20話 「影の追跡」
地響きのような大歓声が、遠くヒナカミ城の石壁を震わせる。
だが、城の裏手にある回廊に一歩足を踏み入れれば、そこは耳が痛くなるほどの静寂が支配していた。
ミヅキは気配を消し、影のように古い塔の梁を渡る。一回戦で見せた“速さ”は、今は潜入のための“無音”へと変化していた。
足元に落ちる淡い月光が流れていく様を感じながら、父カゲツの言葉を呼び起こす。
(影は敵を欺くものではなく、自分自身を隠すためのもの……。父上、見ていてください。この剣は、大切な人たちの未来を繋ぐためのものです)
ミヅキは静かに息を吐き、刀の重みを確かめた。
会場ではヤマトやアイクが舞台を沸かせている歓声が遠くで聞こえている。そうして観衆と警備の目を釘付けにしていることだろう。二人が作ってくれたこの「空白」を、無駄にするわけにはいかなかった。
(……いた。やはり、あそこだ)
古い塔の最上階。開け放たれた窓辺に、その人影は立っていた。
笠を深く被り、微動だにせず将軍の観覧席を見下ろす姿。その身から漏れ出る殺気は、冬の夜風よりも冷たく、鋭い刃そのものだった。
ミヅキは一歩踏み出し、一気に距離を詰める。
「そこで何をしているのですか?」
ミヅキが不意に声をかける。
しかし、話しかけられることが分かっていたかのように沈黙している。
こちらを一瞥することもなく、ただただ将軍の観覧席を見下ろしていた。
《水月流・瞬月――!》
銀の軌跡が闇を切り裂く。
だが、相手は振り返りもせず、背後からの刃を抜き放った刀で完璧に受け止めた。
火花が散り、衝撃が塔の屋根を震わせる。
「……水月流をよく継いでいるな、剣神カゲツの娘。だが、踏み込みが少し甘いな」
笠の下から響くのは、氷の芯を思わせるほどに冷たく、そしてどこか哀愁を帯びた女性の声だった。
ミヅキはその気配に、かつて父が語った伝説を重ねる。
「影神の一番弟子……ルエット。貴女ですね」
ルエットはゆっくりと笠を外し、その素顔を晒した。 顎のラインで切り揃えられた、漆黒の髪型。
影神の門下生として、一分の隙も、髪一筋の乱れも許さぬ実戦本位の短髪が、彼女の冷徹な瞳をより一層際立たせていた。
「なぜ……将軍様を狙うのです。貴女ほどの御方が、なぜこの国の象徴を殺そうとするのですか!」
ミヅキの問いに、ルエットは嘲笑で応えた。
「象徴、か。ミヅキ、お前はこのヒナカミの平穏が、何によって支えられていると思っている?……そして、大陸の帝都にある『断律球』が、なぜ数百年もの間、龍の残滓の力を抑え込めているのかを」
ミヅキは呼吸を止め、相手の言葉を待った。
「かつて、このヒナカミで『龍の痣』を持ちながら、力を発現させぬまま大陸へ渡った者がいた。私の祖先だ。ヒナカミの平和を願った彼女は、将軍家に『大陸との共存の道を探れ』と体よく追い出された。だが、それは大陸側への体面を保つための生贄に過ぎなかった」
ルエットの瞳に、暗い炎が宿る。
「辿り着いた大陸で、信じていた故郷の将軍家から『そのスキル持ちを差し出せば、ヒナカミの鎖国を認めてやる』という密約の文面を……彼女は見つけてしまったらしい。結果、理由は不明だが急にスキルが発動、そして封印され、その生命力は『封律塔』の底で断律球を支えるための生贄――永久の生ける屍として、今も吸い取られ続けているのだよ」
「……っ、そんな……そんなことが……!」
ミヅキは戦慄し、刀を握る指先がわずかに震えた。
ヤマトから聞いていたカレンの現状――何者かに連れ去られ、龍を信仰する旧セリフィア領の付近のどこかへ連れ去られた可能性が高いという事実。
(……カレン様が連れ去られたのは、偶然じゃない。龍を信仰する者たちが、宗教的な象徴として彼女を奪った。……けれど、それを追う帝国側もまた、彼女を一人の人間としては見ていない。第一の目的は、世界の危機を招くスキルの阻止。だけど、もし発動してしまったなら……)
ルエットの語る凄惨な歴史が、ヤマトから聞いていた「旧セリフィア領付近での不自然な失踪」という事実と重なり、一つの最悪な仮説をミヅキの脳内に結ばせた。
帝国が賞金を懸けてまで彼女を追うのは、世界の安定という大義のため。だがその裏で、将軍家は最悪の事態――スキルの発動が起きた際に、彼女を「スペア」として生贄に供することを、外交的な保身のために黙認し、合意しているのではないか。
(この国の将軍家も、彼女が生贄にされる未来を、世界の安定のための『必要悪』として認めているというの……?)
