第6話 藍色
リーナは、かすかに身じろぎをして目を覚ました。
開け放たれた窓から吹き込む風が、ページをさらりとめくっていく。机に突っ伏して眠っていた彼女は、目をこすりながら顔を上げた。
「……あ……」
すぐ隣のベッドにレインが起きているのに気づいた。彼女はぱっと目を見開くと、急いで立ち上がる。
「先生っ! 目が覚めたんですね!」
レインは微笑みながら、静かにうなずいた。
「ああ……ようやく。半日以上眠っていたらしいな。……君も、ずっと隣で頑張ってたんだな」
「もちろんです。あのあと、気になる記述を見つけました。あの《法術憲章》に、“魔力を媒介に転写して保存する”技術が載ってたんです!」
リーナが勢いよく開いたページを指し示す。
羊皮紙の上には古代の術式構造が描かれ、現代語で補足が書かれていた。
「“魔術は、媒介を通して保持され、後に条件が整えば発動する”──。術の一部を記憶させ、あとは“起動条件”さえ満たせば発動できるみたいなんです。つまり、先生の癒しの魔術を保存して運ぶことも、可能なんじゃないかと……!」
リーナの目が輝いていた。その希望を受け取るように、レインもゆっくりと頷いた。
「なるほど……。まずは水を媒介にして、転写が可能か試してみよう」
彼はふらつきながらも立ち上がり、机に並べられた試験皿と水瓶に向かった。
魔力を練り、両手を水面に添える。詠唱は短く、集中は深く。癒しの力がじんわりと水へと流れ込んでいく。
──しかし。
「……っ、やはり……!」
水面がわずかに青く光ったかと思えば、すぐに沈黙する。魔力は定着せず、術式は拡散してしまった。
何度か方法を変えて、別の水に、異なる温度で、魔力の流し方を調整して……。それでも結果は変わらない。
「……はぁ……くっ……」
レインは力尽きたように床に膝をつき、そこからベッドに倒れ込んだ。
代償の眠気が、またしても彼を深く引きずり込んでいく。
「先生……!」
リーナは彼の肩に手を添え、すぐに毛布を掛ける。
その顔には焦りもあったが、それ以上に、何かを決して諦めないという決意の色が浮かんでいた。
彼女は机に戻り、再び《法術憲章》の解読を始める。先ほどの術式の前後のページ、同様の理論、失敗例、補足注釈──その一つ一つを目で追っていく。
そして、ページの端に書かれた細い注釈に気づいた。
「……“純水は不完全。魔力は繋留点を求めて散逸する。固定化には“精霊核”または“魔素溶液”の使用が望ましい”──!」
リーナの心が跳ねた。
(やっぱり……ただの水じゃダメだったんだ。魔術の“足場”になる素材が必要……!)
彼女は慌てて傍らの紙にメモを取り始めた。
“精霊核”はさすがに手に入らないが、“魔素溶液”なら──村の外れにある湿地帯の草から精製できる可能性がある。あとは、媒介となる容器、起動条件を設定する術式の修正……。
「……できる。まだ道はある……!」
窓の外には、少しずつ夕暮れが訪れていた。
けれどリーナの胸には、夜明けのようなひとすじの光が灯っていた。
朝靄の残る林を抜け、リーナは一人、湿地帯へと足を踏み入れていた。
足元はぬかるみ、時折膝まで沈むほどに湿った地面が広がる。だが彼女の表情に迷いはなかった。
(確か、このあたりに……)
《法術憲章》の注釈にあった“魔素溶液”の原料──「藍苔草」と呼ばれる草が、この湿地帯の奥、日陰に群生していると記されていた。
藍苔草は根に微量の魔素を蓄え、古代の魔法使いが“霊媒の補助”として用いたとされる希少な薬草だ。
ぬかるみを避けながら、慎重に斜面を登る。鳥のさえずりも聞こえない静寂のなか、じっと目を凝らす。
「……あった!」
木陰に寄り添うように、小さな群れで生えている深い藍色の草があった。葉の縁は銀色に縁どられ、指先を近づけると、かすかに魔力の反応が感じられる。間違いない。
リーナは手早く採取袋を取り出し、丁寧に一株ずつ根ごと抜いていった。
──その時だった。
足元の苔がずるりと滑った。
「きゃっ──!」
視界が傾き、重力に引きずられる。草の生えた崖のような斜面の先は、深い泥水の池。枝を掴もうとするが、指先は空を切る。
(まずい、止まれない──!)
心臓が跳ね上がったその瞬間──
「リーナ!!」
声が、風を裂いた。
リーナの手首を、誰かの手がつかんだ。
力強く、けれど優しく。滑り落ちる寸前で、その体は引き留められた。
「先生……!?」
振り向いた先には、泥だらけの外套に身を包んだレインがいた。額にはまだ寝汗の跡が残り、疲労の色も隠しきれていない。だがその目は、彼女を見つめていた。
「……ったく。何で、こんな無茶を……」
「先生こそ、寝てなきゃダメだったんです……!」
互いに言い合いながらも、リーナは涙ぐんだ。崖の縁までずり上げられたあとも、まだ心臓の鼓動は速いままだった。
「……心配させて、ごめんなさい。でも……どうしても手に入れたかったんです。この草が、きっと……“答え”の鍵になるから」
リーナの手のひらには、藍色の草がしっかりと握られていた。
レインはそれを見て、しばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「……よく、見つけたな。ありがとう。君のおかげで、きっと救える」
その言葉に、リーナは小さく、けれど確かに頷いた。
泥と汗と、安堵が混ざる中──二人は静かに、来た道を戻っていった。
握りしめた薬草の重みは、希望の手触りに変わっていた
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