10話 「ボートの行方」
「ここだ。律式の残滓が途絶している」
ヤマトは、帝都から南へ続く広大な河川の河口近く、泥と砂利が混じる浅瀬で動きを止めた。周囲は人気のない荒涼とした土地で、遠くには広大な山脈が連なっている。
アイクは目の前の光景に息を飲んだ。
小型のボートが、激しい勢いで浅瀬に突っ込んだのか、船底を深く食い込ませて完全に動けなくなっていた。船体の横には激しく擦った跡が残り、船内は乱雑に物が散乱している。
「カレンの使っていたものに間違いないか?」
アイクが問う。
「ああ。船体の律式残滓の波長は、間違いなくカレンのものだ」
ヤマトはボートの船首に触れ、律式のデータを解析する。
(律式は、使用された後も「法則の書き換えの痕跡」として物質や空間に微細に残る。これが律式残滓だ。異能者(スキル使用者)の律式は個人特有の波長を持つため、物体に触れたり能力を使用したりすると、指紋のように痕跡を残していく。しかし、この残滓が追跡に利用できるのは、使用から極めて短時間、または直接接触した物体に限られる。それ以上は、自然律に拡散し、観測不可能になる)
(つまりボートを降りてからは観測不可能になる。このボートはカレンが乗っていた証明に過ぎない。ここからの追跡は、物理的な痕跡に頼るしかない)
「乗り上げ方は強引だ。この場で動く術を失い、やむを得ず陸路を選んだ可能性が高い」
アイクはボートから川岸へ続く、泥に残された小さな足跡を追った。ヤマトは、その足跡周辺の泥に、ごく微弱なカレンの律式残滓が付着していることを確認する。律式は弱々しいものの、その軌跡は川から陸地へ向かっていた。
しかし、その足跡は、数百メートル先の山脈へと続く森の入り口で、一度激しく乱れ、小さな身体が倒れたような跡を付けていた。川岸の砂地から、地面が次第に草と土に変わっていったため、その倒れた跡から先は、物理的な足跡を追うことが不可能になった。
「ここで力尽きたか……だが、どこへ行った?」
アイクが焦りを見せる。
「待て。よく見ろ」
「カレンの足跡はここで消えているが、別の痕跡がある」
ヤマトは冷静に地面を指差した。
ヤマトが示したのは、カレンが倒れた跡を取り囲むように残された、草が深く踏みしめられた跡だった。
「これは……大人の足跡か? それも一人じゃない」
「ああ。少なくとも二人以上の人間が、倒れたカレンに近づき、そして森の奥へと戻っていった形跡だ」
「カレンは消えたんじゃない。何者かに連れていかれたんだ」
ヤマトは鋭い視線を森の闇に向けた。
ヤマトは森の奥を見据えた。「そして、この足跡が続く先は、かつて“宗教領セリフィア”と呼ばれた土地だ。
「つまり、そのセリフィアの連中がカレンを連れ去ったと?」
アイクは険しい顔でヤマトに問うた。
「確率は極めて高い。この地は、かつて龍を神と崇めたとされる宗教の中心地だ。彼らが崇める龍は『世界の法則を創った存在』であり、その龍の力は『律を壊すもの』としても全世界で恐れられてきた」
「そして、カレンが持つ『龍痣』は、『律を壊す者』の証として、この地にも伝承として強く根付いている。この地で龍痣を持つ者を放置するはずがない。何者かが、カレンを特別な存在として保護し、森の奥へと連れ去った可能性がある」
ヤマトは静かに、しかし明確な声で続けた。
「この森の奥へ向かったのか、あるいは近隣の街へ運ばれたのかすら、現時点では断定できないが、我々は物理的、情報的にも、ここで完全に追跡の糸口を失った」
ヤマトは厳しい表情でアイクを見つめる。
アイクはヤマトの冷静な分析を聞き終えるや否や、剣に手をかけ森へ突入しようとする。
「待て! 情報が足りない。このままでは、手がかりのない闇雲な行動になる。非効率だ」
