化するアイクのスキル――《至高の法典》も、今はその巨大な星幽容量を肉体の奥底に沈めたまま、重い沈黙を保っている。
頼れるのは、己が鍛え上げた肉体の強度と、研ぎ澄ました剣の冴えのみ。
だからこそ、グエンという男が数十年という歳月をかけて、ただ“一撃で敵を滅ぼす”ためだけに積み上げてきた剛の厚み、その存在そのものの重みが、今のアイクには耐えがたいほどの重圧となって、一挙手一投足に込められた凄まじい威圧感に、立っているだけで心が削り取られ、戦う意志そのものが粉々に磨り潰されそうになっていた。
「小僧、お前は何のためにこの試合に臨む? 俺にはまだ勝てんぞ、その程度の力では!」
グエンの怒号は、物理的な衝撃となってアイクを打つ。
グエンが静かに歩を進める。
その一歩一歩が舞台を揺らす地響きとなり、アイクの本能に“死”を刷り込んでいく。アイクは震える膝を剣の柄で叩くことで強引に鎮め、口内に溜まった血を吐き捨てて睨み返した。
「……黙れ。俺には、力が必要なんだ。カレンを助けるために、力が必要なんだよ!」
その叫びは、弱者が己を鼓舞するための悲鳴に近かった。
グエンの瞳に、わずかな失望の色が混じる。
「人を助けるため、か。……ならば問おう。なぜその力が、今ここにない?」
グエンの無造作な踏み込み。回避不能の速さ。アイクが反応するより早く、丸太のような腕から繰り出された掌打が、アイクの腹部へ突き刺さった。
「が……はっ……!」
内臓がひっくり返るような衝撃。呼吸が止まり、意識が白濁する。
アイクの体は紙屑のように吹き飛び、石造りの舞台を数メートルにわたって転がっていった。舞台の端で止まったアイクの視界に、ゆっくりと近づいてくる巨躯が映る。
「これから強くなったら助けられる……。貴様、無意識にそう考えてはいないか? ――笑わせるな」
グエンの声は、冷徹な判決のように響いた。
「小さいということを言い訳にするな。子供だろうが、修行中だろうが、奪う者は容赦なく奪う。死神は、お前の成長を待ってはくれんのだぞ」
――小さいということを、言い訳にするな。
その言葉が、アイクの記憶の最深部に封じ込めていた“あの日”の地獄を呼び起こした。
グラヴィスにゼラントスの実家が襲われた夜。
燃え上がる家屋。命を賭して道を拓いた父を助けようと、自分は死に物狂いで敵へと飛び出した。だが、放った一撃は届かず、逆に両親を殺される様をただ見ていることしかできなかったあの日。
戦わなかったのではない。戦って、徹底的に、残酷なまでに自分の非力さを叩き込まれたのだ。
あの日、自分がどれほど“力”を欲したか。
足りなかったのは“勇気”でも“時間”でもない。“今、目の前の敵を殺すための圧倒的な力”だったはずだ。
「守るということがどれほど過酷か、その身に刻め。守る対象を狙う敵より、お前が圧倒的に、絶望的に強くなければ、守ることなどできんのだ。お前の覚悟は、その程度の重さか」
グエンの言葉は鋭い刃となって、アイクの心に潜んでいた「いつか強くなればいい」という甘えを抉り出した。そして、グエンは武人としての直感で、アイクの剣に混じる“奇妙な濁り”の正体を看破していた。
「……アイク。お前、どこか無意識に力を抜いているな。……隣に立つ者に、合わせているのではないか?」
その問いに、アイクの心臓がドクンと大きく跳ねた。
「……何を……」
「お前の剣には、底の見えない『剛』が眠っている。だが、お前はそれを外に出すのを恐れているな。自分の力が、隣に立つ者を置いてきぼりにしてしまうことを。……自分の半身たる者を、守るべき弱者としてしか見れぬゆえに、自分だけが『化け物』になることを拒んでいるな」
脳裏に、黒髪の双子の弟・ヤマトの姿が鮮明に浮かぶ。
アイクは心のどこかで、気づいていた。ヤマトは頭脳と解析能力において自分を遥かに凌駕する。だが、もし、一切の情を捨て、ただ「ただ目の前のすべてを粉々に打ち砕く暴力の塊」としてぶつかり合えば、自分はヤマトを遥か後方に置き去りにし、最愛の半身すらも砕いてしまうほどの才能を持っているのだということを。
それを、アイクは無意識に恐れていた。
差が開けば、いつかヤマトと並んで歩けなくなる。
自分だけがこの鬼神のような高みに登ってしまえば、双子の絆が、対等の関係が、壊れてしまうのではないか。
“双子”という調和を守るために、己の剣に目に見えない枷をかけていた。
「……そんなものは、ただの独りよがりだ」
グエンが、巨大な拳をゆっくりと握り直す。
その背後、西の空には沈みゆく太陽が不気味な光を放っていた。
「お前が手を抜いた分だけ、守りたい者の命が削られると思え。隣に立つ者を信じているなら、全力で先へ行け。置いていかれるような柔な奴なら、どのみちこの先では死ぬだけだ。貴様が縛ったその力は、他ならぬその弟を殺すための、無責任な『優しさ』に過ぎん」
視界が、一瞬にして真っ白に染まる。
弟への遠慮。成長への先延ばし。
守るための“優しさ”と履き違えていた“弱さ”。
そのすべてが、グエンの放つ圧倒的な“剛”の前で塵となって消えていく。
(……そうだ。ヤマトは、俺が手を抜くことなんて望んでない。あいつを信じるなら、俺は……俺こそが、あいつがすぐには辿り着けない高みで、すべての敵を先んじて粉砕しなきゃならないんだ……!あいつは、いずれ追いついてくる!)
今、この瞬間に最強であること。
誰に遠慮することもなく、ただ圧倒的な“破壊の化身”として、奪う者すべてを叩き潰す力こそが、守るための最低条件だ。
アイクの瞳から、最後の一滴まで迷いが消えた。
淡い青の瞳が、かつてないほど冷徹で、かつ猛烈な破壊の光を宿す。
「……待たせたな、鬼神グエン。……ここからは、俺の全力だ」
アイクの身体から、凄まじい熱気が陽炎となって立ち昇る様だ。
それはヤマトへの信頼を依存から競い合いへと昇華させた、孤独な最強への決断だった。
「……そうだ。それでいい、小僧」
グエンの顔に、今日一番の、そして戦士としての敬意を含んだ獰猛な笑みが浮かぶ。
アイクはゆっくりと腰を落とし、剣を正対させた。鞘を捨て、抜かれた白銀の刃が月光を吸い込んでより一層鋭く研ぎ澄まされる。
「いくぞ!」
アイクの一歩。
それは、重力を無視したような加速。もはや“柔”を介在させない、破壊のみを目的とした純粋な一閃が、夜闇を切り裂く。
剛の頂を目指す二人の、本当の戦いがここから幕を開ける。




