13話 「ヒナカミ到着」
船が安定した律の領域を離脱して半日。貨物船「暁の女神号」は、地図にも正確に記されないヒナカミ海域へと深く分け入っていた。
ヤマトは船室で、老船長が持つ古い海図と、自身の《記憶階梯》の予測データを照合していた。
「律の流れが複雑すぎるな。ベテランの勘でも、この不規則な律の奔流に耐えられるのには限界がある。このままでは、いつ航路を完全に失うか、律の渦に呑み込まれる」
アイクは甲板の手すりを握りしめていた。周囲の海は、奇妙な色を帯びていた。時折、海面がまるで鏡のように滑らかになり、次の瞬間には、規則性のない大波が船を襲う。
「これが律が不安定な海域か……」
アイクが呟く。
アイクの身体は、律の激しい変動に対し、微かな拒絶反応を示していた。律が強くなると身体が重くなり、弱まると力が逃げていくような感覚だ。
これは、彼の《至高の法典》の規格外の《星幽容量》が、不安定な環境律と強制的に同調させられようとする痛みだった。通常の異能者のように律を“利用”するのではなく、“支配”しようとするアイクの力は、外部の混沌とした律と衝突する際に、激しいフィードバックとして肉体に負荷をかけていたのだ。
アイクの帝都での訓練は、この激しい律の拒絶反応に対し、動作を維持するための絶対的な身体制御を可能にしていた。
「ここら辺の海域が一番身体に堪えるな。しかしヒナカミに着き律が完全に消えたら、俺の能力はどこまで通用するんだろうな」
アイクは、自身の剣と身体にのみ頼る極度の緊張感を胸に抱いた。
その時、船体が大きく傾いた。船長が叫ぶ。
「来たぞ!律の乱高下だ!舵が利かねぇ、船がどっちに流されるかわからん!」
周囲の海域の律が臨界点を超え、予測不能なエネルギーの乱れとなって船を翻弄しようとしていた。この不規則な流れに一度捕まれば、船はたちまち航路を完全に失い、遭難するか、海中に引きずり込まれる。
ヤマトは船室から飛び出し、アイクの隣に立った。荒れ狂う不規則な律の干渉がヤマトの全身の皮膚を圧迫し、寒気を感じさせる。
「船長!進路を南西に二度!今から三秒間だけ、全舵を切り込め!」
「馬鹿を言え!そんな急な転舵は船体が持たねぇ!」
船長は怒鳴り返した。
「船体は持ちます!このルート以外に回避座標はありません!自分のスキルは、この状況の物理演算を瞬間的に行います。その計算結果に、誤差はゼロです。三秒後の転舵が、この船の物理的な限界を超えない唯一の経路です!五秒後に、船体構造に致命的な負荷がかかり、制御不能のまま海中に引き込まれます!」
ヤマトは感情を一切排した、超高速演算の結果だけを突きつけた。
ヤマトは感情を一切排した、数値の絶対性だけを突きつけた。彼の視界の無数の警告を無視し、ただ一つの最適解を信じている――
船長はヤマトの瞳の奥にある、絶対的な数値の確信に呑まれ、“これまでの乱高下とはレベルが違う”ことを直感し、己の老獪な操舵技術に全てを託し、血の気を失いながらも操舵輪を握った。
その間、アイクは船体に襲いかかる奔流に対峙した。彼は剣を抜かず、《至高の法典》の力を、船体に沿って最小限の出力で展開する。
「《星幽零式》は危険すぎる。(不安定な律をゼロ化すれば、その絶対的な真空を埋めようとする反作用で、周囲の混沌が暴走する...。) …今必要なのは圧倒的な力ではない。最小限の制御だ!」
《至高の法典》の本質は、律の支配にある。
アイクはその能力の最小限の領域支配力を引き出し、船体に対して“干渉を拒絶する”という極小の裁定を一時的に重ねた。アイクは自身の膨大な《星幽容量》を、自らの内側に力ずくで押し戻し、船体への過剰な干渉を強制的に押し返すことに集中した。
彼の額には、極限の精神集中による汗が滲む。
これは、彼の最も苦手とする“力の精密な調整”を、帝都での二日間の訓練で獲得した身体への絶対的な規律によって無理矢理成し遂げようとする試みだった。彼の防御は船体に張り付く薄い障壁となり、一瞬で崩壊したが、その崩壊までの僅か零コンマ数秒の猶予が、ヤマトの計算した回避軌道に乗るための全てだった。
ヤマトの指示通り船長が舵を切った直後、船は奔流の横をすり抜け、不安定ながらも航路を確保した。
「...ちくしょう、助かったぜ」
老船長が操舵輪に額をつけ、荒い息を吐いた。
「わしはもう何十年とこの海を渡っているが、今回は過去最大だ。いや、最大なんてものじゃない。わしの“勘”でも想定できない範囲だった。二人がいなければ、今頃は海の藻屑だ。本当に助かった。」
「結果は、計算通り、航路を確保しました。船長の操舵技術が、誤差ゼロの経路を現実にした。そして、アイクの律の制御が、船体の崩壊までの猶予を作った」
ヤマトは冷静に、濡れた髪を払いながら答えた。
「自分の力を、破壊ではなく、この船を守るために使えた。その精密な制御をやり遂げられたことに、大きな意味を感じます。ですが、船長がおっしゃる通り、この先の律はもっと不安定になる。気が抜けません。」
アイクはそう言いながら、まだ律の反作用で重い身体を支え、強く頷いた。
「若いのに大したもんだ。よし、飯でも食って、ヒナカミ上陸に備えよう。礼を言うのはこれきりだ」
船長は二人を見て、深く息を吸った。
そして数時間後、海は徐々に穏やかになった。
同時に、二人にとっての世界の“律”の感覚が急速に希薄になり、やがて完全に感じられなくなった。
ヤマトもアイクも、自らのスキルが全く発動できない状態になったことを無言で確認した。そして、水平線の彼方に、異質な島の影が浮かび上がった。
それは、帝都で知られる秩序だった石造りの建築物とは全く異なっていた。島影には、天然の巨木と、それに寄り添うように建てられた薄墨色の瓦屋根や白壁の土蔵が連なっていた。遠目にも、木組みの家屋が密集し、細い路地が複雑に入り組んでいるのが見て取れる。
ヤマトの脳内で、瞬時に《記憶階梯》の情報が照合された――。
彼の意識の中で、この情景は幼い頃に歴史の勉強で見た資料映像や、昔見ていたテレビで見た「江戸時代」の風景と瞬時に重ね合わされた。彼の演算は、この景色が、龍が律を三度切り裂く以前に存在した文化形態と完全に一致していることを証明していた。
(龍が律を切り裂く以前に、確かに存在した風景。この国こそ、あの封印術式の知識を提供した祖先の国...。この律の根源が断たれた古い場所が、カレンの逃亡の行き着いた先なのか。)
「あれがヒナカミ国……」
「律が全く感じられねえ... この律が定まる以前の、古い場所が、カレンの逃亡の行き着いた先なのか。」
アイクは、故郷とは全く異なるその景色を前に、緊張と決意を新たにする。
ヤマトは背負っていたリュックから、現地で必要となる偽造文書と少量の古銭を取り出した。
「律が不安定な海域を越えた。ここは律の制度が及ばない、“律の外側”の世界だ。ここからは、帝都の常識は通用しない」
船は静かに、島の小さな港を目指して速度を落としていく。
二人の新たな旅が、今、始まる。




