第八話『黒薔薇の令嬢と、魔女の牽制』
フォルティス公爵一派が流した悪質な噂――「女王代理ルミリアは、邪悪な黒魔女に操られている」――は、まるで黒い染みのように、エルドラード王国の王宮内に、そして市中にまで、じわじわと広がり始めていた。貴族たちのルミリア・エル・エルドラードを見る目は日に日に冷たくなり、囁かれる陰口は、まだ幼い彼女の心を深く傷つけていた。
「ひどい……わたくしは、操られてなんかないのに……ノアは……怖いですけど、悪い人じゃ……」
執務室で、ルミリアはまたしても目に涙を溜めていた。気丈に振る舞おうとしても、向けられる悪意はあまりにも重い。
「ルミリア様、お気を確かに! そのような根も葉もない噂、気になさることはありません!」
侍女のエリーが必死に励ますが、彼女自身も悔しさに唇を噛んでいた。老宰相バルテルミも、噂の火消しに奔走していたが、一度広まった悪評を覆すのは容易ではない。
そんな重苦しい雰囲気の中、追い打ちをかけるように、その人物は現れた。
「ごきげんよう、ルミリア様。少しおやつにと思いまして、わたくしの領地で採れたばかりのベリーを持ってきたのですわ」
執務室の扉がノックもなく開かれ、そこに立っていたのは、フォルティス公爵の娘であり、ルミリアの従姉にあたるセラフィーナ・ド・フォルティスだった。歳はルミリアより三つほど上の十六歳。艶やかな黒髪を複雑に結い上げ、最新流行の豪奢な黒薔薇色のドレスに身を包んでいる。ルミリアとは対照的な、冷たい美貌の持ち主だ。
このエルドラード王国は、古くからの慣習で女王制が認められている。もしルミリアが戴冠式までにその資格を失えば、最も有力な後継者候補となるのが、このセラフィーナだった。そして、彼女の父であるフォルティス公爵が、それを画策していることは周知の事実だった。
「セラフィーナ姉様……わざわざありがとうございます……」
ルミリアは努めて平静を装い、礼を言った。しかし、セラフィーナの怜悧な灰色の瞳は、明らかにルミリアを見下していた。
「あら、またお顔の色が優れませんこと? 大丈夫ですの? 女王代理のお役目は、まだルミリア様には少し重すぎるのかもしれませんわねぇ」
心配するような口調とは裏腹に、その声には棘がある。
「もし、何かお困りのことがあれば、いつでもこのセラフィーナにお申し付けくださいませ。わたくし、ルミリア様のため、そして何より、このエルドラード王国のために、いつでもお力になる覚悟はできておりますから」
にっこりと微笑むセラフィーナ。その完璧な淑女の仮面の下に、隠しきれない野心と嘲りが透けて見えた。エリーは悔しさに拳を握りしめている。
「……ご心配、痛み入ります、姉様。ですが、わたくしは大丈夫です。宰相やエリーもおりますし、それに……」
ルミリアが言いかけた、その時だった。部屋の隅のソファで(いつの間にか持ち込まれた)菓子を食べていたノア・オブシディアが、すくっと立ち上がった。
「……なんだ、このキツネ目の女は。やけに偉そうだな。ルミィの知り合いか?」
ノアはセラフィーナを頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺め、紅い瞳を不快そうに細めた。
「あなたこそ、どちら様ですの? 平民のようななりをして、馴れ馴れしくルミリア様のそばに……。まあ、もしかして、あなたが噂の……?」
セラフィーナもまた、ノアの尋常ならざる雰囲気と美貌に一瞬怯みつつも、すぐにプライドの高い表情を取り戻し、探るような視線を向けた。
「いかにも、私がノア・オブシディアだ。この可愛いルミィの護衛(という名の飼い主)だ。何か文句でもあるか、キツネ目?」
「飼い主ですって!? 無礼な! それに、わたくしはキツネ目ではありませんわ!」
「ほう? そうか? だが、そのつり上がった目と、人を値踏みするような視線は、実にキツネそっくりだと思うがな」
ノアは悪びれもなく言い返し、セラフィーナの神経を逆なでする。二人の間に、バチバチと見えない火花が散った。
「な……! この……!」
セラフィーナは怒りに顔を赤くしたが、同時にノアから放たれる底知れない魔力のプレッシャーを感じ取り、本能的な恐怖も覚えていた。この女、ただ者ではない。父上が警戒するのも無理はない、と。
「まあ、いいだろう」ノアはふっと表情を和らげ(ただし目は笑っていない)、「客人をもてなすのも、保護者の務めかもしれんな。……おい、キツネ目。私の可愛いルミィをあまりいじめるなよ?」
ノアがセラフィーナに向かって、すっと指先を向けた。その指先に、小さな黒い炎がゆらりと灯る。
「次にルミィを泣かせたら……お前のその綺麗な黒髪を、一本残らず焼き尽くしてやろう。冗談ではないぞ?」
黒い炎は小さいながらも、凝縮された魔力が周囲の空気を歪ませるほどの威力を秘めているのが分かった。セラフィーナはゴクリと喉を鳴らし、顔を引きつらせる。
「……っ! 魔女風情が……! この国の次期女王となるかもしれない、このわたくしに……!」
恐怖を感じつつも、セラフィーナは強気に言い返した。しかし、その声はわずかに震えていた。
「ふん、次期女王ねぇ……。まあ、せいぜい頑張るがいい」
ノアは興味を失ったように黒い炎を消すと、再びソファに寝転がり、菓子を齧り始めた。
セラフィーナは屈辱に唇を噛み締め、ルミリアとノアを交互に睨みつけた後、「ごきげんよう、ルミリア様。くれぐれも、怪しい輩にはお気をつけあそばせ」と嫌味を残して、足早に執務室を後にした。
「…………」
嵐が去った後、部屋には重い沈黙が残った。
「あの、ノア……」
「なんだ、ルミィ」
「ありがとうございました……。でも、あんなことしたら、また叔父様たちが……」
「ふん、あの程度の小娘とタヌキ公爵が、何を企もうと関係ない。私がいる限り、お前には指一本触れさせん」
ノアは自信満々に言ったが、その紅い瞳の奥には、セラフィーナに向けたものとは違う、冷たく鋭い光が宿っていた。
フォルティス公爵と、その娘セラフィーナ。彼らの陰謀は、より明確な形でルミリアに迫ってきている。そして、ノアという規格外の存在が、その陰謀にどう影響していくのか。
王宮の闇は、さらに深まろうとしていた。
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