第1話 青き異端と無垢な毒
森は、静かだった。 いや、静かすぎた。
小鳥のさえずりも、木々のざわめきもない。リーナは足元の草を踏みしめながら、周囲を見回した。リーナ=カルミア。亜麻色の癖がかった髪を振り乱し、ようやくのことでこの森の奥まで辿り着いた。
「……ここ、本当に地図に載ってないんだ。」
彼女の手には、古びた羊皮紙の地図。羽ペンで描き足された線と×印。そこに何があるのか、父は何も言わなかった。ただ、「ソワン族に関する何かがあるかもしれない」と、そう言い残しただけだった。
木の根をまたぎ、岩の陰を覗いたそのとき――
「……ッ!」
鋭い痛みが足首を襲った。目を落とせば、そこには鱗光る蛇。青黒い体色と逆立つ首。毒蛇だ。しかも、かなりの猛毒種。
「あ、や……ッ」
意識が遠のいていく。呼吸が浅くなる。視界が、歪んでいく。倒れた彼女の耳に、かすかな足音が届いたのは、直後のことだった。
* * *
青緑色のローブに身を包み、白銀の長髪を風に揺らした男は、静かに屈みこみ、リーナの足を見た。すでに腫れが広がり始めている。迷っている暇はない。
「……仕方がないな」
そう呟いた男は、手のひらをかざした。指先から、薄青い光がほとばしる。光は傷口に触れ、ゆるやかに染み込んでいった。腫れはみるみるうちに引き、血色が戻っていく。
男は無言で立ち上がった。だが、去ろうとしたその瞬間。
「……待ってください」
リーナの声が、震えながらもはっきりと届いた。彼女は、虚ろな目でその男を見上げていた。
「今……あなた……魔法、使った?」
男は口をつぐみ、目を伏せた。
「――違う」
「違わない。見たもん。あれ、癒しの魔法だった。青い光……青魔法。間違いない。あなた、もしかして――」
言葉が途切れる。だが、その先はすでに決まっていた。
「あなた、ソワン族ですよね!?」
沈黙。白銀の髪の奥で目が鋭くなる。
「……どうして、そんな名前を知ってる」
「私は、考古学者の娘なんです。遺跡や古文書を調べてて、ずっと興味があって……でも、ほんとに、ほんとにいたんだ……!」
ソワン。古代より医療魔術の使用に長けた部族の一つである。その力を用いて、これまでも多くの人々を傷病から救ってきた。現在ではその血筋も激減し、幻の部族とされている。
リーナは、息を切らしながらも笑った。命を救われたばかりの少女とは思えないほどの輝きを、瞳に灯して。
男は視線をそらした。いつものように、逃げるつもりだった。けれど、そのとき。
「あの!『びょういん』って、知ってます?」
「……は?」
「そっか、知らないですよね。傷ついた人を治療して元気になって帰ってもらうそんな場所なんです!もし……もしも、あなたがこれからも人を救えるのなら――私、一緒にびょういんみたいな場所を作ってみたいなって、思って!」
「……バカか。こんな世界で、そんなもん作ったら……」
「追われますか?異端として焼かれますか?うん、そうかもしれません。でも、今このとき、私、あなたに助けてもらって、生きてる。だから、誰かにもそれを届けたいんです。誰も悲しい思いをしなくていいように。」
その目は真剣だった。無鉄砲で、無防備で、でも嘘のない瞳。
深く、ため息をついて――。
「……お前と俺とは無関係だ。俺は偶然通りかかり、お前は偶然解毒された。ただそれだけだ」
「うんうん、わかってますー。でもとりあえず、名前だけ教えてください。」
「……レインだ。」
少女の不思議な圧力にその気もないのに応えてしまう。もしかしたらこれが少女の秘めたる力なのかもしれない。
「ありがとう、レインさん。私、リーナです。じゃあ、よろしくお願いしますね!」
まるで友達になったばかりのように、リーナは笑った。
「じゃあって、俺は何も了承して――。」
その直後だった。激しい眠気がレインを襲った。
(しまった!今ここでか――。)
視界はぐらりと揺れ動き、瞼を開けていられない、ゆらりと身体は地に落ちて、そのまま深い眠りについてしまった。
「え、レインさん?レインさんっ!!!」
* * *
ふわり、と鼻をくすぐる土と草の匂い。鳥の声が、耳に心地よく響いてくる。
レインは重いまぶたを持ち上げた。すぐ傍に、小さな焚き火の残り香と、ぐるぐると音を立てる鍋の気配。周囲には苔むした木々が並び、森の空気が濃く流れ込んできている。
「……また、やったな……」
呟いて、額に手をやる。あの癒しの“青魔法”を使った反動――強烈な眠気。今までも何度もあった症状だ。だが今回は、ひとつ違っていた。
「おはようございます!起きましたね!」
屈託のない声が、頭のすぐ上から降ってくる。木の枝から吊り下げた小さな鍋に何かをかき混ぜながら、リーナがいた。
「……なんで、お前がいる……」
「そりゃあ、助けてもらったご恩がありますし。レインさん、倒れたまま動かないから、仕方なく森の中に野営地作って……ごはんも作ってみました!」
目の前に差し出されたのは、正体不明の茶色い液体だった。
「……これは……。」
「美味しいスープ、のはず……です!きのことトカタ草と、あとちょっと野いちご……」
「絶対に“ちょっと”じゃないな、その色は……」
レインはため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。言葉を重ねれば、この少女にずるずると絡め取られていくような気がして。
だが、すでに遅かった。
「さて――”びょういん”、やっぱり作りましょう!」
やっぱり今日だけはもっと眠っていたかった。
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