第3話 癒しの可能性
朝霧が残る庭先で、レインは包帯を干していた。布巾を丁寧に洗い、木の枝にかけていく。その傍らで、リーナが朝食の支度をしていた。
「ねえ、レインさん。ひとつ、聞いてもいいですか。」
突然の問いかけに、レインは振り返る。リーナは鍋をかき混ぜながら、真剣な眼差しを向けていた。
「レインさんの魔術……“青魔法”って、どんな病気でも治せるんですか?」
「どんな病気でも?」
レインは少しだけ黙り、干しかけの布に視線を移した。朝霧の中で、わずかに吐く息が白い。
「……無理だ。俺の“青魔法”が効くのは、毒とか痺れとか、体の中で“異物”として認識できるものだけだ。炎症も、強いものなら抑えられる。でも……」
「でも?」
「骨折や外傷、内臓の病気、呪い、石化、魔術的な症状……そういうのには効かない。限定的な治療しかできないんだ。」
リーナは眉をひそめた。
「それって、じゃあ、本当に何でも“治す”ってわけじゃないんですね……」
「俺が使ってるのは、先祖が使っていた癒しの魔術の“ひとつ”だ。他にもいろんな種類があったらしい。出血を止める魔術、臓器を再生する魔術、呪いを解く術式……先祖たちは、それらを組み合わせて、どんな症状にも対応してた。でも今は……」
レインは自嘲気味に肩をすくめた。
「俺は“青魔法”しか知らない。他の魔術を使う方法も、学ぶ術も残ってない。誰も教えてくれないし、教えられる人もいない」
「……それって、悔しくないんですか。」
リーナの声には、どこか寂しさと怒りが混じっていた。
レインは静かにうなずいた。
「悔しいさ。でも、それが現実だ。俺はこの青魔法しか使えない。だから、今の俺にできる“目の前の命”を一つでも多く救うこと。それだけだ。」
俯くレインに、明朗なリーナの声が通る。
「よかった。」
「え?」
「やっぱりレインさん、誰かを助けたかったんだなって。」
屈託のない笑顔でレインの顔を覗き込んでくるリーナ。この少女にはやはり不思議と惹きつけられる。
「レインさん、今日のスープは昨日より“マシ”ですよ」
笑いながら差し出される鍋の匂いは、たしかに昨日より焦げていない。レインは少し顔をしかめながら受け取った。
しばらく無言の食事のあと、レインがふと顔を上げた。
「……なあ、リーナ。君は、なんであの時、あんな森の奥にいたんだ。」
「え?」
スプーンを口に運びかけたリーナの手が止まる。
「蛇に噛まれたあの日だ。普通の人間なら滅多に近づかない場所だった。理由もなく迷い込んだとは思えない」
リーナは少し迷ったように視線を落とし、火の揺らめきを見つめた。
「……父の遺したものを探してたんです。“ソワンの歴史”を。」
「“ソワンの歴史”?」
「父は生前、古代の癒しの魔術――ソワン族の記録を追ってたの。遺物を集めたり、古文書を翻訳したり……。でも、王都の学会では異端だって嘲笑されて、最後はアンティア教会に目をつけられて、研究をすることを禁じられました。」
「そうか……。」
「ええ。父が最後に残したのは一枚の手書きの地図。それには森の中に“真実の書”が眠っているって書いてあったの。でも怖くて、何年も踏み込めなかった……。」
言葉を失ったレインは、その瞳の奥にかすかな影を見る。
「もう一度、探してみるか。」
「え?」
「今なら、ひとりじゃない。」
その言葉に、リーナは少しだけ目を潤ませながら頷いた。
***
昼前、二人は簡易装備を整え、森へと入った。リーナの手には、古びた地図が握られている。かつて彼女が命を落としかけた森――その奥に、失われた知識が眠っているというのだ。
「この辺りです。父が記していた“古い樹の門”って……あっ」
目の前に、大地から裂けるように生えた二本の巨大な老樹が現れた。その根は絡み合い、まるで門のように道を塞いでいる。
「これか……父親の地図にあった場所」
「うん、間違いないです。奥に進んで――この岩を越えた先に……」
二人が進んだ先には、地面の一角が不自然に盛り上がっていた。土を払い、雑草を取り除くと、苔むした石板が現れた。中央には見たこともない文様が刻まれている。
「これ……何かの蓋か?」
「たぶん、地下室か隠し箱の入口。……よしっ、押してみましょう!」
二人で力を合わせて石板を押すと、重い音とともにそれはわずかに動き、下から空洞の気配が漂ってきた。
「これは……!」
中には布で包まれた書物が収められていた。古びた絹布の中から現れたのは、淡い青のインクでびっしりと記された書物。その表紙には、ひときわ精緻な文字が刻まれていた。
「《法術憲章》……?」
レインがゆっくりと声に出す。
それは、かつてソワン族が治癒魔法の理を記したとされる、魔術書だった。
「……でも、これ、題名以外全然読めない……」
リーナが眉をひそめる。
「古代ソワン語だな。俺も詳しくは知らない。文法も語彙も、現代語とはまるで違う」
二人はしばし沈黙した。だが次の瞬間、リーナはきっぱりと顔を上げた。
「……私、解読します。父の残した資料もあるし、考古文書の知識もある。時間はかかっても、必ず読めるようになります!」
「……無茶だとは思わないのか。同族の俺でも理解には時間がかかる。」
「それでも、やるしかない。だって――この本には、ソワンの歴史が、誰かを救える力が詰まってるんでしょ?」
リーナの目は、揺るぎない決意で輝いていた。
その表情を見たレインは、小さくため息をつきながらも、微かに口元を緩めた。
「わかった……じゃあ俺も、その間に“使える魔法”の精度を上げておく。どうせ眠くなるんだ、使うたびにな。」
「はい!ちゃんと枕用意しておきますね!」
そう言って笑う彼女の声は、森の奥に静かに響いた。
こうして二人は、“癒し”の可能性を手繰り寄せる新たな一歩を踏み出した。
――その手には、過去の真実と、未来への希望が確かに握られていた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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