「非効率? カレンの命が懸かってるんだぞ!」
「だからこそ、感情に流されるな。手がかりが途絶した以上、一度体制を立て直す必要がある」
アイクの怒りとヤマトの理性がぶつかり合い、二人の間に重い沈黙が降りた。彼らの追跡は、このセリフィアの境界で、完全に停止したのだった。
――アイクとヤマトがセリフィアの境界で立ち往生する頃――
ボートが浅瀬に乗り上げた数日前、カレンは—
そこには、記憶の全てを失い、自分が何者なのかさえわからない一人の少女がいた。わずか五歳の幼いカレンである。彼女の名前さえ、恐怖で凍りついた幼い心は思い出せずにいた。
カレンは、なぜ川を下っていたのか、なぜこの小さなボートに乗っていたのか、全く分からなかった。あるのは、“逃げなければならない”という本能的な叫びと、時折脳裏を過る光と炎の断片的な残像だけだった。
ボートが浅瀬に乗り上げ、動かなくなった瞬間、カレンはボートを捨てるように降車した。彼女の幼い身体を薄く覆っていた無意識に発現した防御の律式の残滓は、心身の疲労とショックとともに、川岸で完全に消え去った。
数歩、森へ足を踏み入れたとき、彼女の目の前に、巨大な岩を彫り抜いた龍の頭が、森の闇の中から姿を現した。
カレンは、龍を神聖視する旧宗教領セリフィアの跡地に潜む集落の住人たちに発見された。その集落は森を越え、深い山脈の谷にあり、蒼龍の里と呼ばれていた。この部族は森の中にひっそりと暮らしており、自然と隠れるのに向いている土地柄だった。
彼女が目を覚ましたのは、土壁に囲まれた静かな部屋だった。部屋の中央には、集落の信仰の象徴である龍の鱗を思わせる深い青の石が置かれていた。部屋の空気は香木の微かな煙で満たされており、外界の喧騒とは隔絶された、時間の流れが止まったような独特の静寂があった。
部屋の戸が開き、巫女のような装束を纏った老女、集落の長老「蒼龍のハク」が入ってきた。その後ろには、顔に泥で複雑な紋様を描いた数人の村人たちが続き、彼女の姿を見るなり、音もなくその場に平伏した。
ハクは彼女の横に静かに座り、その痩せた手でカレンの額に触れた。
「恐れることはない、我が子よ。ここは、龍神の御懐。追っ手の律式も、外界の穢れた手も、ここにまでは届かぬ」
彼女は、ハクの言葉の意味を理解できなかった。ただ、その手から伝わる古びた熱と、周囲の部族たちの視線が、幼い心に重くのしかかった。
「...わ、たし、だれ?」
絞り出すような、か細い声だった。彼女は自分の口から出た言葉を、初めて聞く他人の声のように感じた。
住人たちは彼女を介抱する際、彼女の幼い背中に鮮明な「龍痣」があるのを発見する。この国に伝わる龍神の伝説に登場する「導きの印」そのものであった。
ハクは深く頭を垂れ、その老いた顔に狂信的な歓喜を浮かべた。
「私たちは、そなたを『導きの印』を持つ者として匿う者だ。そなたは、この集落を、このセリフィアを救う神の子なのだ」
里の者たちは、彼女を神の再来と見なし、崇拝の眼差しを向けた。 食事として運ばれてくるのは、山菜や川魚を丁寧に調理した最高のもてなしだったが、それを運ぶ者の手は震え、決して彼女と目を合わせようとはしなかった。
窓の外に見える風景も異様だった。巨木と一体化した苔むした住居群、絶えず祈りを捧げる声、そして空を覆う鬱蒼とした樹冠が、太陽の光さえも緑色に染めていた。
それは温かい保護であると同時に、彼女を集落の未来を担う祭器として扱う、逃げ場のない隔離を意味していた。
記憶を失った彼女は、彼らの信仰の対象として、外界から完全に遮断された。彼女は、部屋の中央に置かれた青い石を見つめる。その石は、まるで龍の目が彼女を監視しているかのように、静かに、そして冷たく光を反射していた。