脳裏を掠めるのは、激しく、そして苦い葛藤だった。
ルエットの言う通り、将軍を討ち、この腐った密約の連鎖を断ち切れば、カレンが「スペア」にされる運命だけは回避できるのかもしれない。
自分は何のために、今この女性を止めているのか。
だが。
(……いいえ。そんな血塗られた救済を、ヤマト様もアイク様も望まない。憎しみの連鎖で守った未来に、救いなんてない。カレン様の笑顔は、そんな場所にはない……!)
ミヅキは震える唇を噛み切り、溢れそうになる揺らぎを剣気に変えて一歩踏み出した。
「……あなたの絶望は、理解しました。この国の平穏が、誰かの犠牲の上に成り立つ歪なものだということも。けれど……!」
ミヅキの瞳に、宿命を切り裂くような強い光が宿る。
「復讐のために誰かを殺し、その上に築く未来に、カレン様の本当の居場所はありません。私は……あなたのやり方ではなく、私の、私たちのやり方で、カレン様もこの国の哀しみも救ってみせます!」
「……理解した上でなお、その理想を口にするか。ならば、その青い正義ごと、ここで断つ。お前の眼差しが、この国の深淵に飲み込まれる前にな」
ルエットの短刀が霧のように溶け、ミヅキの周囲を包み込む。
視覚も音も闇に吸い込まれていく中、ミヅキは目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
(ただ、源流を感じる……流れを見極めよう)
闇の中から放たれる刺突。
ミヅキはそれを最小限の動きでいなし、霧の向こうにある「核」を捉える。
アイクと鬼神グエンが試合会場で暴れている地響きが、塔の床を通して伝わってくる。
《水月流・瞬月――!》
銀の軌跡が霧を切り裂き、ルエットの腕を掠め赤く染めた。しかし、同時にルエットのカウンターがミヅキの肩を深く切り裂く。
「……くっ」
「……思ったよりやるな。だが、まだだ。」
ルエットは滴る血を気にする様子もなく、冷徹な視線をミヅキへ向けた。
「お前の『正義』がこの国の闇を照らせるか、あるいは先に飲み込まれるか……。影の中で見極めさせてもらおう。……邪魔立てするなら、次は斬る」
それ以上の言葉を費やす必要はないと言わんばかりに、ルエットの気配が急速に希薄になっていく。
追撃を仕掛けようとしたミヅキだったが、肩の傷からくる激痛と、ルエットが放った強烈な目眩ましのような霧に阻まれ、一瞬視界を奪われた。
霧が晴れた時、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、窓から吹き込む夜風だけが、彼女の消えた痕跡を消し去るように回廊を吹き抜けていく。
ルエットは窓の外、広大な城の闇へと溶けるように消え去った。
ミヅキは激痛に膝をつく。逃げられた。
(逃げられた……。でも、彼女は消えたわけじゃない。きっとこの会場のどこか、誰の手も届かない影の中に潜んで、あの人を……将軍様を狙っている)
(ヤマト様、アイク様……。私たちが救うべきなのは、カレン様だけじゃない。……この国の、出口のない哀しみそのものなんですね)
遠くから、さらに大きな歓声が響いてくる。
準決勝。アイクが、鬼神グエンへと挑んでいる鼓動だった。




