第7話 研鑽と代償
握りしめた薬草の重みは、希望の手触りに変わっていた
びょういんの室内は、いつにも増して静かだった。窓の外では木漏れ日が揺れ、部屋の中央に据えられた調合台には、複数の小瓶と道具が並んでいる。
リーナはその中央で黙々と手を動かしていた。精製用の鍋に少量の水と浄化済みの藍苔草、さらに法術憲章に記された三種の素材──「銀灰粉」「月影樹の樹液」「温鉱塩」を慎重に加えていく。
「……温度は、このくらい。かき混ぜる回数は……七回」
小さく呟きながら、鍋底を静かにかき回す。青みを帯びた液体がゆらぎ、やがて深い藍に、淡い金の光が溶けるように混じっていった。
「先生、お願いします」
リーナが小瓶に取り分けた魔法溶液を差し出すと、ベッドにいたレインがゆっくりと起き上がり、無言で頷いた。体調はまだ戻っていない。それでも、彼は両手を組み合わせるように構え、魔力を集中させた。
「──“転写”」
淡い光が、薬瓶に宿った。レインの青い魔力が、液体の中へと染み込んでいくように広がり、小さな瓶が柔らかく輝く。
彼らが用意した毒の標本──毒が染み込んだ綿布の一角へ、その薬液を一滴、垂らす。じわ……と、布が淡く発光し、毒素が分解されていく。
「……浄化された!」
リーナは息を詰めて時計を確認し、薬液を使った綿布を一分ごとに取り替え、同じ反応を五回繰り返した。
(これで五回目……)
しかし、五枚目の綿布に薬液を垂らすと、布地は一瞬だけ光りかけ──すぐに毒の紫色がそのまま残った。
「……うそ、消えない!?」
リーナは愕然として布を見つめた。毒素は分解されなかった。つまり、この薬液の効果は──。
「五分……たった五分しか保たない……!」
レインが険しい表情で布を見下ろし、拳を握る。
「これじゃ……街まで薬を届けられない。ましてやいつ使うかわからない状況で使う解毒薬としては……無意味だ」
彼の肩が静かに上下していた。魔力の使いすぎで、すでに限界は近い。それでも、諦めようとはしなかった。
「もう一度……もう一回だけ試す……」
「先生、でももう……!」
止めようとしたそのとき、レインの身体がふらりと傾き、机に手をついた。
「……大丈夫……すぐ……」
最後の言葉は途切れ、彼はそのまま崩れるように床に膝をつき、意識を手放した。 深い眠りに落ちていくその姿を、リーナは駆け寄って抱きとめた。
「……先生……」
その頬は冷たく、呼吸は浅く。けれどその手は、最後まで瓶を離さずに握っていた。リーナは、そっと瓶を彼の手から取り、机に置いた。
──何度失敗しても、彼は諦めようとしなかった。ならば、今度は自分の番だ。
彼の寝息を聞きながら、リーナは再び法術憲章を手に取り、ページをめくった。
(どこかに、まだ道がある。必ず、転写を安定させる手がかりが──)
目元に疲れをにじませながらも、彼女の瞳は決して曇らなかった。
びょういんの灯りが落ちた室内で、リーナはただ一人、法術憲章と向き合っていた。ページの隅に記された注釈に、彼女の視線が止まる。
──〈媒介は“魔素濾過”による純化を施すこと。性質の残滓が濃度に干渉する〉。
(……藍苔草を、そのまま使ってた。だけど、本当に必要なのは……“魔素”だけ)
彼女は机の上の藍苔草を手に取ると、濾過用の布と蒸留器を用意した。藍苔草の繊維を潰し、特殊な温度で温めることで、草の内部に宿る魔素だけを抽出する方法──それは煎じ薬の技術と、古代法術に記された製法の融合だった。
「……少しでも無駄にできない。慎重に……」
彼女は蒸留された一滴一滴を慎重に集め、小瓶に溜めていく。 時間が経つごとに、瓶の中には藍色でも緑でもない、ほんのり光を帯びた透明な液体が蓄えられた。魔素だけが純粋に取り出された証だった。
そして、それに「銀灰粉」「月影樹の樹液」「温鉱塩」を少量ずつ加える。静かな混合音が響いた次の瞬間──それまでの薬液とはまったく異なる反応が起きた。
液体の中に淡い光が生まれ、波紋のように内側から広がっていく。面に浮かぶ光はやがて消え、深い蒼の透明な液体だけが、そこに残った。
(……成功、かもしれない……)
思わず唾を飲み込んだとき、背後で布の擦れる音がした。
「……リーナ……?」
レインがゆっくりと目を覚ましていた。顔色はまだ少し青いが、瞳の奥には意志の光が戻っていた。
「先生……! 今度こそ、試してもらえませんか」
リーナは、震える手で薬瓶を差し出す。レインは黙ってそれを受け取り、頷いた。
「わかった。やってみる」
彼は瓶を両手で包み、目を閉じた。呼吸を整え、魔力を集中させる。手のひらから青い魔力がじわりと流れ出し、魔法薬に吸い込まれていく──
「──“転写”」
瞬間、薬瓶が内側から輝いた。淡い光が瓶の底から浮かび上がり、まるで脈動するように鼓動を刻みながら、薬液全体に広がる。
レインは手を離し、しばらく息をついた。彼の掌から、確かな感触が去っていた──これまでとは、明らかに違う。リーナは毒の標本に魔法薬を一滴垂らし、毒素の反応を観察する。
五分──十分──三十分が経過しても、毒は完全に無力化されたままだった。
そして、半日後。再度検査を行ったリーナの顔に、信じられない表情が浮かんだ。
「……効能、残ってる。薬液の力が……まだ生きてる」
「本当に……?」
レインも起き上がり、手元の資料と毒標本を確認した。
たしかに、薬はまだ効果を保っている。 解毒能力も濃度も、落ちていない。──半日以上、薬として“機能し続けている”。
リーナは目にうっすらと涙を浮かべながら、微笑んだ。
「先生、やっと……これで、街の人を助けられます」
レインはゆっくりと息を吐き、空になった薬瓶を見つめる。
「……ああ。ようやくだな」
静かな朝の光が差し込む中、二人は並んで調合台に立った。遠く離れた誰かを救うための努力がようやく形になったのだった。
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