第一話『泣き虫王女代理と、開かずの間の魔女』
エルドラード王国は、悲しみと、そして不穏な空気に包まれていた。数ヶ月前、慈悲深い国王陛下と、太陽のように明るかった王妃陛下が、流行り病であまりにも突然、相次いで崩御されたのだ。王位継承者である第一王女、ルミリア・エル・エルドラードは、わずか十三歳という若さで、否応なく「女王代理」という重責を背負うこととなった。
広大な執務室。本来ならば父である国王が座っていたはずの、大きすぎる椅子にちょこんと座り、ルミリアは目の前の書類の山と格闘していた。プラチナブロンドの髪をきつく結い上げ、背筋を伸ばし、必死に威厳を保とうとしている。しかし、その空色の大きな瞳は不安げに揺れ、時折、きゅっと唇を噛みしめる。
(うぅ……まだこんなにたくさん……。難しい言葉ばっかり……)
専門用語が並ぶ羊皮紙の束に、ルミリアの涙腺は早くも限界を迎えそうだった。女王代理として、強く、立派でなければならない。分かってはいるけれど、本当は怖くて、寂しくて、お父様とお母様に会いたくてたまらなかった。
「ルミリア様、少し休憩なさってはいかがですか? 新しいハーブティーを淹れましたわ」
そばに控えていた侍女のエリーが、心配そうに声をかけた。エリーはルミリアが幼い頃から仕えている、姉のような存在だ。
「大丈夫よ、エリー。ありがとう。でも、わたくしが……わたくしがしっかりしないと、この国は……」
気丈に言い返すルミリアだったが、その声は微かに震えている。エリーは何も言わず、そっと温かいハーブティーを差し出した。その優しさが、今は何よりも心に沁みた。
両親の死後、宮廷内の空気は一変した。特に、ルミリアの叔父にあたるフォルティス公爵とその派閥の貴族たちは、幼い女王代理を傀儡にしようと、あるいはその座を奪おうと、虎視眈々と機会を窺っている。頼りになるのは、先代からの老宰相と、エリーを含む数名の忠実な侍従だけ。ルミリアは、華やかな王宮の中で、深い孤独を感じていた。
***
その夜。ルミリアは自室のベッドに入っても、なかなか寝付けずにいた。昼間の執務の疲れと、明日への不安が、重くのしかかってくる。
「眠れませんか、ルミリア様?」
隣室で控えていたエリーが、そっと様子を見に来てくれた。
「エリー……なんだか、胸騒ぎがするの……」
「大丈夫ですよ。わたくしがおりますし、衛兵の方々もちゃんと見守ってくださっていますから」
エリーは優しくルミリアを励ますが、その彼女の顔にも、隠しきれない不安の色が浮かんでいた。フォルティス公爵たちの不穏な動きは、エリーたち侍従の間でも噂になっていたのだ。
――その時だった。
パリンッ!!
突然、寝室の大きな窓ガラスが、何者かによって外から砕かれる音が響いた!
「きゃあっ!?」
「ルミリア様!」
エリーは咄嗟にルミリアを庇うように立ち塞がる! 月明かりを背に、窓から音もなく滑り込んできたのは、全身黒装束の、明らかに常人ではない気配を纏った男たちだった! 暗殺者だ!
「何者です! ここを女王代理殿下の寝室と知っての狼藉か!」
エリーは震えながらも、必死に声を張り上げる。しかし、暗殺者たちは無言のまま、冷たい殺意を漲らせて距離を詰めてくる。
「ルミリア様、お逃げください! 地下へ! 地下の『開かずの間』へ!」
エリーは近くにあった燭台を掴み、暗殺者の一人に投げつけながら叫んだ! 同時に、異変に気づいた数名の衛兵が部屋に駆け込んでくるが、暗殺者たちの数は多く、しかも手練れだった。剣戟の音が響き、短い悲鳴が上がる。
「エリー! いやっ!」
ルミリアは恐怖で足がすくみ、動けなかった。しかし、自分を守るために必死に戦うエリーと衛兵たちの姿を見て、涙ながらに叫んだ。
「ごめんなさい……! 必ず、助けを……!」
ルミリアは寝間着のまま、寝室を飛び出した! 後ろからは、複数の暗殺者たちが追いかけてくる足音が聞こえる!
「いや……! 助けて……! お父様、お母様……!」
涙で前が見えない。それでも、ルミリアは必死に走った。教わっていた秘密の通路を駆け抜け、冷たく湿った石の階段を下りていく。目指すは、城の地下深くにある、忌まわしい伝説と共に固く閉ざされた「開かずの間」。なぜエリーがそこへ逃げろと言ったのか、理由は分からない。けれど、今はエリーの言葉を信じるしかなかった。
息を切らし、転びそうになりながらも、ようやく辿り着いた重厚な鉄の扉。震える手で閂を外し、錆び付いた扉を渾身の力で押し開ける。
ひんやりとした、埃っぽい空気がルミリアを包んだ。中は真っ暗だったが、壁に備え付けられていた古びた魔法の灯りを灯すと、部屋の全貌がぼんやりと浮かび上がる。そこは広い石造りの部屋で、壁には意味不明な古い紋様が刻まれ、そして部屋の中央には――等身大の、黒曜石のような滑らかな黒い石で作られた、一体の魔女の像が安置されていた。
絶世の美女の姿をしているが、その表情は凍りついたように冷たく、どこか恐ろしげだ。長い黒髪が肩にかかり、紅い宝石が埋め込まれた瞳が、暗闇の中で不気味な光を放っているように見える。これが、エルドラード王国に伝わる、遥か昔に封印されたという伝説の「厄災の魔女」、ノア・オブシディアの像。強大すぎる力で世界を混乱に陥れようとしたため、当時の聖騎士と大賢者によって、その魂ごとこの像に封じ込められたのだと、ルミリアは子供の頃に聞かされていた。
(怖い……なんで、エリーはこんなところに……?)
伝説の魔女への恐怖と、追ってくる暗殺者への恐怖。二つの恐怖に挟まれ、ルミリアは完全に心を打ちのめされた。
ドン!ドン!ドン!
背後の扉を、暗殺者たちが叩き始めた! 扉をこじ開けようとする、金属の擦れる嫌な音が響く!
「姫様、どこにお隠れですか? 無駄な抵抗はおやめなさい……」
扉の向こうから、ねっとりとした声が聞こえる。
もう、逃げ場はない。
「う……うわぁぁぁぁん……!!」
ついに、ルミリアの堪忍袋の緒が切れた。その場にへなへなと座り込み、子供のように声を上げて泣き出してしまった。恐怖、孤独、絶望。全ての感情が、涙となって溢れ出す。
「誰か……助けて……! お父様……お母様……エリー……っ!」
しゃくり上げながら、ルミリアは目の前の魔女の像を見上げた。こんな怖い像しかないなんて。こんな時に頼れるのが、伝説の魔女だけだなんて……!
溢れ出した熱い涙が、ルミリアの頬を伝い、ぽたり、ぽたりと冷たい石の床に落ちる。そして、その中の一粒が――まるで運命の糸に導かれるように、ひんやりとした黒い魔女の像の、その足元に触れた。
その、瞬間だった。
ピシッ――
静寂の中で、何かが微かに軋むような音がした。
見れば、魔女の像の足元、ルミリアの涙が触れた箇所から、細い、蜘蛛の巣のような亀裂が走り始めていたのだ。そして、その亀裂から、禍々しくも美しい、深紅の光が漏れ出し始めていた――。
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