第七話『女王代理の奮闘と、魔女のまなざし』
昨夜、ノア・オブシディアが感じ取った一瞬の不穏な気配。それは朝になると跡形もなく消え去り、エルドラード王国の王城には、いつも通りの(と言っても、魔女が居候を始めてからすっかり様変わりしたが)一日が訪れた。しかし、ルミリア・エル・エルドラードと侍女のエリーの心には、漠然とした不安が残っていた。
それでも、感傷に浸っている暇はない。ルミリアには、女王代理としての重要な務めが待っているのだ。
「……では、この陳情についてですが、宰相。やはり、先の水害で被害を受けた東部地域への食糧支援を、早急に行うべきだと思います」
執務室で、ルミリアは宰相バルテルミと向き合い、真剣な表情で意見を述べていた。以前のように書類の山に埋もれて涙目になることは減り、少しずつではあるが、自分の言葉で国政に関わろうと努力している。
「姫様のお考えはごもっともです。民の暮らしを思うお気持ち、素晴らしい……。しかし、フォルティス公爵派の貴族たちが、この追加予算に素直に賛成するとは思えませぬ。彼らは、東部よりも自分たちの領地の開発を優先させようとするでしょう」
バルテルミは、ルミリアの成長を喜びつつも、現実の壁を説く。貴族たちの権力争いは根深く、民を思うルミリアの理想が、そう簡単に通るものではなかった。
「それでも……! わたくしが諦めたら、誰が苦しんでいる民を助けるのですか!? わたくしは、亡くなったお父様やお母様のためにも、立派な女王にならなくては……!」
ルミリアは声を震わせながらも、きっぱりと言い切った。その瞳には、強い意志の光が宿っている。バルテルミはそんなルミリアの姿に、今は亡き国王夫妻の面影を見た気がして、胸が熱くなった。
「……承知いたしました。このバルテルミ、全力で姫様をお支えいたします」
その様子を、部屋の隅に置かれた豪華なソファ(ノアがいつの間にか持ち込んでいた)に寝そべり、菓子を齧りながら、ノアが紅い瞳でじっと見ていた。
(……ふむ。ただの泣き虫かと思っていたが、案外、骨のある小娘かもしれんな。あの脂ぎったタヌキども相手に、よくやっている)
ノアは、ルミリアの健気な奮闘ぶりを、少しだけ見直していた。最初は退屈しのぎの可愛い玩具程度にしか思っていなかったが、その真っ直ぐさ、必死さ、そして時折見せる強さに、ノアの数百年凍てついていた心にも、何かが少しずつ変化し始めているのかもしれない。
ルミリアが政務で疲れ果て、執務室の椅子でうたた寝をしてしまった時。ノアは音もなく近づき、その小さな肩に自分のローブをそっとかけてやった。
「……ノア、様……?」
気づいたエリーが驚きの声を上げる。
「うるさいぞ、番犬。起こすな。……こいつは、少し休みが必要だろう」
ノアはぶっきらぼうに呟き、再びソファにごろりと寝転がった。その横顔は、いつもと同じように気まぐれに見えたが、どこか優しさが滲んでいるようにも見えた。
***
その日の午後、ルミリアは意を決して、ノアにずっと聞きたかったことを尋ねてみた。部屋で二人きり、ノアが新しいお菓子(また厨房から調達してきたらしい)を吟味している時だった。
「ノア……あの、よろしければ、教えていただけませんか?」
「ん? なんだ、ルミィ。この菓子が欲しいのか? やらんぞ」
「ち、違います! そうじゃなくて……! あなたが、どうして『厄災の魔女』なんて呼ばれるようになったのか……知りたくて」
ルミリアの真剣な問いかけに、ノアはお菓子を食べる手を止め、紅い瞳をわずかに細めた。
「……ふん。そんな昔話、聞いてどうする」
「知りたいんです! あなたのことを、もっと……!」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「……力は、使い方を誤れば容易く災厄を招く。私自身、かつて大きな過ちを犯した……のかもしれんな」
「過ち……?」
「あるいは、ただ、疎まれただけかもしれんがな。強すぎる力というのは、いつの時代も、凡俗な人間どもにとっては恐怖の対象でしかない。理解できぬものを恐れ、排除しようとするのは、人間の悪い癖だ」
ノアの言葉は断片的で、核心には触れない。彼女が本当に世界を滅ぼそうとしたのか、それとも力を恐れた者たちの陰謀によって封印されたのか、真実はまだ闇の中だった。もしかしたら、ノア自身も、その力の制御に苦しみ、自ら封印を選んだのかもしれない……そんな考えが、ルミリアの頭をよぎった。
「…………」
ルミリアは、ノアの瞳の奥に潜む深い孤独と悲しみを感じ取り、かけるべき言葉を見つけられずにいた。
***
そんな束の間の穏やかな時間の裏で、フォルティス公爵たちの陰謀は、より巧妙に、そして陰湿に進められていた。
「あの魔女め……度々我らの邪魔をしおって……!」
公爵は、度重なる暗殺失敗の報告に、苛立ちを隠せないでいた。
「力で排除するのが難しいとなれば、別の手を打つまで。……まずは、あの小娘の評判を地に落とすのだ」
公爵は腹心の貴族たちに命じ、「女王代理ルミリアは、邪悪な黒魔女に操られている」「国王夫妻の死も、あの魔女の呪いではないか」といった悪質な噂を、バルガの街中、そして他の貴族たちの間に流布させ始めたのだ。同時に、隣国との国境付近で小さな諍いを故意に引き起こし、外交問題へと発展させようとも画策していた。若き女王代理の手腕を試し、失敗すればそれを理由に退位を迫るつもりなのだ。
これらの不穏な動きは、すぐに宰相バルテルミの耳にも入ってきた。
「姫様、由々しき事態ですぞ……! 公爵め、今度はこのような汚い手を……!」
報告を受けたルミリアの顔は青ざめた。直接的な暴力よりも、こうした陰湿な罠の方が、今のルミリアにとっては遥かに堪える。また涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。
「わたくしは……操られてなど……!」
その時、部屋の隅で話を聞いていたノアが、静かに立ち上がった。その紅い瞳には、冷たい怒りの炎が揺らめいていた。
「……ほう。私の可愛いルミィに、随分とつまらん嫌がらせをしてくれるではないか、あのタヌキどもは」
ノアは窓の外、フォルティス公爵の屋敷があるであろう方角を睨みつけた。
「……やれやれ。少しばかり、お灸を据えてやる必要がありそうだな」
その呟きは、普段の気まぐれさとは違う、本物の「厄災の魔女」としての怒りを含んでいた。それは、ルミリアを守るための怒りなのか、それとも、自らの領域を荒らされたことへの不快感なのか。
いずれにせよ、王宮の闇はさらに深まり、ノアとルミリアは、新たな陰謀の渦へと巻き込まれようとしていた。
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